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外出を禁じられた姫の物語『塔の上のラプンツェル』を、いま大人にも勧める理由

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:ロイター/アフロ)

ディズニー『塔の上のラプンツェル』は外出を禁止された姫の物語

日本テレビ系列「金曜ロードSHOW!」では、ディズニーアニメ3週連続放送をやっている。

4月24日が『美女と野獣』、5月1日が『塔の上のラプンツェル』、5月8日が『トイ・ストーリー3』である。

ゴールデンウイークはもともとこの時期に映画興行へ多くの人がやってくるように名づけられた名前であるが、今年は映画館に出向くわけにはいかない。やっていない。

おうちで映画ということで、テレビでディズニー名作アニメを見るのにいい機会だろう。

『塔の上のラプンツェル』はとてもいい映画である。

子供はもちろん、この機会に大人にもぜひ見てもらいたい作品だ。

『塔の上のラプンツェル』は、塔の上に閉じこめられていたお姫さまが、塔を出て世界を知る物語である。みんなでがんばって「外出するのを我慢している」今だからこそ、見る価値の高い作品だとおもう。

設定だけ解説しておくと、主人公のラプンツェルはある国の王女で、不思議な力を宿す金髪を持っていた。悪い魔女・ゴーテルは、その金髪の力を独占しようとして生まれた直後の彼女を盗みだす。彼女は森の奥深く、誰も入ってくることのない高い塔の一室に隔離されて育てられた。そして18歳の誕生日に外に出たいとおもっていた。

それが物語の始まりである。

彼女はディズニープリンセスのなかでも、かなり不幸というか「とびぬけて不自由」な設定のお姫さまである。17年間、高い塔の中から一歩も出ずに暮らしていたのだから。

ただ彼女を不幸だとおもうのは、魔女の悪行を知っているからだ。ラプンツェルは何の疑問を抱かず暮らしている。素直で明るくていい子である。魔女ゴーテルを母だと信じ切っている。

彼女のこの屈託のない明るさが、物語を底抜けに楽しくしている。

幽閉の物語をいま見たほうがいいわけ

『塔の上のラプンツェル』はディズニーアニメのなかでもかなりレベルの高い作品だとおもう。

それはラプンツェルのキャラクターがとても魅力的だからだ。

歴代のプリンセスと比べても、その明るさと行動力は飛び抜けており、そしてどこまでも素直で可愛い性格が、とても愛らしい。

人は、幽閉され、小さい一室で17年間育てられても、ここまでまっすぐな人になれるかもしれない、そう信じさせてくれる物語である。

短い期間の外出自粛くらいで、明るさをなくすんじゃないぜ、と励まされてるような気になってくる。

だからこそ家に籠もったいま『塔の上のラプンツェル』を大人にも堪能していただきたいとおもう。

ディズニー映画にはたくさんのお姫さまが登場してくる。

「ディズニー・プリンセス」と呼ばれて一堂に並べられることもある。

彼女たちは少女の憧れる存在である。東京ディズニーランドやディズニーシーにいくと、プリンセスの格好をした小さい女の子をたくさん見かける。

昔からプリンセスは女の子のものだった。

でも、ラプンツェルはすこし違う。

彼女は男女の関係だけで生きていない。白馬の王子さまと出会って幸せな結婚することを人生の目標にはしていない。

21世紀のディズニーのプリンセスは時代を反映して、変わってきているのである。

ラプンツェルの抱いていた謙虚な夢

ラプンツェルの夢はとても、つましい。

「年に一度だけ上がるたくさんの空飛ぶ光(ランタン)を、ただ、近くで見てみたい」というものである。ディズニーの全プリンセスのなかで、もっとも謙虚な夢ではないだろうか。しかもその夢に対してさえ「近くで見てきれいじゃなかったらどうしよう」と不安を抱えている。元気で明るいのに、とても可憐である。

そこが魅力的だ。

彼女の夢が謙虚なのは、置かれている状況が本人が自覚しているよりはるかに過酷だからである。

そこには男だから女だから、という差はない。

男の子でも、おじさんでも、ラプンツェルを応援したくなる。

このアニメがディズニー作品のなかでもきわめてすぐれた作品だとおもうのは、そういう部分にある。

彼女は小さくつつましい夢のために、大胆な行動を起こし、それが彼女自身の世界を変えていったのだ。

ディズニープリンセスたちの特徴は「自由を求めるところ」にある。

夢を信じ、自由を求めて、立ち上がる。

20世紀アメリカを体現しているような存在である。

ディズニープリンセスは、何かしら「不自由」な境遇で生きている。

ラプンツェルの不自由さが飛び抜けているとおもうが、他のお姫さまも自分のおかれている状況に満足していない。

満足していない場所から、望んでいる場所へ向かうのが、彼女たちの物語である。

ディズニー・プリンセス人気の6人の姫とラプンツェル

「ディズニーのプリンセス」はたくさん存在するが、基本のプリンセスは以下の6映画6姫だと言えるだろう。

『白雪姫』(1937年)の白雪姫。

『シンデレラ』(1950年)のシンデレラ。

『眠れる森の美女』(1959年)のオーロラ姫。

『リトル・マーメイド』(1989年)のアリエル。

『美女と野獣』(1991年)のベル。

『アラジン』(1992年)のジャスミン。

(年はアメリカでの公開年)

これが20世紀アメリカを代表するプリンセスである。

いまだとこれに加えるなら『塔の上のラプンツェル』(2010年)のラプンツェルと、『アナと雪の女王』(2013年)のアナとエルサになる。すべて人気のプリンセスである。

(最近の公式HPを見ると、アナ雪の代わりに『モアナと伝説の海』(2016年)のモアナが入れられている。まあ、何かの都合なのだろう)

このうち「王の娘」(王女)ではないのが、シンデレラとベル。彼女たちは庶民であり、王子さまと結婚して、王家へ入ってプリンセスになる。

彼女たちは、それぞれに不自由であった。

「外出を自粛しよう期間」に「金曜ロードSHOW!」で放送された『美女と野獣』のベルもまたわかりやすい「不自由」だった。

彼女は父の身代わりとなって「野獣の王子が棲む魔法のかかった城」に幽閉される。彼女もまた、「閉じ込められた姫」であった(王子妃候補としての姫ですが)。

ただ、彼女は見かけの恐ろしい野獣王子と心を通わせ、解放された。

幽閉された状態は、人とのつながりを大事にすることで、終わりをむかえたのだ。

なかなかこの時期に示唆的である。

『白雪姫』は王女さまのはずなのに継母女王によって下働きの女としてこきつかわれて、まったく自由がなかった。

『シンデレラ』は裕福な家の娘なのに、継母とその連れ子によって下働きの女としてこきつかわれて、自由がなかった。憧れの舞踏会へ行くのさえも邪魔される。

『眠れる森の美女』のオーロラ姫は、呪いをかけられたため、生まれてすぐに誰も来ない森の奥深い場所に隔離され、誰とも会わずに小動物を友人として育てられた。(育てたのは妖精3人組)。

『リトル・マーメイド』は人魚王国の第六王女で、人間でないことが不満で、足がないことをとても不自由に感じていた。

『アラジン』のジャスミン姫は「次の誕生日までどこかの王子と結婚しなければいけない」という決まりが不満で、もっと自由に生きるのを望んでいた。

古いほうの3姫は、日本の年号でいえば昭和の姫で、あとの3姫が平成の(平成前期の)姫になる。

並べてみるとちょっと不自由さが変わってきてるのがわかる。

昭和のプリンセスは貧しさにつながるような不自由さであり、平成(前期)のプリンセスは現状に不満を抱いて飛びだそうとする不自由さである。

21世紀のお姫さまは王子さまとの恋に生きていない

そして、21世紀になって、平成後期のプリンセスとなるとまたちょっと変わっていった。

21世紀のプリンセスは「王子さまとの恋愛」にあまり重きをおいていない。王子さまと一緒になって幸せに暮らしました、という物語ではなくなった。たぶん、みんながそんなお話を求めなくなっているのだろう。

新しいヒロインは自分に正直に生きようとしている。

21世紀の幸せはそういう方向にあるようだ。

『塔の上のラプンツェル』は17年のあいだ塔の上に幽閉されていたラプンツェルの物語である。ずっと外出を禁じられていた女の子は、素直で可憐な子であった。抱いていた夢は控え目なものだった。

身のまわりの小さいことを、自分の願いとしたからこそ、彼女は世界を変えられたのだろう。

幽閉された女の子にとっては、まず手の届きそうなことを強く願うのが大事だったのだ。

彼女は一足飛びに上を目指す夢を持たない。

できなさそうだけど、がんばればできそうなことから始めていった。そしてそれが幸せな未来につながっていったのだ。

いろんなメッセージ性をふくんだ物語である。

映像がまたとびぬけて美しいアニメでもある。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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