樋口尚文の千夜千本 第130夜「貞子」(中田秀夫監督)

(C)2019「貞子」製作委員会

細部に恐怖と官能は宿る

このところコメディの秀作『終わった人』からヒットしたサスペンス『スマホを落としただけなのに』、さらにエロティックなミステリー『殺人鬼を飼う女』と、邦画各社をまたいで精力的に「ひとりプログラム・ピクチャー」的活躍をしてきた中田秀夫監督が、『リング』の世界に帰還して新作『貞子』を撮った。第一作の『リング』が公開されてはや21年が経つが、私はこの映画が大好きで確かこの年のキネマ旬報ベスト・テンには3位で投票している。というのも、実は前日譚があって、私はかつて『帝都物語』で意気投合した一瀬隆重プロデューサーからその数年前に一冊の単行本を渡されて、これを映画化したいのでプロット化してほしいと言われた。

『リング』という素っ気ないタイトルで、地味な装丁からも版元のやる気が今ひとつ漂ってこないその小説を読んで、私は「不幸の手紙」が流行った昭和の子ども時代によくあった、少年誌の怪奇特集の(大伴昌司氏あたりがでっちあげていそうな)都市伝説コラムみたいだなと思った。それで一瀬プロデューサーには「こんなオールドファッションの怪談を今どき真っ向から映画化するなんてありえない」とか難色を示しつつ、換骨奪胎した別物のプロットを提出したのだった。そこでいったんぷっつり話は途絶えて3年後くらいであったか、一瀬氏からなんと『リング』が出来たので観てくださいと試写状が来るではないか。

だが、そこには「監督=中田秀夫」と記されていて、おやと思った。私はそれに先立ってWOWOW製作の中田監督第一作『女優霊』をテレビと劇場で二回観て、したたかに気に入ってキネマ旬報の連載レビューで絶賛していた。何がそんなによかったかというと、撮影所を舞台に新進監督が心霊現象に出会うその物語に、撮影所‥‥もっとずばり言えば中田監督が育った日活撮影所の持てる風情が横溢していて、ちょっと20世紀末に撮られたとは思えないくらいの情趣が画面の随所から漂っていたからだ。

その細部の繊細さは、劇中に登場する往年のテレビ映画の未現像フィルムの表現を圧倒的に素晴らしいものにしていた。それは、われわれが記憶の堆積の底に埋め込んだ映画やテレビの忌まわしき恐怖の記憶(私にもそういった1960年代あたりの映画やテレビの、不気味で解明されない映像の破片が未だあれこれ脳裡に刺さっている)を絶妙に表現していて、劇中で柳ユーレイの新進監督が「あれって何だったんだろう」とこわごわ魅入られる設定そのままに、われわれも強烈に作品に惹きこまれるのだった。

もしやあんな映像を創れてしまう中田監督なら、あの昭和の少年誌の怪奇コラムみたいな物語もなんとか映像化できるのだろうか、と淡い期待を抱いた私は、それどころか東宝の試写室で『リング』と相まみえるや椅子から転げそうにドッキリし、鳥肌が立ち、こってりと愉しまされたのであった。それもなんたることか小説『リング』に極めて忠実なのに!である。原作の筋書に首をかしげていた私は、ちょっと自らの不明を恥ずる‥‥と言うよりも、あの原作からここまでの恐怖描写を実際に練り上げる細部のセンスと粘り、その創造性に脱帽する感じであった。

これはある意味では最初に無から「ゴジラ」の具体的表現を築いたスタッフと同等のクリエイティビティであって、いわゆる「呪いのビデオ」の映像と、「貞子」というキャラクターの表現は、極めて独創的で斬新であった。最初に「ゴジラ」を見た観客が悲鳴をあげたように、私は初めて見る「貞子」の表現一式にドキドキしていたのだ。あの造型や動作もさることながら、意表をつく音響効果もものを言っている(先般、効果の柴崎憲治氏からその秘密を伺って感激した)。

しかも、『リング』は今ふうにJホラーなどと冠されていたけれど、見終えた後の感覚が『女優霊』の時と同じくまるで殺伐としたものではなかった。それは角川映画というよりも、角川が買収した旧大映の怪談映画のような、たとえば『怪談累ヶ淵』で二代目中村鴈治郎の宗悦がドドーンと自前の顔芸で観客を戦慄させるたぐいの、素朴な映画力に訴えたショッカーだったからだろう(だいたい普通に考えて髪の長い貞子がブラウン管から飛び出してくるなんてドリフ並みの発想なのに、これを真っ向から丁寧にやってみせて背すじが凍る思いをさせた、という原点回帰の発想があっぱれだった)。そんな次第で「貞子」そのものの表現はひじょうに新鮮なのに、恐怖描写の文脈は中村鴈治郎ふうの温故知新というのが、『リング』に(Jホラームービーならぬ)怪談映画としての情趣を醸していた。

さて、それから21年を経て、中田監督は『リング2』の国内版と海外版、まさに「真景累ヶ淵」の映画化『怪談』、『クロユリ団地』、『劇場霊』といった風味あるホラー映画の数々を同様のタッチで手がけてきたが、「貞子」を取り扱うのは14年ぶりのことだ。ここで最初の『リング』と大きく異なるのは、もう「貞子」があの時のような斬新な表現ではなくおなじみのクリシェになっている、ということだった。ちょうど「ゴジラ」が新作を重ねるごとに畏怖すべきものからおなじみの人気者になり、数々のライバルと延長戦を強いられてきたように、「貞子」も3Dになったり『呪怨』のダークヒロイン・加耶子と対決したりするはめになっていた。「ゴジラ」が遂にある時「おそ松くん」のイヤミの真似をしてシェーをしたように、ここしばらくの「貞子」はほぼセルフパロディのようであった。

あれだけ丁寧に原点を創った中田監督としては今回の『リング』新作『貞子』で、そういう傾向を差し戻したいという意欲はあったに違いない。だが、やはりわれわれは「貞子」と仲よくなり過ぎたようだ。ラストシーンのカーテンごしの貞子の表現など秀逸だが、かつてのような怖さはさすがに乏しい。ただ貞子の因縁の土地、伊豆大島の心霊スポットの表現などは、たとえば中島哲也監督『来る』のどうしても賢明さやクールな自意識を捨てられない表現とは一線を画す、あいかわらず真っ向からの怪談映画タッチで好ましかった。アクチュアルな虐待問題ふうの導入部など筋立ても工夫されており、『リング』『リング2』の佐藤仁美の再登場も嬉しいが、一瞥しただけで彼女を精神科に入れてしまったほどの貞子の水爆級の恐怖は、もはや彼女の記憶のなかにしかないのであった。

そこにおいては中田秀夫一流の情趣が作品を救っているのだが、しかし同じKADOKAWA作品でも『貞子』と相次いで短期間で撮影されたに違いない官能サスペンス『殺人鬼を飼う女』は長寿シリーズゆえの『貞子』の限界点を痛快に突破してくれる作品だった。そもそも東大から日活に入社し、ぎりぎり小沼勝にも師事している中田監督はロマンポルノから出発するはずだった才能で、実際にロマンポルノの継承作を撮るのは2016年の『ホワイト・リリー』を待たねばならなかったわけだが、この新作『殺人鬼を飼う女』は『ホワイト・リリー』で好演していた飛鳥凛がふたたびの起用に渾身で応え、これはちょっと想定外の拾い物であった。ここでも勝利の要因は、具体的な官能表現の細部にあって、そう言えばこの「貞子」創造でも奏功したディテールへの傾斜は、小沼勝が原点だったのかもと改めて思い至った。