引退会見をした野村忠宏の栄光と苦悩の柔道人生の先にあるもの

引退会見での野村(左)と所属先ミキハウスの木村社長

晴々とした顔をしていた。

黒のスーツ姿。壇上には、アトランタ、シドニー、アテネ五輪で獲得したデザインの違う3つの金メダルが飾られた。8月31日、大阪北区のリッツカールトンホテルで開かれた柔道で史上初の五輪3連覇を果たした野村忠宏(40)の引退会見。野村は「現役最後の試合」と事前に発表して、29日の全日本実業柔道個人選手権の60キロ級に出場、1、2回戦を1本勝ちで突破したが、ベスト8を賭けた3回戦で1本負けを喫していた。野村は、会見の冒頭、18分間に渡って引退に至る経緯を一人で喋った。

「北京五輪に出れなくなり、大きな怪我をして、いつ最後が来てもしょうがない、という思いは常にあった。心の限界がくるのか、体の限界がくるのか、ふたつが同時にくるのか。心の限界はないなと思っていたが、現実的に体の限界を感じるようになった」

「心技体」の「体」が言うことを聞かなくなった。

野村のスマホの中には、ドクターからもらった過去の故障、手術遍歴が、レントゲン、MRIなどの映像と共に保存してある。五輪4連覇を狙う北京五輪の代表選考会の過程で、右膝の前十字靭帯を断裂、結局、出場権を逃して、複合損傷にまで悪化していた右膝を手術することになった。再起を決めてロンドン五輪出場を目指す過程で、今度は、中臀筋(ちゅうでんきん)を痛め、恥骨の疲労骨折、2013年には、出場を予定していた実業団の試合前に右肩を痛め、試合中に腱が断裂して大会後に手術で修復した。2014年にも実業団の前に左膝の軟骨を痛めて再び手術。リハビリを経て、2年ぶりの復帰に向けての練習の中で、今度は、古傷である右膝が悪化した。稽古で繰り返し繰り返し同じ動作を繰り返す中、右膝内の軟骨は削られて関節内に隙間がない状態の変形症となった。競技者としての動きに耐えられる状態に戻す手術も不可能だとドクターに告げられた。激痛を抑えるため、最終手段として関節内へのステロイド注射を打った、消炎作用はあるが、副作用がきつい薬で、通常1か月に一度くらいしか打てないもの。野村は、「これで引退しますから」と、主治医に無理を言って、7月17日に一回目の注射を打った後、試合までに、合計5度も禁断のステロイド注射にすがった。

ギリギリだった。最後は会場で痛み止めの座薬を入れた。

「思い切った柔道をやりたい。真剣勝負をしたい」

ただ、その一心。だが、この先、ステロイドを打ち続けながら、今後も競技を続けるのは不可能だった。37年間の柔道生活で彼の肉体の使用期限が切れたのである。

「人生そのものだった」という野村の柔道人生は、波乱万丈だった。アトランタ、シドニー五輪連覇という栄光に彩られ、アメリカ留学という2年間のブランクののち、アテネで復活の3連覇。そして、右膝の怪我で北京五輪の挑戦に失敗して以降は、苦闘の日々を数えることになる。思い出に残るシーンは? と聞かれた野村は、天理中学への入学時に、体重が32キロしかなく、市民大会で女子選手に負けた試合から語り始めた。

「いっぱいあるんです。中1で市民のデビュー戦で女子に負けたのはハッキリと覚えているし、若さと同時にもろさもあったアトランタ五輪では、最強の世界チャンピオン(ロシアのオジェギン)にボコボコに投げられながら(有効を3つも取られていた)も、あきらめずラスト10秒(記録は、残り11秒)で逆転勝ちして、オリンピックという試合のなかで、ひとまわりも、ふたまわりも大きくなった。2年半のブランクを経て、アテネ五輪に向かうまでの道程は厳しかったが、それを乗り越えて獲得した金も凄く重たい。勝てない中での挑戦も大きな財産。いい思い出、苦しかった思い出と、いっぱいあるけれど、負けてしまったが、豪快にぶん投げられた40歳の柔道家に、大きな拍手と激励とねぎらいの言葉をかけてもらえたのが、一番、嬉しかった」

五輪3連覇を果たした野村の凄さは、その天才的な反応と技のキレに加えて、背負い、1本背負いという必殺技を持っていたことだ。

今、振り返って自分を天才と思うか?と聞かれて、「結果を伴っているときは、天才と言っていた。長い競技生活を振り返ると、弱かった時代、勝てなかった時代が長かった。才能はあったかもしれないが、それを開花させるまで、あきらめず、力を信じられる自分がいたからこそ、今の自分があると思う」と答えた。

天才の象徴は、2000年のシドニー五輪の決勝戦だった。決勝戦の相手、韓国の鄭富競を開始からわずか14秒、別名、空気投げとも呼ばれる隅落としで宙に舞わせたのである。

この日、会見で、花束を贈ったミキハウスの木村社長は「お父さんと、これ勝ったら金メダルですねと、話をしているうちに相手が倒れていた。私たちは、その瞬間をシドニーの会場にいながら見ていないんですよ」と、振り返ったように、相手が崩れた瞬間に、ねじるようにして、さらにバランスを崩させて、瞬時に畳の上に吹き飛ばしたのだ。

「反応です。子供のころから組み手の争いよりも、相手がおおきかろうが、ちいさかろうが、真正面から組む柔道、技に入れば、最後まで投げきる柔道を心がけた。練習でも投げられるのは嫌だった。しがみついても投げられないようにしていた。その稽古を積み重ねることで、投げられそうになったときに、どうひねれば、投げられないか、どう反応すれば、有効に防げるか、身体感覚として反応できるようになった。その究極が、あの技かな」

柔よく剛を制すー。基礎の反復練習によって、意識を反応という無意識に変えていき、脱力の感覚を追求した。そして真正面から攻めて攻めて、1本を狙う柔道を身上とした。

対戦した多くの柔道家が、野村の強さにひとつに「組む力の強さ」を挙げる。その強さは、常に階級が上の相手と、時には100キロ近い相手とも、乱取りを行うことによって養った。柔道に必要な力は柔道の積み重ねで作った。それが怪我と年齢的な衰えで、徐々にできなくなってきて、野村は、大きな壁にぶちあたった。五輪選考にランキング制度が導入され強化選手からも外され、コンスタントに試合のできなくなった野村の目標は、もう五輪ではなくなり、内なるものに変わったが、その苦しい時間が、引退とした今となっては、野村のかけがいのない大きな財産となった。その時間は、人間・野村を一回り大きくした。

「オリンピックの金メダルは、大きな目標でチャレンジだった。でも、それがゴールじゃなかった。怪我をして苦しいものと向き合うほどに柔道が特別な存在になってきた。どこまで柔道と向き合えるのか、そういう気持ちにさせてくれた。40歳の自分に20代の柔道ができるわけではない。怪我との戦い、衰えのなかで、今できる最高の柔道をつくりあげたい、もう一度、思い切り熱い勝負をしたい。そういう自分との戦いだった」

野村は、今後、指導者の道を歩むことになる。現在、ミキハウスには、立派な道場があるが、町の子供たちに開放されているだけで、本格的な選手育成の場所とはなっていない。今後も、ミキハウスサイドは、野村のセカンドキャリアをサポートしていく方向で、野村自身も、「柔道を通して感じたこと、学んだことを、自分だけのものとせず、これからは若い世界を目指す選手たちに技術も含めて伝えていきたい」という考えを持っている。

引退試合には、60キロ級のリオ五輪代表候補の一人、高藤直寿やスーパー高校生として話題を集めている66キロ級の阿部一二三が観戦に訪れて、控え室まで挨拶に来た。

「彼らの参考になるような試合は、今の自分の力ではできなかった。でも、僕のやってきた柔道、残してきた柔道に憧れをもってくれたのは嬉しい。今後は、日本中の人を魅了する大きな、魅力的な柔道に厳しい気持ちを持ってチャンピオンになれる選手になって欲しい。求められれば、技術だけでなく、オリンピックまでの心の作り方も伝えていきたい。これからは、自分が主役でなく、若い選手を主役にひきあげる仕事をしていきたいと思う」

そして野村らしく「悔しさを活かしここ一番で強くなれる選手」を育てたいという。

伝授することが難しいとされている独特の感性の世界。だが、野村は、40歳まで苦労して続けたことで、その感性を論理的に説明できるようになった。今後、野村への指導者として期待が膨らむ部分である。

また「柔道だけに限らずに、スポーツ界でも、いい形で活動をしていきたいし、僕を成長させてくれたオリンピック、東京オリンピックにも、なんらかの形で、かかわれれば嬉しい」という。それも、競泳の北島康介や、女子サッカーの澤穂希ら、スポーツ界全体に幅広い人脈を持つ野村ゆえの役割で、すでにフェンシングの太田雄貴からもリオ五輪を目指す後輩に話をする機会を作って欲しいと頼まれている。そして「ミスター野村」として、積極的に海外へと進出していくプランも暖めている。

大きな足跡を柔道界に残し、レジェンドとなった40歳の柔道家は、現役は引退したが、新しい柔道人生は、今からが始まりである。

会見で、かっこ良さとは何か、と聞かれた野村は、「情けない姿とか、みじめな姿、弱い姿をさらしてもいい。ただ思いを貫く強さ、それを持っているやつがかっこいいのかな」と答えた。それは、これから先、野村が第二の人生をどう生きていくかの、約束の言葉のように聞こえた。