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樋口尚文の千夜千本 第19夜 「SHARING」(篠崎誠監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
東京フィルメックスにて上映時の舞台挨拶(撮影=樋口尚文)。

映画という夢魔を蘇らせる無表情な儀式

東京フィルメックスで篠崎誠監督『SHARING』を観たが、あまりに面白すぎて時を忘れた。

シンプルであるがゆえに多義性を保持しつづける映像が、この作品がいかなるジャンルの物語を擁するものか、はたまた人物たちがどんな意図でどこへ向かおうとしているのか、そこを悟られまいとポーカーフェースを決めこみながら、淡々と紡がれてゆく。

大学で社会心理学を教える瑛子(山田キヌヲ)はどうやら3.11の災禍で喪失した恋人の夢を見続けているらしい。いや正確にいえばそれを含む暗示的な夢をいくつも見ていて、しかもそれらが未来を予知しているのではないかという推測を抱きはじめている。一方大学には、やはり3.11にまつわる演劇の練習を積むうちに予知夢を見るようになった演劇科の学生・薫(樋井明日香)がいる。

やがてこの二人は引き寄せられるように接点を持つが、夢にまつわる考え方で激しく対峙する。瑛子にとって予知夢は治癒すべき悩ましき病いのようなものであるが、薫はその夢は自らの一部として受容すべきものだと主張する。そして物語の上では、二人はやがて夢を通して奇跡的な交感=SHARINGを果たすことになるのだが、こうして夢をめぐる物語が映画として全篇に沸き立っているのは、本作自体が不断の夢を生きるようなつくりになっているからである。

そもそも夢を見ている時の意識はそれが夢だか現実だか線引きしていない。言葉を換えれば、夢という現実を特異なそれなりのリアリティとともに生きている状態と言えるかもしれない。しかしこうした夢の特徴は、映画という表現のラディカルな属性に通ずるものがある。というのも、ある物語の映画を観ている時、人はそれが現実の場面なのか夢の場面なのか、その審級を絶対に判断できない。そこが映画というものの魅力であり怖さであるだろう。

ところが、その映画の持てるおぞましいくらいの怖さがおおかたは通俗化して、「夢オチ」などと呼ばれるようになっていて、それは今や安易な禁じ手のたぐいである。もうデ・パルマの『キャリー』や『フューリー』のラストようなことをしても誰も驚かないというわけである。しからば、どうすれば映画はその本質的な「ホラー性」を取り戻せるのだろうか。その手だてとしては、何よりこれがいかなる映画なのかという顔つきをあらわにしないということが大前提である。

ちょうど劇中の瑛子の台詞に「人を他の生物と区別するのは、人は自分が必ず死ぬことを知っていて、いつ死が訪れるかもわからないという予感から恐怖する」という意味の台詞がある。これを敷衍させてもらうなら 、われわれがいちばん怖いのは「ホラー映画」や「アクション映画」や「ミステリー映画」の物語のパターンのなかで描かれる人生よりも、本物の人生のほうがずっと本質的に怖いのである。なぜならそういった映画はジャンルごとに怖さや驚きへの導線を設けてくれるが、実人生はいつもポーカーフェイスで得体が知れなくて、いつ死の不意打ちを食らうかと終わりなき微かな動悸とともに待つことになるからだ。

映画をその生の生地(きじ)に接近させて、観る者を「これは映画だからきっと何かが起こるだろう。しかしこれがいったい何の映画であるかもわからない以上、いつ何が起こるのかも予測できない」というエッセンシャルな怖さに導くには、作品に無表情でノンジャンルな顔つきをまとわせ続けることが求められるが、こと『SHARING』に関してはその点については人後に落ちない。いや観終わった今でも、あの映画はいったい何だったのだろうと思うほどだ。描かれていたのはほとんど何気ない大学構内や人物の自宅での日常に過ぎない。だが、その変哲のなさゆえに、私はあんな出来事やあんな出来事(これは伏せておこう)の勃発に心臓が飛び出すぐらいびっくりしたし、その本気の驚きゆえに(それらの出来事の直後の後味の悪さまで含めて)夢を題材にした本作は夢そのものに接近していたと言えるだろう。『市民ケーン』の全てのシークエンスが実は臨終間際の老人の見た幻夢なのではないかという説もあるが、『SHARING』を観ると映画というものが実は全て入れ子状態の覚めない悪夢の無間地獄なのではないかという妄想に駆られたりもする。

黒沢清監督の『カリスマ』や『回路』といった傑作にも似たけはい、たたずまいを感じさせる『SHARING』だが、こうした映画本来の「ホラー性」の探究はともすれば味気ない実験映画ふうにもなりそうなところを、篠崎監督は7~80年代のホラー映画にも通ずるような怪しげな娯楽作品のフレーバーを噴霧してまわっているようで愉しかった。長嶌寛幸の音楽も、『フェノミナ』のゴブリンとか(もっと気分なのがあるが遺憾乍ら思い出せない・・)あのへんのムードがあって風情ありだ。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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