殿堂入りした故・榎本喜八氏こそが「打撃の神様」だった!

殿堂入りの表彰式会場に置かれていた故・榎本氏の現役時代の写真

「打撃の神様」は、川上哲治ではなかった……。

伝説のバットマン、故・榎本喜八氏の野球殿堂入りが発表されると聞き、東京ドームに併設されている野球殿堂博物館へと走った。榎本氏は、引退後、21年以上が経過した“埋もれた偉人”にもう一度、光を当てるエキスパート部門が制定された2008年に候補者入りしていたが、有効得票を得ることができず、一度は、候補から外れた。2012年に癌を患い、75歳で天命を終えると、2014年に再び候補者として復活。その年、49票、2015年に66票と着実に票を伸ばして、今回、当選ラインとなる75パーセント、ギリギリとなる83票を獲得し、晴れて殿堂入りを果たした。

なぜ生前に殿堂入りできなかったのか……余りに遅すぎた殿堂入りの報に榎本氏の未亡人は、「やっと……」と呟いたという。代理で表彰式に出席した長男の喜栄氏(49)は、「そう仰っていただく方も多いですが、父らしくていいじゃないかとも思います。光栄ですし、ありがたいと思う」と、誇らしげに頭を下げた。

榎本氏は、早実から、まだドラフト制度のない1955年に巧打の左の外野手として毎日オリオンズに入団。ルーキーイヤーにクリーンナップに抜擢され新人王を獲得、早くも「安打製造機」の称号を受け、6年目に打率・344で一度目の首位打者に輝いている。

さらに6年後の1966年に打率・351で2度目のリーディングヒッターのタイトルを取ったが、自宅の応接間の壁際に、ズラっと並べてあったトロフィー類のうち、とりわけ大きかった新人王のそれと、「調子が悪いのにタイトルが取れた2度目の首位打者のトロフィーがかけがいのない思い出だと聞いていました」と、ご子息は言う。

そして、この2度目の首位打者を争ったのが、3000本安打の張本勲氏。生前の榎氏は、尊敬すべき先輩でありライバルとして3「山内一弘」「稲尾和久」「張本勲」の3人の名前を挙げていた。この日の表彰式にゲストスピーカーとして招待されたのは張本勲氏だった。

「私は7回首位打者をとっているが、一騎打ちで負けたのは、榎本さんだけ。左打者、右打者で(史上最高のバッター)5、6人づつピックアップするなら、左打者は、大下弘さん、王、榎本さん、イチロー、私の5人。理想のバッターは川上(哲治)さんだと思っていたこともあるが、私が持っている50人ほどのバッターの連続写真を見てみると、榎本さんがもっとも理想だ」

本当の「打撃の神様」は、巨人の故・川上哲治氏ではなく、榎本氏だったのか。

張本氏は、榎本氏のバッティングのどこが理想かをさらに詳しく説明した。

「野球は動くボールを打つのだから動かないのが理想だが、それではボールの速さに負けるので、普通は反動をつける。足を上げるにも、そのひとつ。だが、榎本さんは、まったく動かなかった。バックステップ、テイクバックもなかった」

微動だしない精密な打撃フォームに正確なミート力。そしてミリ単位で見極めてと言われる、その選球眼……榎本氏は、毎日、大毎、東京、ロッテ、そして最後の1年プレーした西鉄を含めたプロ18年間で、通算2324安打を放ち、最多安打4度、ベストナイン9度、最多四球4度など数々の記録を残した。

榎本氏が、現役時代、長男の喜栄さんは、まだ小学生だったが、「フルスイングと凄い打球」が、目に焼きついている。そして、それ以上に記憶に刻まれているのが、自宅に帰っても畳の上でバットを振り続ける父の姿だった。

「家で真剣(刀)も振っていました。自宅の庭にバティングゲージを作っていて、プロのピッチャーの方もそこに来てバッティング練習をするんです。とても近寄りがたくて」

日本刀で藁を切らせるトレーニングを王貞治氏に課したことで有名な荒川博に、榎本氏が先に師事していて武道や合気道をバッティング理論に取り込んだと言われている。小学生の息子さんが日本刀を振る鬼気迫るトレーニングを知って脅えたのも無理はない。

天才と狂気は、時として背中合わせである。榎本氏のあまりにも、ストイックな行動は時として奇人と評された。作家・沢木耕太郎は、出世作「敗れざる者たち」の中で、榎本氏の物語を綴った。その中に、引退後も、なおトレーニングを続けていた榎木氏の姿が描かれていた。 喜栄氏は「引退後も、確かにトレーニングを続けていました。なぜしていたのか……コーチの仕事が来たときに役立てばという考えだったそうです」と、傍にいた父の本を執筆したスポーツライターに事実を再確認しながら少し困った顔をした。

ベンチ内で座禅を組むなどの奇行と、誰とも群れない孤高の生き方が理解されず、現役時代の実績以上に人付き合いが引退後のセカンドキャリアに大きな影響を及ぼすプロ野球の世界において、榎本氏の名前は抹殺され、解説業どころか、指導者としての球界復帰もついにかなわなかった。

「私は、外での父の言動を知りません。家にいる父は至ってやさしい人でした。ウイキペディアには、色々と書かれていますが、全部が全部、本当のことではありません。ただストイックで不器用だったから理解されないという葛藤があったのかもしれませんね」

ご子息の回想を聞いて胸が痛んだ。

「インターネットでいろんな父の話が載るようになって、サインを求めるファンが家に来たり、手紙をいただいたり、ぜひ、サインをして送り返して欲しいと色紙が家に送られてきたりしました。父は『俺は引退してからの方が人気があるなあ』なんて言って丁寧にサインを返していました。僕ら2人の息子には『野球をしろ』とも言わずに僕もしませんでした。でも、父の孫が今3人います。お爺ちゃんが凄い野球選手だったってことを息子達もなんとなく知っていましてね。彼らが父の後を追っかけることになるかもしれません」

喜栄氏は、そう言って笑った。

やっと歴史に認められた、もう一人の「打撃の神様」は、今、空の上で、どんな気持ちでいるのだろう。