樋口尚文の千夜千本 第167夜『戦場のメリークリスマス』4K修復版

(C)大島渚プロダクション

アクシデントを待望する鬼才ならではの異色大作

大島渚監督の諸作品は例外なく知的刺激に満ちており、国際的評価も高いのだが、その作家性を称揚するのはなかなか難しい。なぜなら日本映画の名匠と言われる小津、溝口、黒澤、成瀬といった作家たちが概ねある明快な「作家性」で括られるのに対して、大島は一作ごとに別の監督が撮ったのではないかという自己更新を反復し続けた。それゆえに大島を評価しようにもわかりやすい「作家性」にあてはめて語ることができない。

また、もうひとつの特徴として大島は極めて精緻な論理的思考と犀利な批判精神のかたまりであったにもかかわらず、作品づくりの実質において自らの青写真が「外的要因」によって壊され、再構築されてゆくことをひじょうに好んだ。たとえば一方には自ら描いた精密な絵コンテ通りに映画を撮影し、自らがあらかじめ固めた演技プランにのっとって俳優に演技させないと気がすまない名匠もいるわけだが、大島はその正反対であった。大島はその「外的要因」(それは俳優の資質であったり、撮影時の条件であったりさまざまだが)によって自らのビジョンが翻弄されることをもって、自らの脳内では到達できなかった表現のステージに跳躍することを期待した。

「映画はドラマだ。アクシデントではない」というのは臨終間際の小津安二郎が吉田喜重に語った含蓄多き言葉だが、これに事寄せて言えば大島はもちろん映画はドラマに収斂されるものとは思いつつ、アクシデントをいたく好み、待望する作家だった。異色作『日本春歌考』ではおおまかなシノプシスだけを手がかりに撮影に入り、撮りながらシナリオをひねり出し、さらにそれを荒木一郎ら若いキャストに彼らなりの言葉にしてほしいと頼んだ。その最後の目論見だけはうまく行かなかったが、それさえもまさにアクシデントとして取り込みながら、ちょっと普通の思考では生み出せない奇篇にまとめあげた。テレビドキュメンタリー『忘れられた皇軍』やATG作品『新宿泥棒日記』などでは、当初予想もしなかった現実のアクシデントに積極的に巻き込まれることで想像を超えた仕上がりに持っていった。

大島はそういった試みを松竹の外注作やATGの一千万円映画と言った低予算即製の条件下でいくつも試みてきたが、『戦場のメリークリスマス』はそんな大島的試行を国際的な大作でやってのけようという挑戦だった。企画当初は、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの思索的で静謐な原作『影の獄にて』をもとに、戦時中のジャワ日本軍捕虜収容所内の異様なる物語が、ロバート・レッドフォード、滝田栄、緒形拳という俳優陣で構想され、映画版の仮題も『抱擁の大地』とされていた。きっと大島にも大作仕様の映画にはこういうキャストや題名がふさわしいのではないかという遠慮と目配せがあったに違いない。しかし、もし題名が『抱擁の大地』でこのキャストでは正直オジン臭くて『戦メリ』少女と呼ばれたようなティーンエージャーの熱狂的ファンなど獲得できなかったであろう。

だがレッドフォードに「物語が難解」との理由で断られたことが逆に幸いし、たまたま焼酎のCMで見かけたデヴィッド・ボウイには脚本が気に入られ、実現まで二年も待ってくれたことで作品が好ましい方向に転がり出した。その間、出資の座組を整えるまでの過程で緒形拳もスケジュールが厳しくなり(そこで引き留めなかった大島に出演を熱望していた緒形は憤ったそうだが、このおかげで主演した今村昌平監督『楢山節考』がカンヌ国際映画祭では『戦メリ』を凌いでパルム・ドールを獲得するという因縁の出来事につながった)、ようやくニュージーランドを軸にした製作が決定した時点で、ほぼその場の勢いとインスピレーションで決めたのが坂本龍一、ビートたけしという布陣であった。

ここにおいて当初大島が遠慮気味に構想していた職業的スタアで固めて安全弁となすキャスティングは一変し、逆に大島がかねて唱える「一に素人、二に歌うたい、三四がなくて五に映画スタア」という配役の要諦にかなった冒険的なキャスティングがまんまと実現してしまった。しかしこれとてはなから意図したことではなく、製作を具現化する交渉の過程でたまたまここになだれこんで行ったのである。ただ、そのアクシデントの渦中にあって常にチャレンジングな方へ身を処していったのが大島流なのだ。こうしてあの抑制的な筆致の原作からは到底想起できないグラムロックのスーパースタア、先鋭的でスタイリッシュなアーティスト、当代人気一番のお笑い芸人、そしてトム・コンティという名シェイクスピア俳優が集う奇想天外なキャスティングが実現し、大島が中小規模の映画づくりで試してきた「外的要因」による自己拡張の試みが極めて大がかりに実践されることとなった。

本作が「東西の文化的衝突」を描く作品と要約されると大島は激怒し、これは「人が、人に惹かれるということがある」ことを描いているのだと、いつもの性急でエッセンシャルな言葉で語っていた。まさにこれは戦時の閉塞的な設定をもって、人が人に惹かれるかけがえのなさ、そしてそのシンプルなことを成就させられない人の難しさについて描いている作品に違いないが、先述した異色キャストの力で表現も特異な膨らみを増した。

そして、そもそも大島が音楽も手がけてはともちかけたデヴィッド・ボウイが「今回は出演に徹したい」と望んだがゆえに坂本龍一の名曲が生まれ、よりによって大島念願のクライマックスのキスシーンでキャメラ故障が起こったことであの不思議なコマのばしスローモーションのカットが生まれ……そういった偶然や事故を、すべて作品を想定外のほうに肥やすアクシデントとして何食わぬ顔で受容し続けた大島の姿勢が、結果としてこの稀代の異色篇に結実したのだった。

大島作品らしからぬ『戦メリ』という愛称で親しまれた本作は、それまでの大島作品でおなじみだったアートシアターではなく、日本最大級の洋画ロードショー劇場チェーンで公開され、これまた大島作品がかつて獲得しなかった十代の少女たちが詰めかけた。彼女たちを劇場に駆り立てたのは作品の物語やテーマなどではなく、こうしてキャスティングを筆頭にアクシデントになだれこんでゆくオジサンの挑戦意識に何やらスリリングな面白さを感じてのことだった。