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『鬼滅の刃』の人気は「死」の捉え方にある 大詰めを迎えた漫画が示す圧倒的な死生観

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

『鬼滅の刃』が大詰めである。

週刊少年ジャンプに連載されている漫画が急展開している。

『鬼滅の刃』200話での劇的な展開(ジャンプ最新話のネタバレです)

3月30日発売週刊少年ジャンプ18号で、『鬼滅の刃』は200回を迎え、巻頭カラーで掲載されている。

かなり劇的な回である。

単行本だけで漫画を追う人も多いだろうが、単行本がここまで追いつくのは少し先である。

単行本はいま19巻まで出ていて、5月1日に20巻が出る。

19巻は169話までなので、20巻に収録されるのは170話から178話あたりだろう。

178話だと“ラスボスのひとつ前の敵(上弦の壱)”との戦いが終わるところであり、まだ最終戦には入らない。

178話が掲載されたのは昨年(2019年)の46号、10月12日発売の号だ。

連載と半年くらいのタイムラグがある。

200話が入るのはこのままでいけば23巻で、売られるのは夏過ぎて秋になってからだろう。

半年のタイムラグができてしまうからしかたない(異様な人気なので少しは早められる可能性もあるとおもうが)。

以下大きくネタバレしますので、単行本派の人は読まないほうがいいでしょう。アニメ派の人も。

「死にゆく者の最後のおもい」を繰り返し描いた作品

200話で、いちおう敵の最後のボスが倒れた。

ほんとに倒れたかどうかはわからないが、いちおう倒したことになっている。タイトルも「勝利の代償」である。

(ただ、主人公の炭治郎の状態とともに、まだまだ意外な展開が残っていそうで、予断を許さない。というか予断を許したくない)。

200話は、いろんな人が一挙に描かれている。

悲鳴嶼(ひめじま)さんの力尽きているさまが描かれ、伊黒(いぐろ)と甘露寺(かんろじ)の会話が描かれる。不死川(しなずがわ)は弟と母の姿を見て覚醒する。伊之助と善逸はいつもどおりに暴れている。冨岡さんもいる。禰豆子(ねずこ)は走っている。(それぞれ主人公の味方です)。

こうやって並べてみると、たしかに終わりが近いのかもしれない。

そして、このなかでは、伊黒小芭内(いぐろおばない)と甘露寺蜜璃(かんろじみつり)の会話がとにかく泣けた。そうおもってる人も多いだろう。

二人は4ページにわたって話しつづけ、深いおもいが吐露されていた。いま書いていても泣きそうだ。蜜璃の叫びが胸に刺さったままだ。

あらためてこの激烈な回を読んで、『鬼滅の刃』は正面から「死」について描いてる作品だとおもいいたる。

「死にゆく者の最後のおもい」をこれほど繰り返して描いた作品はいままで見たことがない。

「死ぬ間際」を重点的に描いた作品として特異だとおもう。

人であっても、鬼であっても、死ぬ間際にはいろんなおもいがめぐる。その風景をせつなく描きつづけている。

200話もまた、死に際した人の心の動きを丁寧に描いている。

まだまだ生き続けるつもりだった者に襲いかかる「死」

鬼はもともと「不死の象徴」として描かれていた。

足や手を斬られたくらいでは鬼は死なない。ときに胴をまっぷたつに斬られても蘇生する。簡単には死なない存在だ。

いちおう首を斬り落とされると死ぬ、ということになっているが、一回斬り落とされたくらいでは死なない鬼も多い。

いっぽう主人公たちは人間だから、鬼にくらべてはるかに脆い。鬼の一閃であっさり死んでしまう。

なかなか死なない鬼と、生身で脆い人間が戦う姿が、「死」とは何かをつきつけてくるのである。

しかし鬼でも、死ぬ間際にいろんなことをおもう。

鬼はもともと人間であり、死ぬ間際だけは人間だったころのことをおもいだすのだ。

ここでは、「死」は「まだ生き続けるつもりだった」人をいきなり襲うのだということを示している。

予想してない死に見舞われ、意識がなくなる直前に、いろんなことを考えてしまう。

生き続けるつもりだったからだ。

どんな人も鬼も、死ぬと知るといろんな風景をおもいだしてしまう。

みんな薄れゆく意識のなかで、何かを考えて死んでいる。しかも考えてる途中で死んでいる。

死ぬとはそういうことでもあるのか、と、慄然とする。

この峻厳さゆえに『鬼滅の刃』は強く支持されてるようにおもう。

われわれはたぶん、死ぬ間際にいろんなことを考えてしまい、その考えさえも止めることができず、その途中で死ぬんである。

それは受け入れるしかない。

生きてるからこそ、そういう死を意識して過ごすしかない。

『100日後に死ぬワニ』と『鬼滅の刃』に共通するテーマ

「“死”は“まだまだ生き続けるつもりだった人”をいきなり襲う」というのは、『100日後に死ぬワニ』でも示されていたテーマである。

先々週、前々号(16号)のジャンプが発売されたあと、一緒にいた若者が、「そうかあ、無惨(むざん)より先にワニが死ぬのかあ」と言ったのが印象的だった。

3月16日のことである。

『鬼滅の刃』は198話。

敵の最終ボスである「無惨(鬼舞辻無惨:きぶつじむざん)」には毒が効き始め追い詰められていた。そろそろやっつけられそうであった。でも、この週は生き延びた。つまり次週の月曜までは死なないことがわかった(週刊誌連載ですから)。

そしてその週の金曜に『100日後に死ぬワニ』は100日めを迎えることになっていた。

われわれには、鬼舞辻無惨がいつ殺されるかはわからず、ワニ君が死ぬ日はわかっていたのである。

『100日後に死ぬワニ』は主人公のワニ君も、まわりの友人たちも、登場している者たちはだれもワニ君が死ぬことなど予想していなかった。

読者だけが主人公が死ぬことと、死ぬ日を知っていた。

『鬼滅の刃』と『100日後に死ぬワニ』はどちらも「いきなり死ぬということ」を描いた作品だった。

2020年の3月、われわれは同時にそれらに心奪われていたのだ。

「ふつうの日常」と「そこにいきなり切り込んでくるダークサイド」について、他人事だとおもいつつ、少し身につまされて考えていた。

疾走感のなかで「死」が語られる凄み

『鬼滅の刃』はずっと緊張が続いている。このまま大詰めになるのだろう。

これほど真剣に連載を追ったのはひさしぶりである。(200話は朝が待ちきれずに電子版で午前1時すぎにいちど買ってしまった。鬼滅だけ読んで寝て起きて、あらためて紙のジャンプも買いました)

『鬼滅の刃』がここまでの人気になったことに違和感を抱いてる人たちがそこそこいるようだが(漫画好きの若者に多い感じ)、それはこの漫画の設定や展開が特別なものではない、ということを示しているのだろう。

おそらく『鬼滅の刃』は「前へ進む力」が尋常ではないのだ。「どうなるのだ」とおもわせる力がものすごい。その疾走感のなかで「死」をつきつけられ、考えさせられる。

スピード感をもって死生観が語られるのが新鮮なのだ。

たしかにリアルはそんなものかもしれない。

死ぬときくらいはおれのペースで死なせてくれよ、という願いはたぶん聞き入れてもらえない。みんなが忙しいさなかに、それと関係なく自分は死んでいくしかないんである。そういうことにあらためて気づかせてくれる作品だ。

まもなく終わりそうだ。さびしい。残念である。

でもさびしがろうが泣こうが、終わっちゃうもんは終わっちゃうのである。

そう教えてくれる作品でもある。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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