樋口尚文の千夜千本 第129夜「旅のおわり世界のはじまり」(黒沢清監督)
前田敦子のエッセンスを遠心分離する
黒沢清監督がウズベキスタンからの委嘱で合作映画を撮ると聞いて、あのシルクロードの荒涼たる埃っぽい景色のなかに、縁もゆかりもない日本人を連れてきて、はたしてとってつけた感じでない得心のゆくドラマを紡ぎ得るのだろうかとまず思った。だが、開巻早々、これがまさにその「とってつけたような異邦人」をめぐる映画だと知って、瞬時にして惹きこまれたのであった。
前田敦子のTVリポーター、染谷将太のディレクター、加瀬亮のカメラマン、柄本時生のADという顔ぶれのTV番組撮影クルーが、ウズベキスタンにやってきて、何やら怪しげなネタ(川口探検隊ふうの「幻の怪魚を見た!」的なお題)をかたちにすべく、せっせとロケを敢行している。だが、現地ではあらかじめ口約束されていたようなものは何も撮れず、行き当たりばったりのネタに頼りながら、なんとか番組の体裁をでっちあげられたらいいやという雰囲気である。
染谷将太のディレクターは現地の鷹揚なペースになじめずキレ気味であり、かなり鍛えられた感のある加瀬亮のムービーカメラマンは常に淡々と粛々と仕事をこなし、柄本時生のADはとにかく優しく気を遣うムードメーカーである。彼らを案内するアディズ・ラジャボフ(好演)のコーディネーターはけっこう一所懸命だが、現場のトラブル相次ぎなんだか報われない。そして、こんな凸凹チームの要請に応え、前田敦子扮するTVリポーターは弱音を吐かずに辛い(時としてアホらしい)現場で奮闘を続ける。
このわかりやすい役割分担のクルーたちが物語の大枠を作っていて、熱血リポーターがクルーにどつかれて意気消沈したり、励ましにあってなんとか復活したり‥‥ということのほか明解なドラマの柱が据えられている。だが、この作品の最も魅力的で豊饒な部分は、その柱の立つはざまを縫い、すりぬけるようなかたちで移ろい続ける、やや名状しがたい前田敦子の「生態」なのである。ある時、カメラを持たされた前田は、後ろにメインのカメラを従えつつ、前方の光景を自ら撮影しつつリポートする。ノリにのった前田はバザールの喧騒を抜け、後ろのカメラからも離脱して、ひとり見知らぬ場所に行きついてしまう。あるいはちょっと買い出しに行くのにえんえんと歩いてしまって、不安な路地裏に迷い込み、不思議なものと遭遇する。
そもそも前田は秘めし夢があって、今のリポーターの仕事にはどこか確信が持てない。また、この縁のない国になじむ意欲もないので、仕事が終わるとホテルに閉じこもって日本にいる恋人とスマホで連絡をとっている。こうして異国にあって心の置きどころがない前田敦子は、くだんのようなかたちで言わば「自分探し」の放浪に出ることになる。そこで前田は、TVクルーたちの物語という柱に自らを繋ぎつつも、ぐんぐん遠心力で物語から離れてみせる。そして、日本人が作ったという由緒ある劇場のいくつかの間をどんどん進んでゆく時のように、前田はひとつひとつ物語の縛りを脱ぎ捨て、やがて前田という存在のエッセンシャルな輝きを映すような『愛の讃歌』の瞬間に到達する。これは、実に美しい映画である。
気負いも衒いもない澄明なまなざしで、全篇出ずっぱりのヒロインを見つめ続ける黒沢演出は、女優前田敦子への愛情がみなぎっており、その信頼に応える前田もあいかわらず映画的に弾けている(そう言えば遠心分離で思い出したが、あんな人間遠心分離機みたいな絶叫マシンに乗ることも厭わないなんて、もう捨て身である)。そんなことを他人事のように語る私も、前田敦子愛では本作に勝るとも劣らない主演作『葬式の名人』を監督した。その現場で前田敦子の映画を実らせる巫女ぶりには心底唸らされ、黒沢監督の偏愛があまりにもよく理解できるのだった。