樋口尚文の千夜千本 第127夜 【追悼】 萩原健一

(C)松竹/映画『約束』(松竹ブルーレイ・コレクション)

何かの間違いで演技を引き受けるがごとく

内田裕也に次いで萩原健一がまだ68歳で逝った。内田裕也の追悼でも記したように、シンガーの演技は演ずる役柄の妙味もさることながら、俳優本人の個性が「半生」で露呈しているところが魅力的であった。そこには、本人のけはいをすっかり消して、きっちり虚構の役に没頭する職業的俳優とはひと味もふた味も違う新鮮さがあって、その虚実皮膜のあんばいが映画という表現をいきいきとさせた。内田裕也と萩原健一、そして沢田研二は、そういうタイプの演技者で、興行不振に陥っていた1970年代の邦画を弾けさせる起爆剤だった。

1960年代後半はGSのザ・テンプターズのヴォーカルだった萩原健一が本格的な映画出演を果たしたのは、意外な展開あってのことだった。GSブームも去って1971年2月にザ・テンプターズは解散、次いで沢田研二、井上堯之、大野克夫らと新たなグループPYGを結成するも、ほどなく沢田は独立してソロ活動を始めて、これも解散。以後、萩原は俳優に転ずることになるが、そもそもは映画監督に関心を示していた。それゆえ、72年公開の斉藤耕一監督『約束』には、当初なんとサード助監督として参加していたのだが、主演女優候補だった岩下志麻、岡田茉莉子らとなかなか条件が折り合わず、そうこうしているうちに主演男優だった中山仁まで降板することになった。

万事休すの状況で、萩原のアイディアでパリ在住の岸惠子にシナリオを送ってみたら意外や快諾され、さらに不在の主演男優を萩原が担うことととなって、辛くもこの作品は成立することとなった。汽車のなかで偶然に出会った中年の女と若い男の間に、じわじわと恋愛感情が芽生えるも、そこには御し難い壁があった。このシンプルな愛の寓話を、斉藤耕一は生成りのナチュラルな映像をもって描いてみせた。そして、何かのめぐり合わせでこの映画に出ることになった萩原は、(当然それだから気軽にとは行かなかっただろうが)かかる瓢箪から駒のような状況をお気楽に愉しんでいるような演技を見せるのだった。

事ほどさように『約束』でのシャイで自然なショーケンの表情、しぐさ、アクションの遊戯性は、ただ生真面目に役づくりする俳優からはひっくり返っても出てこない独特なニュアンスを発散させていた。これを受けての翌73年の篠田正浩監督『化石の森』の低温のダークな演技、市川崑監督『股旅』のドライな演技と試行が続いて、74年の神代辰巳監督『青春の蹉跌』で萩原の演技の資質は全開となった。あの演技者を放牧するような神代演出の鷹揚な器のなかで、萩原は上昇志向と欺瞞に生きながらやましさに憑かれている若者に扮して、実に新鮮な役柄へのアプローチを繰り出した。70年代のシラケた空気感のなかで野望と保身に汲々としながら生きる後ろめたさが、まさに体現されていた。

だが、厳密な意味で萩原健一のこうした鮮やかな持ち味が冴えわたったのは、ほんのひとときだったような気がする。『青春の蹉跌』に続いて神代辰巳監督と組んだ1975年の『アフリカの光』や蔵原惟繕監督『雨のアムステルダム』では、早くもこうした萩原の自在な演技を萩原自身が模倣反復している感があった。その結果として「やり過ぎ」な演技が目につくようになってしまったのだが、興味深いのはこのあたりから逆にテレビドラマでは人気が沸騰したのだった。1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』、同年の日本テレビ『傷だらけの天使』、翌75年の『前略おふくろ様』などの萩原は、それに先立つ72年の『太陽にほえろ!』のマカロニ刑事のようなフレッシュさよりも、ショーケンがショーケンを演じているようなトレース感が目立ってきた。だが、そういう「やり過ぎ」なほうが、テレビドラマにあってはわかりやすく、なじみやすいのだろう。

それでも映画にあっては1977年の野村芳太郎監督の大作『八つ墓村』のミスマッチな飄々とした雰囲気も悪くなかったが、どうも1980年の黒澤明監督『影武者』で武田勝頼を演じたあたりからその「やり過ぎ」な上に演技が凄絶な力演に変質していった。1982年の伊藤俊也監督『誘拐報道』や1983年の神代辰巳監督『もどり川』の萩原健一の演技はそちらの方向でのひとつの成果ではあったが、役柄になりきった深刻なる演技であり、70年代の萩原の「なりきれない」面白さはすっかり褪せてしまった。後に1999年の大河ドラマ『元禄繚乱』で徳川綱吉に扮した萩原が、すっかり別人のごときオーバーアクトになっていて驚いたが、やはりこういう熱っぽい演技のほうが俳優本人は「達成感」があるのだろうか。観客の望むものと本人の望むものの乖離という点で、80年代以降の萩原健一の演技の変容はまことに興味深い。