樋口尚文の千夜千本 第148夜「なぜ君は総理大臣になれないのか」(大島新監督)

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17年の伴走が紡ぐアンチヒーローの立志伝

最近の国会のニュースを見ていると、なにか冗談めいた悪夢をずっと見続けさせられているような感覚に陥る。コロナ禍で誰もが今日明日をどう生きるかという事態にある時に不要不急の憲法改正が急がれ、あまつさえ指揮権発動の法制化とまで言われる法案が白昼堂々審議される。もう怖いものなしで国権の最高機関が「天才バカボン」級の荒唐無稽ワールドになっている。だが、茶番じみた忖度劇によって甘やかされてきた長期政権が、今、何も忖度してくれないウィルスの猛威によって震撼させられている。その無為無策の露呈に最も震撼させられたのは、誰より国民なのだが、どうしてこんなことになってしまったのか。かかる国民不在の政治の一隅に、日本の現状を自分流にきっちり分析し、超福祉国家としてのサバイバルを本気で考えている政治家がいた。

その政治オタクというべき衆議院議員の小川淳也に、2003年、大島新監督が企画書をもって会いに行くところから本作は始まる。小川は大島監督の奥方と高松高校の同級生で、何やら個性的な熱い政治家がいると聞きつけて、ドキュメンタリーの取材対象とさせて貰っていいかという打ち合わせであった。その企画書に「政治家になりたい!」とあるのを見て、小川は「自分は政治家になりたいとか権力を持ちたいのではなくて、とにかく政治で将来の日本を変えたい」という趣旨のことを言う。ここからなんと17年にも及ぶ大島監督の伴走が開始されるのだが、おそらくその当初はここまで面白い作品に育つとは思ってもみなかったのではないか。私はかねがねある企画書的な切り口をもって対象に短期密着するよりも、ひたすら対象に伴走しつつ、自然にそこから生まれるドラマを逃さずすくいとってゆくという作法が、最も贅沢で、且つ豊饒なドキュメンタリーを生むと考える。小川紳介の『ニッポン国古屋敷村』などはその筆頭だが、本作もまさに長い時間をかけてこその意外な収穫に満ちた作品である。

小川淳也は、高松で美容院を営むごく普通の家庭の子息で、東大から当時の自治省に入省するエリートコースを歩んでいたが、32歳の時に思い立って国政に打って出んと衆院選に立候補する。ひとえに先述したような純粋な政治への思いから起したアクションであったが、そのままおとなしく官僚として大成してもらえたら安心と思っていた両親は、軽々に賛成する気にはなれなかった。だが、そんな両親も、そして細君も、やがては娘たちまでもが小川の純な思いとやる気にほだされて、選挙活動に巻きこまれてゆく(小川は本当に素晴らしい家族に恵まれていて、彼が政界の理不尽さに悶々とし続ける本作の救いとなっている)。このあたり、かつてフジテレビの社員として将来を嘱望されながら独立、自らのドキュメンタリー制作会社を興した大島新監督も、会社を辞める時に父君の大島渚監督に「ばかだな」と(これは反語的な期待のエールだろうが)言わしめたらしいので、その境遇には共感するところ大だったかもしれない。

だが面白いのは、大島監督の小川淳也に対するまなざしが、そんな愛情を感じさせつつも一貫してひじょうにニュートラルであるところだ(わざわざ小川を安倍政権のスポークスマンを以て任ずる田崎史郎に引き合わせて議論させるのも、その姿勢の一環だろう)。しばらくその活動を観察するうちに「この人は政治家に向いていないのではないかという思いを抱きつつカメラを回した」と監督自らがナレーションで語り、夢は総理というくらいの大志がありながら力なき野党にあっても「出世」できない現実を小川にまっすぐ突きつける。また小川も、それについて無駄なプライドで粉飾反駁することもなく、ストレートに自らの悩みをさらけ出す。この取材者と被写体のそれぞれの率直さが、本作の面白さを担保している。

小川の悩みはなかなか選挙区で勝てず比例代表で復活していることだ。いわゆる三バン=地盤(業界や労組の後援)・看板(広い知名度)・鞄(潤沢な資金源)に事欠くところから清貧で出発している小川は、選挙区で勝てないと党内での発言力が弱いと正直に悩みを吐露する。正直といえば、小川は持ち前の誠実さゆえにわかりにくい。自分の立ち位置を問われて「前原さんほど右派ではないが枝野さんほど左派でもない。保守派でもリベラル左派でもない」とひじょうに丁寧かつ厳密な回答をするのだが、こういうところでは思わず笑った。

大衆をなびかせるものは、とにかく野蛮なくらい旗幟鮮明であることだ。地方であればなおさらのことで、ある時には泥臭い猿芝居でわかりやすさを演出しなければ、なかなか票は集まらない。両親も、息子は実は政治家は向いていなくて大学教授のような、人を啓蒙する仕事が合っているんじゃないかと語って、小川を期待でつぶさないように慮る。親心である。こうした政治家としての不器用ぶりにふれて、観る者は小川にアンチヒーローとしての愛着を覚えるようになるだろう。

しかし、このアンチヒーローぶりがここまで際立つ展開になろうとは、大島監督もさすがに予想しなかったであろう。例の政権交代もありやと思わせた希望の党ブームのなかで浮足立った民進党の野合、その後の「排除」発言と合流拒否した議員による立憲民主党の結党という大波乱に、小川は心ならずも翻弄される。小川は民進党代表の前原誠司の側近であったから、その仁義ゆえ衆院選に希望の党公認で出馬して、またしても選挙区では敗退する(そしてまた比例復活)。もともと誠実過ぎて立ち位置がわかりにくい小川が、さらに本人の意志を超えたところで所信もへったくれもない、全くもって道理の立たない理解不能の立場に追いやられてしまった。

急遽小川が作り足したポスターのコピーは涙なしにはすまない。「党が変わっても小川の大切な部分は変わりません。小川の大事なところは変わりません」。気持ちは痛いほどわかるが支離滅裂である。選挙活動で街へ繰り出せば、道行く人から「立憲民主党に行けばよかったのに」と握手を拒まれたり、「憲法改正に反対してたんじゃなかったのか。イケメンみたいなふりをして腹の中は真っ黒じゃねえか」と唾棄されたり、まあさんざんである。当の小川はあいかわらず「政治に必要なのは誠意と人望なのに」とため息をつきながら、父も「ゲテモノだらけ」と呆れた中央政界の無節操さを呪う。だが、諸般の行きがかり上の仁義からこのナンセンスな立ち位置に甘んずるほかなく、かと言って無所属になっては政権運営の夢が遠のいてしまうので、忸怩たる思いを抱えつつどうにもこうにも身動きがとれない。

「へんなかんじになっちゃったなー」と嘆息する小川の姿を前に、本人には申し訳ないが大島新の残酷なるドキュメンタリストの目は千載一遇の素材をとらえて欣喜雀躍としたのではあるまいか。それほどに素材としての小川淳也はアンチヒーローとして目が離せない。先に述べたように、本人が飾らずにその思いをもろ出しにしてくれるので、なおさら興味深い。そんな被写体の小川が、まさに小説より奇なりの現実に翻弄され、にっちもさっちも行かなくなっている。この思わぬ展開で本作は想定外のところまで跳んだ。

なぜ小川淳也という素材はかくも面白いのか。そこで思い出すのはまたもや大島渚監督だ。戦後の日本人は三つの意識の持ち主に大別できると、渚監督は言った。それは圧力や差別に対してさめざめと打ちひしがれるばかりの「被害者意識」の持ち主、次が安定と繁栄のなかで自らが失われはしまいかという疑問や憤懣を抱えるものの、正確に敵を措定できぬままとにかく何かをやらねばという潜勢力を秘めている「擬似主体意識」の持ち主、そして自分のプロテストの意志を主張し革命的行動を実践する「主体意識」の持ち主。凡庸なるメロドラマやコメディは「被害者意識」に甘んじた大衆を描くのみでつまらない。かと言って、ごく理念的に強靭に生きる「主体意識」の人もリアルではない。したがって最も人間を描くうえで面白いのは、体制や制度への不満や疑問を抱えながら、どう身を処して戦えばいいのか逡巡彷徨している「擬似主体意識」の持ち主である、とかつて大島監督は看破した。それはもう、小川淳也そのものではないか。

大島新監督は、これまでに唐十郎や園子温といった演出家、監督を素材にドキュメンタリーを撮ってきたが、なにぶんこういう種族は嘘を売る商売であるから、自らを「主体意識」の持ち主として粉飾演出する術を知っている。その一方で大島監督は紳士的に芸術家をリスペクトする人なので、こういう異才たちの正体にまで土足で踏み込むというよりは、むしろいくぶん好きなようにされている感があって歯がゆかった。だが17年がかりの本作は、自らの理想もズッコケぶりも全部さらけ出してくれる稀有なる素材を得て、大島監督ならではの飾らずまっすぐなまなざしが存分にものを言った傑作である。

ちなみに、試写に行こうとしたらコロナ禍で早々に中止になってしまった本作には驚くべき展開があって、なんと自粛防衛下での直近の小川淳也にリモート・インタビューするくだりが「増殖」していたのだ。出会いから17年を経て49歳になったばかりの小川は、さすがにあの青年の溌剌さから年輪を刻んで苦味も漏れる表情となっているのだが、改めて大島監督に「総理になりたいですか」と尋ねられて、あいかわらず回答がシャイで厳密過ぎてじれったいので爆笑した。なぜ君は総理大臣になれないのか。という前に、なぜ君はそこまで誠実であらねば気がすまないのか。