樋口尚文の千夜千本 第29夜「海街diary」(是枝裕和監督)

(写真:毎日新聞デジタル)

「柔らかい殻」の内側で静かに身を守ること

是枝作品にはもう四半世紀前の初期ドキュメンタリー時代から伴走しているけれども、個々の是枝作品は評価が高いにもかかわらず、では何か是枝監督固有の魅力なのか、ということは案外ほとんど論じられていないという気がする。確かに是枝監督は作品ごとにさまざまな題材を見つけてくるので、これがトレードマークの「作家性」というふうには輪郭づけにくい感じではある。

たとえば溝口やアンゲロプロスや相米は長回しのワンシーン・ワンカットだとか、深作は増感の手持ちカメラで黒澤はマルチカメラだとか、そういう映像技巧的な「型」があると「作家性」は語りやすいのだが、是枝作品にそういう際立ったわかりやすい画の技巧があるわけではない。なんとなく正調の演技を撮るにも生成りで自然体のドキュメンタリー・タッチを狙うような構えである・・・という印象ぐらいは一貫してあるかもしれないが。

そんなわけで是枝作品の「作家性」は語り難いので、是枝裕和論はなんとなく「作家論」よりは各論ばかりであった。自分とてそんなに大所高所からの俯瞰ができるわけではないが、ただ私は是枝裕和、岩井俊二といった作家が同じ1962年生まれの「同級生」であるために、この世代・・というよりはもっと絞ってこの「年次」がどんな世代的位置にあってどんな感情にとらわれているかについてはいくらか敏感であるかもしれない。実はこの1962年の”クラスメート”には、既にこの世にはないあの稀代の連続少女誘拐殺人事件の犯人と、オウム事件時の教団の広報リーダーとして余りにも知られる人物がいる(しかも二人揃って偶然ながら私の「友達の友達」という至近距離にいた)。世間を震撼させた彼らはいずれも、既成の社会体制の長い安定と閉塞のなかで途方もない虚無を抱えて暴走した極端な例ではあるが、到底他人事とは思えなかった。先行世代の培ったものの強烈な重しを感じながら、しかし同時にそのシステムの安定の恩恵に浴しつつ、たとえようもない息苦しさと孤独と限界を抱えていたというのはわが世代に共有された感覚と言えるだろう。

この世代感覚が映画の作風にどう投影されるかというと、おそらく好きなもの、好きな世界(ひいては自分自身)へのナルシスティックで優しい沈潜という傾向になるのではなかろうか。もしも1960年代の全共闘時代から連合赤軍事件までの若者ならば、高度経済成長とともにわが国の枠組みが密に構築される過程でのひずみ、歪みに向けて対外的な主張や連帯が可能であったし、それがもはや流行りでもあったかもしれない。だが、1962年の子どもたちは壊そうにも安定しきっているシステムのなかで、何が敵で何が主張か措定できないようなところがあった。そのやっかいな閉塞感のなかで、くだんのように反社会的な暴走に走るわけにもいかない若者たちは、とにかく好きな世界に籠って「柔らかい殻」をつくってただ豊かさに馴致されないよう身を守るしかなかったのではないか(連続少女誘拐殺人事件の犯人の部屋が実相寺昭雄監督の封印作品「ウルトラセブン」12話を筆頭に好きなものだらけの城砦であったのは余りにも象徴的だが、彼は不幸にも一線を越えてしまった)。

一線を越えることをしなかった是枝裕和や岩井俊二は、その「柔らかい殻」の内側で培ったポテンシャルを「犯罪」ではなく「表現」に結実させて、(もう撮影所は映画監督を生み出すことをやめていたので)まずはテレビのドキュメンタリーやアーティストのPVといったところでそれを発揮しながら、なんとか回り道しながら映画を作るというステージに辿り着いた。世代的には祖父の世代に小津、溝口、黒澤、成瀬がいて、父の世代に大島、今村がいて、その撮影所の成熟または崩壊を映画づくりの原動力としてきた上の世代の華々しき「伝説」を仰ぎ見つつ、自らは撮影所も機能せず独立プロも冴えなくなっていた時代に映画づくりを志向するという、ひじょうにめぐり合わせの悪い時代にいたのがわが世代だ。

戦後から高度成長期に至る社会の活気と隙間を背景に、奔放にやりたい放題をやって暴れまわった先行世代の自由さを鬱陶しさと憧れ半々で顧みつつ、しかし自分は好き勝手を禁じながらしがない現状のなかでえんえん先行世代の戦後処理をさせられているような、そんな是枝のポジションが、『海街diary』の四人姉妹の長女・綾瀬はるかに重なってみえた。いや本当に、あの先行世代のマイペースぶりに苛立ちながら、でも自分は気ままに自由奔放な行動には出られない綾瀬はるかは、是枝裕和そのものではないか。

不倫で家庭を破壊した父を軽蔑しながら、自らも堤真一の医師と不倫関係にあり、しかし結局無茶はできない綾瀬はるかの全篇を通した「柔らかい殻」のバリアを張ったような態度も、まさにそんな感じである。是枝を長女として、次女の長澤まさみを西川美和、三女の夏帆を砂田麻美と”是枝一門”に読みかえるのは聊か裏目読み過ぎるかもしれないが、先行世代への疎ましさ、憧れといった感情の総量や逆にそんなものからふっきれて自然児的に自己主張できるかどうかの度合いのグラデーションは、こう敷衍するとわかりやすいかもしれない。要はわが1962年の世代は、いかにも不自由であり身軽になれないのである。

父の記憶がないだけに憎悪の感情もない夏帆は自由であり、さしずめ映画監督ならフィルムへの固執もなく、軽快にデジタルカメラで「映画」を撮ってしまう世代だろう。だが、綾瀬はるかもそうであるように、是枝はそう易々と自在にはなれない。この「最後の日本人」的な上の世代への目配せというか一種の貞操観念を継承または理解していることが美徳ともいえるが、その縛りゆえにのびのびとしているようでアナーキーにはなれない・・・そこがよく「この世代は新人類と言われながら相当保守的である」と批判されたゆえんかもしれない。実際、『DISTANCE』も『誰も知らない』も新興宗教の教祖や子を放置する親など身勝手で自由な先行世代のつけが回ってきた子ども世代を描いていて、実はこの主題はこれまでの是枝作品にも反復されてきたものなのだが、子どもたちは外へ向けてプロテストするのではなく、あくまでその状況に侵されないように「柔らかい殻」のバリアを張って自らを守ってきた。これを「保守性」と言うのは容易だが、社会や時代との巡りあわせに照らせば、わが世代にあってこれはせいいっぱいの最良の解答なのだ。

そして、『海街diary』の綾瀬はるかも、『DISTANCE』『誰も知らない』以来の「柔らかい殻」で身を守る是枝的人物の系譜に連なるわけだが、その特筆すべきところは、かと言って彼女は(これまでの是枝的人物と同様に)被害者意識にとらわれているのではなく、上の世代の樹木希林の偏見や大竹しのぶのわがままを毅然と一蹴しつつ、未知なる異母姉妹の広瀬すずを受け入れようとする。さまざまな愛憎のいきさつをこえて広瀬すずを家族として迎え入れることだけが、お騒がせな先行世代の戦後処理のとどめだということを綾瀬はるかは知っていて、それをやりおおせることが自分の世代の使命だということを自覚しているからだ。はたしてわれわれの世代がこんな立ち位置を引き受けられているかどうかは怪しいが、それだからこそのこの綾瀬はるかの姿は是枝裕和のひとつの意思表明なのだろう。

そして『海街diary』全篇は、是枝作品ではおなじみのナルシスティックな、自らの好きなもの、好きな世界観への沈潜が随所に確認できて、そこはあいかわらずちょっとくすぐったくもあり、けっこう快感でもあるところだ。原作が評判の少女マンガであること以前に、この雰囲気のよって来たるところは是枝監督その人であろう。私はかかる是枝監督のロハス性・・いやむしろ乙女のごとき少女性において岩井俊二監督と相通ずるものを強烈に感じるのだが、実はこれは単なる趣味の問題ではなく、くだんの「柔らかい殻」という世代感覚に近いのではなかろうか。この感覚の原点はもしかすると是枝も岩井も影響を隠さない佐々木昭一郎あたりかもしれないが、佐々木ほど痛快で倨傲なまでのこわばりに振りきれない(だから「柔らかい」)ところが、またこの世代の大変さであり、創り続けるための欺瞞であるともいえるだろう。ともあれ『海街diary』はさまざまなことを考えさせてくれる、よく出来た作品であった。