Yahoo!ニュース

トライアウト群像。2度戦力外の木村昇吾と不祥事途中解雇の奥浪鏡を結ぶ「野球は楽しい」の共通言語

本郷陽一『RONSPO』編集長
マツダスタジアムで15日に開催された2017年の12球団合同トライアウト

青空が広がるマツダスタジアムは無料開放された内野席がほぼ満員になった。日陰になるとコートが必要なくらいの冷たい空っ風が吹き抜けるが、フィールド内には緊張が漂っていた。

 元オリックスの奥浪鏡(22)は異色の形でのトライアウト参加となった。

 創志学園高時代に甲子園出場経験はないが、高校通算71本のレコードを引っ提げて、そのあんこ型の体型から“岡山のイデホ”と呼ばれ2013年のドラフト6位でオリックスに入団。ルーキーイヤーのフレッシュオールスターで、一発を放って優秀選手賞に輝き、“オリのおかわり君”とも呼ばれ、将来の和製大砲候補として期待を寄せられていた。

だが、今年5月に免停中にもかかわらず人身事故を起こすという不祥事を起こし、しかも免停さえもチームに申告しておらず、8月に契約を解除された。戦力外ではない形で契約を解除された選手のトライアウト参加は、過去にあまり例がない。

「トライアウトに参加するための練習をさせて欲しいと僕から契約解除をしてもらったのです」

 球団との話し合いで「来季の契約はない」と伝えられた。自業自得ではあったが、練習も合宿所からの外出も禁止されたまま野球と距離を置く2か月間に耐えられなかった。

「自分が起こしたことを考え、奉仕活動をしながら2か月間、色々と考えましたが、自分の居場所は、もうチームにはなく孤立していき、野球ができないことが辛かったんです」

 自ら途中解雇を申し出て球団に了承をしてもらったが、いざユニホームを脱ぐと、野球をする練習場所も用具も環境も簡単には見つけることができなかった。

「プロでは当たり前だったことが……いざこうなって苦労しました。どうしようか、と。人に頼むのもあつかましいと。人のありがたみを、それまで以上に感じました」

 助けてくれたのは、創志学園高時代の恩師、長沢監督からの電話だった。

「自分で好きなことをやれ! やってしまったことは反省し前へ進め!」

「その言葉に助けられました。僕はファンを裏切る行為をして社会的制裁も受けたのですが、もう一度野球がやりたかった」

 地元の広島文化学園大の野球部の施設で練習ができるようになった。この日のために週に5日間のスケジュールで練習を重ねてきたが、2か月間、何もしていなかったブランクもあって体重は2キロプラス。この日は、4打席立って 三塁フライ、空振りの三振、四球、三塁ゴロの結果に終わり、ヒットもアピールすべきホームランも打てなかった。

「頭が真っ白になりました。でもバットに当たって一安心です」

 

 奥浪は、それでも、かつてプロだった人たちと高いレベルの野球ができたことが嬉しそうだった。

 日ハムでスペイン語の通訳をしながら挑戦したフェルナンデスからは、特大のファウルを打った。オリックス時代の小谷野の教えに従い守ってきたフルスイングの精神は貫いた。

「ティー打撃でもフリー打撃でも1球目からすべてフルスイング。それはやりました」

 守備では三塁、一塁のポジションを守った。

「自分ではやれるという自信があります。今回は、まだ時間が足りなかったけれど、もっとノックを受ければ守備も、もっとできるようになると思います。足だけは速くなりませんが(笑)」

 そして、こう決意を語る。

「もう一度プロの世界でやりたい、との思いはずっとあります。どんな形になろうと、ずっと目指していくと思います。トライアウトは、3度受験できますからね」

 実は、今回、マツダスタジアムでのトライアウトに参加するに際して、野球界の去り方が去り方だっただけに「ここでも孤立するんじゃないか」と不安だったという。

 その奥浪の不安を振り払ってくれたのが、元西武の木村昇吾だった。

 不安気な顔で一塁ベンチに座っている奥浪に大声が飛んだ。

「奥浪は、明るくワイワイ野球をやりたいほうか? それとも静かにやりたいほうなのか?」

「明るくワイワイやりたいほうです」

「俺もそう。じゃあ、遠慮せず一緒に明るくやろうや」

 奥浪は気分が楽になったという。

「いい雰囲気にしてもらえて。楽しく野球ができました。それは満足です」

 

 野球界から追放されかけた奥浪を元気づけた木村昇吾も“ギブアップしない男”である。

 2015年オフに8年プレーした広島から海外FA宣言したが、どこからも声がかからずまさかの西武のキャンプにテスト生で参加するという異例の事態となり、結果、西武と契約ができたが、その6月に右膝前十字靭帯断裂の大怪我を負ってオフに戦力通告を受けた。育成で西武と再契約、今季は育成から6月に支配下登録されたものの3試合出場にとどまり、オフに再び戦力外通告。2度目の戦力外で初のトライアウト参加となった。

「まだやれる。膝も良くなっている。このままでは終われないんです」

 場内アナウンスで木村の名前が流れると一際大きな拍手が起きた。

 2007年オフに小山田保裕との交換トレードで岸本秀樹と共に横浜から広島へ移籍以来、計8年プレーした。 ショート、三塁で定位置を確保したこともあるが、名バイプレーヤーとしてチームを支えてきた。

 カープファンは、その木村の姿を覚えている。

 木村は守備につく際、ベンチからショートのポジションまで全力で走った。

「怪我の不安もなく動けるということも含めて、今の全部を見てもらいたかった。一番と言っていいほど大きな拍手を7年間プレーしたマツダスタジアムでいただき、プレーを後押ししてもらった。ありがたかった」

 

 各球団の編成や視察にきた関係者に配る書類には、それぞれの選手のアピールポイントが書かれているが、木村については、「シェアな打撃と堅実な守備、判断の良い走塁は括目に値する。まだ、すべてにおいて全力プレーが身上」と書いてあった。らしい木村の姿がそこにあった。

 3度目の打席では、元横浜DeNAの左腕、林昌範の134キロのストレートを引っ張ってライトフェンスを直撃する二塁打を放った。結果は4の1だが、背番号「0」の存在感は示した。

 37歳。毎年崖っぷちに追い込まれ、もう3年である。

 何が、ここまで彼を突き動かしているのか? ストレートに聞くと即答した。

「野球が好きだから。それだけだよね」

「野球をやりたい、もっと試合に出たい。もっと上手くなりたい、そういう気持ちがあるからだと思う。その根本にあるのが、野球は楽しいってことだよね。もちろん、同じくくらいにつらいことも多いんだけど。きょうも野球を楽しんだという気持ちが出てきた」

 戦力外の立場になって、なお「野球が楽しい」と言う。

 だが、現実的には松坂世代のバイプレーヤーに声がかかるかどうかは微妙だ。

「今は、終わったばかり。待つだけだが、(オファーがなければ、次の人生を)考えなくてはならなくなるね」。目の前に突きつけられたものから逃げるつもりはさらさらない。

 帰り際、リハビリ中の広島の鈴木誠也とバッタリと顔を合わせ、後輩に励まされた。

 「またここで野球がやれるようにがんばりたいね」

 “あきらめない男”は、とてもさわやかにマツダスタジアムを後にした。

 プロとは何か。生きがい、そして仕事を失うとは何か……。

 戦力外の男たちにとって、とても深刻であるはずのトライアウトの場に渦巻いていた「野球は楽しい」という大原則。

 それは人は、何のために生きているのか、の哲学の答えなのかもしれなかった。

 彼らが示した、とても大切なものを思い起こしながら広島駅までの道のりを歩く。

 冬の到来を告げるような夕暮れが迫っていた。

『RONSPO』編集長

サンケイスポーツの記者としてスポーツの現場を歩きアマスポーツ、プロ野球、MLBなどを担当。その後、角川書店でスポーツ雑誌「スポーツ・ヤア!」の編集長を務めた。現在は不定期のスポーツ雑誌&WEBの「論スポ」の編集長、書籍のプロデュース&編集及び、自ら書籍も執筆。著書に「実現の条件―本田圭佑のルーツとは」(東邦出版)、「白球の約束―高校野球監督となった元プロ野球選手―」(角川書店)。

本郷陽一の最近の記事