樋口尚文の千夜千本 第133夜「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(Q・タランティーノ)

撮影=樋口尚文

悪夢と闇は蹴とばしておけ!

来日記者会見で「この作品では1969年当時のファッションやポップカルチャーがみごとに再現されているが、相当リサーチをしたのか」という質問が飛んで、レオナルド・ディカプリオは「とにかく監督の当時の映画やサブカルチャーへの造詣が深いので、たくさん興味深いレクチャーをしてもらえた」と答えたが、クエンティン・タランティーノはなるほどのオタクぶりを発揮して「69年当時の日本映画シーンについても調べていたが、この年にクェラハラ監督が撮ったナントカmilesという映画を知っている人はいるか?」と記者団に問うや場内がシーンとなったので「それは蔵原惟繕監督の『栄光への5000キロ』ですよ!」と教えてあげたかった。

タランティーノは「もう数日日本にいるのでそのクェラハラのフィルムの英語字幕付きDVDを待ってるよ!」と締めくくって茶目っ気をふりまいていたが、このオタク発言のおかげで私は一気に1969年の夏にタイムリープしていた。というのも、当時小学生だった私は夏休みに向けて公開された『栄光への5000キロ』を(石原裕次郎・浅丘ルリ子主演のスタア映画でもあったのに、その顔も見えないヘルメットの横顔が疾走するポスターがカッコよくて)観たいとひとまわり齢の離れたビートルズ世代の兄にせがんで観に行ったのだが、確か割とその直後に新聞でシャロン・テート惨殺の記事を読んで、ちょっと知恵熱で寝込むくらいのショックを受けたのだった(今調べると『栄光への5000キロ』が7月15日公開でシャロン・テート事件は8月9日なので半世紀前の記憶はけっこう正しかった)。

折しも大阪万博直前の活気ある時代、戦争を知らない子どもたちが絢爛たるポップカルチャーを開花させていた季節だったのはよく覚えているが、たとえば前年の68年に日本じゅうを震撼させた略称・連続射殺魔の永山則夫事件のように、その豊かさの波に乗れず、こぼれ落ちていった暗黒面もじわじわと肥大していた。60年代半ばに作られた、戦後民主主義の挫折が連続強姦殺人魔を生むという悪魔的なポエジー『白昼の通り魔』は大島渚版の「ヘルター・スケルター」だったと言えよう。幼いながらに私はポップな60年代にそういう「魔」の空気を感じて怯えていたのだが、シャロン・テート事件はまさにそんなおそれをずばり現実化したような忌まわしき出来事だった。

そういう意味ではトラウマのように心の奥に刺さっていたシャロン・テート事件をモチーフにタランティーノが映画を創ったとなると、同じく激しいインパクトがあった連合赤軍事件に想を得た映画を観るのと同じくらい身構えてしまうのだった。しかし予想を裏切って、本作ではまず落ち目の俳優役のディカプリオとゴシップまみれのスタント俳優に扮したブラッド・ピットの絶妙なコンビの、なんとも間抜けでペーソスとユーモアに満ちた日々が緩めに紡がれてゆくのだった。ディカプリオがいかにも映画俳優にありそうな感情の起伏にさいなまれているキャラクターで、心を許したブラッド・ピットにはいつも泣き虫ぶりをもろ出しにしているのがおかしい。一方のブラッド・ピットも黒い噂が付いてくる割にはけっこう堅実で、愛犬とつましく暮らしていて飄々としたものである。

このしがない凸凹コンビは何だかんだ言ってハリウッドの華やかさの残滓に追いすがって、あまりカッコいいとは言えないものの、その夢の側の住人を決め込んでいる。タランティーノはマーゴット・ロビーがキュートに演ずるシャロン・テートも、ステージの違うスタア女優というよりは、この二人の延長上にいそうな、素朴でちょっとドン臭いところが好感を持てるキャラクターとして描いている。すっとぼけた彼らの描写とは対照的に、ハリウッド村から離れたわびしい観光牧場に住みついたマンソン・ファミリーの描写はなんとも病んでいる。この洗脳ヒッピー少女たちとアジトの表現の荒涼感はさすがだ。

そしてついに問題のシャロン・テート事件の日が訪れる。序盤の主演ふたりの面倒くさそうだがせっせと映画界で頑張っている日常、中盤のマンソン・ファミリーのよどんだ不吉な日常、これらが交錯していかなる事件の顛末になだれこむのか……その不安と期待は、いかにもタランティーノらしいやんちゃぶりで痛快に蹴とばされる。あまりネタバレは気にしない私だが、本作については何も情報を入れずに観ていただくことをお勧めする。

ここまで来て私は気づいたのだが、本作にまつわる関心のコアはシャロン・テート事件とはいえ、かと言って私はもうあんな病みきった事件を映画として観たくもなかったし、できることならあの忌まわしき時代の記憶が実は映画のようなフィクションであってほしいと心の深層で考えていたのであった。そんな気持ちにタランティーノは渾身の荒唐無稽さで応えてくれるのであったが、そこを通過した後はたまらないせつなさがやって来よう。まさに時代の闇が生んだ京都アニメーション事件が悪夢であってほしいと未だ願う私には、このタランティーノの悪ふざけは優しさと同義であった。