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樋口尚文の千夜千本 第81夜「この世界の片隅に」(片渕須直監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

「調査魔」映画のかけがえのない境地

本レビューの、たとえば昨年の『恋人たち』や今年の『シン・ゴジラ』や『リップヴァンウィンクルの花嫁』の評などはシャレでなく「世界最速」だったのだが、実はさいきん最も誰の意見も感想も聞かないでいちばん乗りで評を書きたかった映画に(ずっと難儀な単行本の仕事に集中して試写行きを禁じていたので)乗り遅れてしまった。その作品は片渕須直監督のアニメ映画『この世界の片隅に』だ。

本作の評を公開前に書けなかったのは一大痛恨事だったが、後発でも何か評を書こうと思いつつ、あまりの好評でわんさと玄人から素人まで新聞雑誌からSNSまで感想が溢れかえっているので、否応なくそれが目に入るのがやっかいだった。ところが、本作の不思議なところは、そういう好評をいくつか目にしても、本質的なところで何がどういいのか、ということが全く記されていなかったことだ。この際、もう少しいくつかの論考を読んでみても、やはり一向にそこがわからない。逆に、はしなくもそのことが本作のよさを表わす難しさを語っている気がして、今からでも何かエッセンシャルなことを書けるかなと、遅ればせにアップすることにした。

『この世界の片隅に』を観て、泣きの涙であった、という賛辞も多いが(まあそんな善意好意のナミダを貶めるものではないが)、力作『湯を沸かすほどの熱い愛』などとともに、私はこの作品を観て感傷のナミダは一切流れなかった(言っておくが私は凄まじくナミダもろく、『砂の器』みたいな「泣かせ」の芸で見せる映画にはすぐ白旗を振る)。『砂の器』のようなお涙頂戴の大娯楽映画を私は肯定するけれど、『この世界の片隅に』や『湯を沸かすほどの熱い愛』が届けてくれる感興は、そういうナミダで喝采を贈るたぐいの作品より、もっと贅沢で含み多きものだと思う。だから、すぐ泣いちゃうお客さんはとてもいい方だとは思うけれど、一方で本当にいい作品にはそう易々とは泣かんでほしいとも思う。それが、『この世界の片隅に』ほどの毅然とした志と思いをもった作品に対する「礼節」ではなかろうか。

と、なんとなく大林宣彦監督の専売特許の論調めいてきたが、思わずそんなことを感じさせてくれる、これはちょっと得難い作品であった。このナミダとか情緒に絡めて言うならば、本作の驚嘆すべきところは、「調査魔」の片渕監督が調べに調べあげた戦前~戦後の広島県呉市の風景、そして軍港の日常、戦闘の状況など、あくまで「情緒的イメージ」ならぬ「考証資料」を軸に世界が構築されているということだ。日本映画史にあって「調査魔」と言えば真っ先に名が挙がるのは今村昌平監督である。その愛弟子の長谷川和彦監督もその「調査魔」遺伝子を継承しているが、いったいなぜ映画を作る時に「調査」が必要なのか?ドラマの核心に至る劇の構造さえ踏まえれば世界の細部は独自の「情緒的イメージ」で作ったっていいのではないか?・・というのは、ずっと私の疑問であった。

そこである時、私は長谷川和彦監督に「調査魔であることがなぜ映画づくりで重要なのか」を尋ねてみたのだ。すると、概ねこういう解答が返ってきた。つまり、調査して細部を描く足がかりにするのは「手段」に過ぎないが、その世界観づくりあってこその別のステージ(それは「真実」と言われるものかもしれないが)に「跳ぶ」ことができる。それこそが「調査魔」たることの「目的」「ゴール」であるのだと。私はこの答えには思わず唸った。実際、長谷川作品自体がその映画内リアリズムから発した刺激的な「跳躍」を感じさせるし、今村昌平の『復讐するは我にあり』など、もうそのリアリズムを突き詰めた「跳躍」がいかに魅力的であったことか。

こういった執念の生むたぐいまれな境地を、『この世界の片隅に』にも見てしまうのである。この一種冷徹なくらいの映画的思考に、われわれは安閑とナミダなんかしている場合ではない。ある航空資料の研究家が詳細な研究成果を『風立ちぬ』の際にスタジオジブリに提供したところ、くだんのパターンで言えば「情緒的イメージ」で作品を作り続けてきた宮崎駿は、特にその「事実」の資料群に拠ることはせず空想力で作画していたという逸話を聞いたことがある。もちろんその徹底によって宮崎アニメは独自の世界をなしているわけだが、『この世界の片隅に』はそういった宮崎アニメのアプローチとは真逆の構造と匂いから出来上がっている。つまり、この作品はあくまで非ファンタジーであり、それが時々、主人公の北條すず(声:のん)が爆撃を見ながら「こんなとき、絵具があれば・・」と一瞬迷い込む夢想や、幼い晴美と手をつないでいた時の爆撃後の幻覚のなかでひとときだけ異次元に「跳躍」する。

とはいえ本作にあっては、それら瞬時の「跳躍」もじゅうぶんに蠱惑的ではあるが、戦時下の貧しい食事を工夫するレシピや即席のモンペの作り方から、呉の映画館にかかっている映画が松田定次監督『河童大将』であることまで、当時の事実の精密な再現こそがなんといっても主役である。この静謐なる積み重ねを通して、片渕監督はいったい何をしたかったのか。荒井晴彦監督『この国の空』の評でも書いたが、ここで目指されるものは長田弘氏にいわゆるパトリオティズム(日常愛)、愛国心的なナショナリズムとは全く違う宏量なパトリオティズムであって、それはひらたく言えば「生活様式への愛着」である(氏によれば、平和とは「戦争や災害で破壊された日常を取り戻すこと」なのだ)。

そして私はファンタジーとしていくらでも好きなことができるアニメこそ、実はこの地味きわまりない「日常愛」を描くのにうってつけの手段であることに、本作を観ていて気づかされるのだった。なぜなら、実写の劇映画ならごくなんでもないものとして通過しそうな、焦がさないように飯を炊く、大事な砂糖をしくじって水に溶かす、不自由なからだで草履を編む、防空壕の地面に似顔絵を描く・・といった「日常」の細部がちょっとしたスペクタクルめいた域にまで味わい深く見えてくるのである。そのアニメならではの魅力を最大限に活かして、「調査魔」の成果を存分に昇華させる。のんのひじょうにのんびりとした声は、戦前であれ戦中であれ「日常」は地続きであることを鮮やかに印象づける。憲兵の一件も家族で面従腹背しながらバカ笑いして、どんなに見えざる「国家」が硬直しようとも、家族の「日常」の具体性は、とことん死守される。

みごとなのは、そんな豊かな細部をともなう具体的な「日常」の描写が、空襲警報相次ぐ戦局悪化の季節となると、どんどんシークエンスも短くなって抽象化してゆくことだ。その禍々しさ極まるところ、ある理由からすずは絵を描くという無類の愉しみをもぎ取られる。絵を描くという表現行為は、言わば「日常」の上澄み、平和で美しい具体性の結晶である。その「日常」のたからを無惨に剥奪したというのに、戦争の終焉はあまりにもあっけない。玉音の直後、喪失したものの重さとその幕引きのでたらめさのギャップに愕然とした径子は慟哭し、あれだけ穏やかだったすずも烈火のごとき怒りをほとばしらせる。かかる本作の感情の高みをわれわれはやはり安手の感傷にすり替えるのは慎まねばならないだろう。われわれが片渕監督とすずから受け止めるべきは、むしろこの虚しさで気を失いそうなくらいの怒りと、日常の真逆にある抽象的な圧力への心の底からの憎悪だろう。

私は全く本作の内容を遮断していたので、黒木和雄監督『TOMORROW 明日』のように、のどかに優しく描かれた日常が原爆で虚無と化す作品なのだろうと思っていたが、これはあくまで広島ではなく呉の話だから、その予想は覆された。逆にそれは軍港ゆえに最悪の空襲にさらされつつも、原爆で灰燼に帰すわけでもなく、いわば地獄と隣り合わせで生きていかねばならない、という人びとの立ち位置を示している。だから、物語は戦後も終わらない。「調査魔」映画にふさわしく、敗戦後のすずは奇しくも「実録」やくざ映画『仁義なき戦い』の騒然たる呉の闇市に立ち、進駐軍の残飯のなんでもごった煮鍋をつついて、一家で「うまい」と笑う。そのタフネスに、漸くちょっとだけわれわれもホッとできる。かくして灯火管制から解放された北條家に、いつものごく当たり前の団らんの灯がともる、そのことのかけがえのなさを片渕監督は手づくりのアニメ技法の語彙を総動員して語りあげた。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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