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樋口尚文の千夜千本 第46夜「日本と日本人」(市川崑監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:アフロ)

クールなモダニズムが刻んだ昭和のしたたかなる熱さ

市川崑監督の『日本と日本人』というタイトルは、映画ファンにとっても余りなじみのないものだろうが、実はある世代以上のけっこう多くの人たちがそれと知らずにこの作品を観ているかもしれない。というのも、なにしろ本作はのべ入場者数が6400万人を超えた1970年の日本万国博覧会、通称大阪万博のパビリオン「日本館」の目玉として上映されていた大型展示映像なのである。しかも当時としては画期的な8面マルチスクリーンで、市川崑監督のもと脚本が谷川俊太郎、音楽が山本直純という充実のスタッフによって制作され、展示映像としては長尺の20分にわたる大作であった。

2013年に九州大学の脇山真治教授が長く倉庫に眠っていたこの原版を発見したが、マルチの8面ごとに3巻ずつフィルムがあるため、上映時間20分と言っても原版は計24巻にも及んだ。これは市川崑監督の意向を受けた映画機材会社が、通常の35ミリの二倍に相当するコマを横走りで撮影・上映できるようにハードを独自に開発した賜物で、当時としてはかなり解像度の高い大型映像が実現された。だが、なにぶん大画面の8面マルチであるため、その本来の形式で観るには、さらなる煩瑣な作業が必要とされた。そこで発見から二年越しで東宝がこの原版をデジタル修復しつつ、且つ全体をひとつの画面内で同期させて当時の8面上映を再現するかたちに仕上げ直した。まさに見た目以上に凄まじい手間を要する作業を経て『日本と日本人』は蘇り、首尾よく東京国際映画祭でお披露目となった。市川崑ファンにとってもこれはよもや再見かなう由もないと諦めていたタイトルであろうから、実に意義のある試みだ。

大阪万博は、敗戦後の焼け跡から這い上がっていった日本が朝鮮戦争の特需から高度経済成長を経て、驚異的な復興を遂げた戦後四半世紀の総決算として催された。いわば64年の東京オリンピックで世界の仲間入りをした日本が、奇跡の成長とさらなる発展をアピールする科学と文化のショーケースが70年万博だった。当時小学校の低学年だった私も、その会場の未来都市的なイメージに猛烈にかきたてられ、親にせがんで初めての飛行機に乗せてもらって田舎から大阪吹田の万博会場へ飛んで行った。日本航空の飛行機に乗ると、ハナエモリの濃紺のユニフォームを着たミニスカートのスチュワーデスさんが、万博マークのついたアイスクリームや簡易な望遠鏡をお子様には配ってくれてときめいた。文字通り当時の日本は万博一色であった。そんな期待感いや増すなか漸くモノレールでたどり着いた万博会場の、太陽の塔のあまりの巨大さと未来感に私は全身感電するようであった。

そして私は確かに『日本と日本人』を当時の日本館のマルチ画面で観ているのだが、何しろ爆発的な数の入場者が押し寄せていたので、落ち着いて眺めた記憶はない。しかし、画面がとにかく大きかった印象と、たとえばよそのオーストラリア館のマルチ映像などが(当時なかなかあの大きさに対応できるプロジェクションシステムがなかったのか)いくぶんボケ気味であったのに対して、『日本と日本人』はあの大きさにしてずいぶん高精細だったような記憶がある。調べると、当時のスクリーンは16×48mの巨大なもので、それを収容人員1100名のシアター形式で観るという当時ふうに言えばジャンボサイズ、山本直純の出ているチョコレートのCMに「大きいことはいいことだ」という有名なキャッチコピーがあったけれども、そんな時代の気分を映す勢いの産物だろう。

エキスポ’70は、そんなふうに子どもにとっては全てがでっかくて勢いに満ち、ハイカラできらきらしていた・・・まさに時代そのものの象徴だった。急速な経済成長の裏ではすでに深刻な公害問題が浮上していたが、子どものわれわれは万博のスローガンであった「人類の進歩と調和」がひたすら眩しく心に刷り込まれた。テクノロジーの際限なき進歩が実現する明るい未来像を植え付けられたわれわれ万博の子どもたちにとって、だからこそ21世紀の原発災禍による国家的危機は、一気にそのポジティブな夢の時間のつけが回って来たような、何か幼少期からの甘美なビジョンを根本的に粉砕されるショックがあった。

事ほどさように未来に対して懐疑的であることを避けられない今の私とって、この市川崑監督『日本と日本人』(これは日本館のテーマそのものであった)との45年ぶりの再会は、まるで伸び盛りで活気に満ちた異国の出来事を見るような体験であった。本作では一貫して背景となる霊峰富士の神秘性とモータリゼーションを筆頭とする産業の発展が対置され、たとえば今やもう見かけなくなったような、いかにも大地に根を張って生きている感じの田舎の農家の大人や子どもたちの風貌が映し出されたかと思うと、都会の真ん中でツイギーみたいなポップなスタイルでゴーゴーを踊る若者たちが闊歩する(富士をとらえる時のスタティックな厳かさとは裏腹に、こういう若者文化やレジャーを描く時の市川崑は見事にマルチスクリーンを使いこなして比類なきポップさを全開にする!)。その落差が、現在のどこへ行っても金太郎飴のように均質化した日本とは違って、まるでひとつの国とは思えないほどのギャップなのである。やはりこれはまだ国際社会のなかで、なんとかもっと上へ上へと一気呵成に走っている途中の国の風情だなあと思う。

私はこの貴重な復元版を、くだんのフィルム発見者の脇山教授、『吾輩は猫である』『犬神家の一族』の頃から市川崑作品の大多数を編集している長田千鶴子さん、そしてあの余りにも有名な記録映画『東京オリンピック』でアベベが期待の円谷を大きく引き離す伝説的なカットを撮影した(!)山口益生さんとご一緒に初号で拝見する機会に恵まれたが、そういえば『東京オリンピック』で一種市川崑の姿勢表明を感じたのが、冒頭のタイトルバックにわんさと人が行き交い都電が走る騒然とした映像を持ってきたところだった。あのざわざわした光景は、まるで発展途上にある東南アジアの某国といったおもむきで、おそらく当時のオリンピック担当相が期待したであろう東京という街と大会の近代的に整備された晴れがましい部分だけで切った通り一遍の記録映画ではなく、古い街が壊されて近代的な五輪施設が造られるさまや庶民の素顔、さらに大会中の選手たち個々人の横顔にも踏み込んでいくぞという意志を感じた。

そして映画『東京オリンピック』公開からぴったり五年後に開催された大阪万博でお披露目となった大型映像『日本と日本人』でも、近未来的なビジョンの華麗なつるべ打ちであった万博会場の雰囲気とは真逆の、極東の神秘的な国である日本人の相貌と日本の光景を「シーニュの帝国」のロラン・バルトが日本人を眺めるようなまなざしでとらえてみせ、まずは万博のモダンさや晴れがましさとは対極にあるニッポン人の土着性、信心深いミステリアスさを印象づける構えだ。ここは『東京オリンピック』に続いて市川崑のこだわりどころであったことだろう。

その入り口を経てはじめて、おなじみの市川崑の極めてスタイリッシュな映像と洒脱でポップな編集をもって当時のさまざまな日本の断面が描かれてゆく。それこそ長田千鶴子さんが編集をつとめる後半の「金田一」シリーズなどで市川崑は随所に出演者たちの顔を8面マルチでインサートして洒落たアクセントにしていたが、これとて『日本と日本人』でさんざん試行錯誤して得られた呼吸に基づくのではなかろうか。また、市川崑といえばおなじみのタイポグラフィのデザインも(一画面のなかでの鋭角的なグラフィックデザインは1950年代から試行されているが)なんとこの8面をひとつの大画面とみなしてきっちりと施されている。

現在のデジタル編集技術をもってすれば8面にわたる画と音のパッチワーク作業もかなり容易のはずだが、この制作時はフィルムコンテと称して実際に複数のフィルムを切り貼りしながら、全体像をつかんで指示出ししていたそうで、それはもうただ鑑賞していても想像がつかないくらいの手間のかかりようだったわけである。今やたやすい時間の呼吸や画面のレイアウトなど、相当な粘りがないと反映できなかったことだろう。そのややこしい工程を経てたどりついた画面ごとのレイアウトや編集のリズム(なにせ8面がオーケストラの編成のようにばらばらに作用しあうのを調和させないといけない)は何分の一秒単位でよどみなく狂いなく、まあよくぞプリミティブなアナログ編集の時代にこれをやりおおせたものだと思う。

ところでテクノロジーの発展に対置して霊峰富士の威容を映し出すといっても、通り一遍の美しい富士山を遠景で描く平凡なやり方とは訳が違って、冒頭からしてちょっと驚いた。そこには見たこともないような富士の火口をすぐ上からとらえたショットがあった。これはいったいどうやって撮った画なのだろう、と首を傾げていたのだが、参加カメラマンのおひとりであった山口益生さんによれば監督はもっと真上からの撮影を希望していたが、さすがに動員した自衛隊のヘリをもってしても当時としては火口真上にホバリングすることは危険を伴い、火口周囲を旋回することでかんべんしてもらったのだと言う。まさにそういう無謀な(?)撮影やかつてないマルチ大画面の煩わしい作業を面白がってどんどん買って出る、この”そこまでやるか”という「昭和のやんちゃ」とも言うべき創作姿勢自体が、この大阪万博の頃までの日本の高度成長を支えたスピリットでもあったに違いない。

すなわち『日本と日本人』で描かれる日本の神秘性と日本人のモーレツなエナジーの不思議を、この作品自体の工程自体が実践的に表しているというわけだが、惜しむらくは音声原版が見つからず谷川俊太郎のナレーションや山本直純の音楽が欠落したサイレント状態で観るしかない本作で、幸いにも締めくくりのメッセージはタイトルとして残っている。それは「明日を創るもの それは私たちひとりひとりの今である」というものだ。一方、本作のなかでひじょうに印象深いカットとして、冒頭の空撮を筆頭にずっと神秘的な威容をもって都度都度映し出される富士山に(まるでそこは万博会場かというくらいに)芋の子を洗うがごとき登山者の群衆が押し寄せているさまがあった。貧しさから這い上がってカー・クーラー・カラーテレビの3C=三種の神器を手に入れようと働きまくった高度成長期の日本人は、こうしてレジャーにも家族総出で一所懸命であったなあと、その恐るべき活気に満ちたカットが思い出させてくれる。

戦後、小さな一歩一歩を踏みしめて富士山を登るように、この「私たちひとりひとりの今」を多くの国民が並外れたポテンシャルで積み上げて経済繁栄の頂きを目指していたあの時代。『日本と日本人』は、市川崑一流のキレのいいモダニズム横溢する20分ほどの時間のなかに、その頃の眩しい活気を強烈にフラッシュバックさせるものがあって、心に懐かしさ、驚き、憧れがないまぜとなった疼痛を呼ぶ。そして、これが異国の出来事にようにすら思われる今、はたしてこれからのこの国のよりどころは何なのだろうか、などとつい考えさせられるのであった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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