【追悼】故・飯野賢治氏を偲ぶ

飯野賢治(Kenji Eno) 1970-2013

ミリオンセラータイトル『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』の制作で有名な飯野賢治氏が2月20日、東京の自宅で心不全により死去しました。42歳。私が飯野賢治氏と初めて会ったのは、有限会社EIM創業後、彼が20歳のとき。以来、氏が残してくれた記憶を振り返り、ここに追悼文を記させていただきます。(*筆者ブログより転載)

■風雲児の素顔

2月21日は打ち合わせののち会食があり、帰宅したのは深夜だった。

家に着きメールを見たときに訃報を知った。

全身から力が抜けていくようだった。

最近は健康に留意しているはずだったのに、まさか。

とっさにニュースサイトを閲覧すると、現実を突きつけるように「ゲームクリエイター、飯野賢治氏が死去」の文字が目に飛び込んできた。

個性がいっぱい積み上がった人生も、死を報じる記事になると、ものの30秒で読めてしまう。あっけない。はかなさが再び込みあげてきた。

飯野賢治といえば「風雲児」「寵児」と評されることが多かった。

プレイステーション用のソフトだった『エネミー・ゼロ』を、イベント会場で電撃的にセガサターン向けに変更すると発表。1996年の出来事は「事件」として取り上げられた。

こんなエピーソードとともに、暴れん坊とも言われた飯野賢治氏だが、その実像は世間の評判とは異なる。

実際につきあってみると、きわめて礼儀正しい、律儀な人だった。

たとえば一緒に食事をする。

いつでも定めた時間よりも早く待ち合わせ場所に着き、同席者に気を配り下座に座る。

椅子席でも座敷でも背筋をシャンと伸ばして同席者を待つ。携帯電話を持つこともなく、手は両膝に置く。そのたたずまいは、熟達した茶道家のように美しく、凛としていた。

食事がはじまれば、会話が弾むわけだが、飯野賢治はいつも相手が話をしやすくなるよう心がけていた。トークイベントで見せる饒舌にして能弁な彼とは、まったく違う側面を見せる。話をしている相手の正面に身体を向け、ていねいにうなずき、相槌を打つ。傾聴する心が、全身から常ににじみ出ていた。

飯野賢治と私の会話では、よく「正常進化」という言葉が使われた。

物事すべてを見るときの絶対的な価値基準といっていい。

進化しているか、していないか。

進化しているならば、それはいびつな進化か、正常な進化か。

まずは「正常進化」という理想を思い描く。つづいて「正常進化」という最善の状態にするには、どうすればいいのかを考える。「正常進化」のために実行をする。これが職業人・飯野賢治のポリシーだったように思える。

2000年代に入ってからは、飯野賢治はゲーム開発よりも、企業活動全体のプランナーのような仕事が増えていった。大手企業の新規事業を立ち上げる、巨大商業施設のマーケティングプランを考える、新製品のブランディングをする、などである。これらの仕事をするときも飯野賢治の肩書きは「ゲームクリエイター」だった。

ある人が尋ねた。

「ゲーム以外の仕事をしているのに飯野さんはどうしてゲームクリエイターなんですか」。

「クライアントが抱えるどんなに難しい課題を解決するよりも、ゲームをつくるほうが難しい。逆に言うと、ゲームをつくれる人はなんでもできる。ゲームクリエイターという肩書きのまま、クライアントと接するのは相手に信頼感を与えていると思うし、ゲームをつくれる人は、どんな難題も克服できる人だということを、僕の肩書きで証明していきたい。だから、肩書きはゲームクリエイター以外、考えられない」と答えた。

飯野賢治はよく言った。

「人は他人が誉めないところを誉められたい」。

それが人間の本質ではないか、と。

訃報に接して、多くの人が飯野賢治の武勇伝を語っている。天才だった、傑物だったという声も聞こえてくる。私はこの場を借りて、他人が誉めないところを誉めさせていただきたい。

飯野賢治は礼儀正しく、おとなしく、いつも周囲への気配りを忘れない、やさしい人だった。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。