樋口尚文の千夜千本 第143夜 【追悼】 原知佐子

撮影=樋口尚文

ヴァンプ女優の毒舌と慈愛とおとこぎ

原知佐子さんが逝った。原さんは実相寺昭雄監督夫人として知られているが、そもそもは新東宝から出発、東宝を経てフリーになり、数々の映画、ドラマでおなじみだった名女優である。土佐出身の原さんは、小さい頃から将来宝塚に行くといいと言われるほど目立つ存在だったそうだが(実相寺作品『D坂の殺人事件』に出ている高知出身の大家由祐子さんのご母堂とはなんと高校の同級生)、同志社大に進んだ後に新東宝の新スター募集に応募してみごとに採用された。この「新東宝スターレット」と呼ばれたオーディションは四期めで、一期合格生には高島忠夫、天知茂、三原葉子、久保菜穂子ら華々しいメンバーがいて、原さんと同期には三ツ矢歌子、万里昌代らがいた。

だが、そもそもは東宝争議をきっかけとして生まれた新東宝は志高き作品を生んでいたが、原さんが入社した1955年は奇しくもあの有名なワンマンの大蔵貢が社長に就任し、以後はかなりキワモノ的なラインナップに傾いていった。原さんは本名の田原知佐子で『女競輪王』『美男をめぐる十人の女』『「青春万歳」より 源平恋合戦』『スーパー・ジャイアンツ 宇宙怪人出現』などに出演したが、59年には退社して東宝へ移り、原知佐子の芸名で『女子大学生 私は勝負する』をもって早々に主演を果たす。実相寺監督の当時の日記を読んでいると、すでにこの頃から「原知佐子はいい女優だ」と友人と言い合っていたらしいのだが、原さんに聞くとそれはたぶんこの東宝の主演作を観てのことだろうと仰っていた。

 

そして原さんが東宝に移ったこの59年には、実相寺監督がTBSに入社している。原さんはさまざまな東宝のプログラム・ピクチャーに出演したが、田中絹代が監督して米軍キャンプでパンパンをしていた女性のその後の更生記を描いた『女ばかりの夜』に主演したり、成瀬巳喜男監督『秋立ちぬ』で重要な助演をつとめたりと活躍が続いた。なかでも松本清張原作、堀川弘通監督『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の食わせ者のヴァンプや、鈴木英夫監督『その場所に女ありて』のマニッシュな広告会社のBGなどはひじょうに印象に残った。しかし意外や実相寺監督が演出デビューした1962年には、原さんは東宝を辞めてフリーになる。

東宝でも頑張っていたのにずいぶん早々に退社したのはなぜなのだろうと原さんにお尋ねしたら、それは意外な答えで「その頃は東宝にいても松竹がヌーヴェル・ヴァーグをやっていて羨ましく見えたし、テレビも凄く面白そうだったんですよ。だから私がテレビに出たいと言ったら、君は砧の専属なんだからダメだと言われて。テレビに出たくて辞めちゃったんですよ。本当にバカですよね」とのことだった。確かに新東宝を辞める前後の時期から、まだまだ映画のスタッフ、キャストからは「電気紙芝居」と疎んじられていたテレビドラマに、原さんはけっこうたくさん出演していた。

 

そんな原さんの動機とタイミングが噛み合って、翌1963年のTBSドラマ『おかあさん』の実相寺演出回「さらばルイジアナ」に原さんは出演することになった。これはスタジオドラマながらまさに実相寺調のあけぼのの、クールで鋭角的な映像感覚の作品で、お気に入りの原さんを実にスタイリッシュに撮っていた。原さん扮する和装の美女と柳生博、川津祐介、石坂浩二ら神学生のドラマだったが、「大きなリハーサル室なのに顔と顔をぐんと近づけて、もうタタミ一畳くらいあれば出来るんじゃないのというくらい接近してさんざん稽古やらされましたね。後年の実相寺はもう5時までに終えて飲みに行こうやみたいな人でしたけど、あの時はしつこくやってました。もちろん生放送なので通しでやらないといけないんですが、一週間くらいリハーサルやって、時にはてっぺん(午前零時)超えでもうやめてくれないかなという感じでした。なにしろそれが初対面ですからね」と原さんは苦笑しつつ克明に思い出していた。

 

この後、実相寺監督は美空ひばりの歌謡ショーの中継で常識破りの顔のパーツのアップを撮って物議を醸して干されることになるのだが、「さらばルイジアナ」でもすでに相当個性的な寄りの画は始まっていた。その実相寺調については、原さんは撮られる側としてどんな気持ちを持ったのか。「実相寺の画はああいうものですから、とにかく今のこの場にしっかりいないとまずいという気になるんですよね。一種の強迫観念みたいなものが生まれるんですよ。この画から引いてもいけないし、はみ出してもいけないと。でもあんなに寄りのパーツばかり撮られることなんかないから、ああ自分ってこんな顔してるんだ、みたいな発見すらありましたけどね」。

実相寺監督に愛された堀内正美さんによれば、生前の岸田森さんはまさに実相寺監督の分身のような存在で偏愛されていて、言わば自分の理想世界を体現してくれるフィギュアとみなされていたという。その岸田森を撮る実相寺アングルは実にいきいきとしていたが、まさに初対面の原知佐子さんを撮ったこの時の映像も演技者への愛を感じさせずにはおかないものだ。

だが、こうして急速に親しくなった実相寺監督のことを原さんは「TBSで大山勝美さんのドラマを撮っていた時に、“今度演出をやる実相寺です”って挨拶しに入ってきたんですけど、なんだか薄汚いのが来たなあって。それからうちにご飯食べに来るようになったら、母が嫌って“まだいるの?まだいるの?”なんて言ってましたし、結婚するとなったら“あんな汚くて頭おかしい人やめなさいよ”ってあちこちから電話かかってきました」と語るのだった。そして熱烈に信奉するスタッフやファンが多いことについても「実相寺という名前で得してるんじゃないですか。佐藤とか鈴木じゃなくて寺も付くし。それでけっこう社交家なので、みんなをその気にさせてしまうんですね。スタッフの方もそれで凄い人みたいに勘違いして付いてきて下さってましたけど、けっこういい加減な人間ですよ」と笑わせてくれて、とにかく原さんはクールでコミカルで冴えていた。

2006年に実相寺監督が病気で亡くなった際も、舞台の仕事で遠方から駆けつけて、みんなが囲むご遺体に「まったく自分がフィギュアみたいになっちゃって」と原さんが語りかけたという逸話を、その場にいた方から伺ったことがある。だいたいクリエーターの配偶者が当人への心酔や偏愛を公言することほど片腹痛いものはないが、原さんはまさにそういうそぶりをシャイに全面排除して実相寺監督のことを呆れ茶化しまくっていたが、結果誰よりも実相寺監督の作風から人柄まで冷静に直視して反語的な愛情を注いでいたのは原さんだった。

原さんと実相寺監督が結婚したのは、出会いの翌年、東京五輪を目前に控えた1964年の終戦記念日だった。その少し前にフリーに原さんは東映の『どろ犬』で存分にヴァンプ役を演じて瞠目されたが、結婚後は『俺たちの荒野』『弾痕』『儀式』『十九歳の地図』『悪魔が来たりて笛を吹く』などの映画で印象的な脇役を引き受けつつ、テレビドラマの憎まれ役やコメディリリーフで重宝された。その筆頭にあがるのが、山口百恵主演の『赤い疑惑』をはじめとする大映テレビの『赤い』シリーズだが、さらに原さん本来の持ち味をちゃんと活かしていたのは山田太一脚本のTBSの傑作ドラマ『岸辺のアルバム』だろう。原さんのクールさと陰翳の魅力をアテ書きしたような、孤独で屈折した女性の役であった。

『ウルトラマンティガ』の傑作回「花」などは夫妻の麗しき協働の賜物だったが、実相寺監督の遺作『シルバー假面』では深刻な病状を慮って原さんがけっこう現場にいたという。そんな原さんの最後の映画作品は、意表をつくオマージュの一瞬をもって迎えられた『シン・ゴジラ』かと思いきや、天草で撮った主演作が公開待機中だという。亡くなる前の半年くらいはかなりお具合が悪そうだったのだが、お棺のなかの原さんは、まさに諸事やりきった感のある穏やかな表情だった。合掌。