樋口尚文の千夜千本 第16夜「さらば、愛の言葉よ」(ジャン=リュック・ゴダール監督)

ゴダールによる3Dそして/あるいは瞳の解放と冒険

ヴェンダースもヘルツォークも3Dという技術を面白がって使ってみせたが、なんとなく3Dという玩具と戯れて終わったという感じであった。あれどまりなら松江哲明のほうがずっと潔い。そしてまさかゴダールまでもが3Dを試みるという。なぜそんなに異才たちが3Dに惹かれるのか、別にゴダールまでもが物見高くこの温故知新の玩具に興じてみせることもあるまいに。

とか何とか思いながらも、そわそわして試写に一番乗りする私であったが、開巻後ほどなくして私は視神経を通して頭を、いや脳をがつんとやられる感じであった。この真摯なるやんちゃぶりは、いったい何事か。ゴダールははなから3Dを玩具だなどとは思っていない。というか、そんなふうにたかをくくっている瞳の通俗を高く吊るすべく、とんでもない映像と音を突きつけてくる。

いったいこの私が見せられている名状しがたいものは何なのか?こんなものをずっと観ていたら眼がつぶれそうだぞと思いながら、もしやもしやと3Dメガネの奥で片目ずつ開閉してみる。何を考えてるんだよ、このもうすぐクリント・イーストウッドと同じ84歳になる食えない爺さんは!とほとほと呆れ、爆笑し、やがて心底敬服した。ゴダールは永遠に前衛を突き抜けた根源主義にいる。その文字通りラディカルな実践によって、おつむの緩んだ間抜けな観客である私は、ああ、3Dとは左右の眼が別々の映像を観ることによって脳内で形づくられる何ものかなのだな、とすっかり忘れていた当たり前の原理に気づかされる。

その脳内で像を結んだ何ものかがたまさか「映像が飛び出して見える」というごく一部の可能性におさまっているのが、『アバター』だとか『トランスフォーマー』だとかで観客がなじんでいる3Dだとすれば、ゴダールはそんな退屈で口当たりのよい部分は3Dの秘める可能性全体からすれば氷山の一角に過ぎないと言っているわけだ。この視点からすれば2Dも3Dの多様な可能性のひとつということだろう。そしてゴダールは、鬼面人をおどすような「映像が飛び出して見える」効果なんぞよりも格段におぞましく、広大で分節不能な、秘密と豊饒に占められた何ものかを見せてくれるわけである。

しかし、われわれはこの何だかわけがわからないが豊かなものを見せようとするゴダールのたくらみによって、はたして何かを見たのだろうか。それには何の確証もないのだが、とにかくその時<世界>と擦過しながらすれ違った手ごたえ、手ざわりのごときものは鮮やかで、そのかけがえのない瞬間の連鎖を通して、われわれが覚醒し、解放されていったことは疑いようもない。そして同時に、いま<世界>と正確にふれあうことの困難さを、われわれは思い知る。

一本の木とわれわれの間に可能な関係はない。と、ロベール・ブレッソンは言った。ゴダールが3D技術を通俗の範疇から解放して、その解放の実践そのものによってわれわれに見せようとしたものは、このブレッソンの境地に連なる(狂おしいほど豊饒だが)すさまじき<世界>かもしれない。だが、食わせ者だが決して陰鬱なニヒリストではないゴダールは、この殺伐とした<世界>にパートナーのアンヌ=マリー・ミエヴィルとともに愛玩する犬のロクシ―を徘徊させる。

ゴダール的なカップルの成就/破綻と関係性のずれ/はぐらかしが演じられ、それは一本の木はおろか他者との間にも可能な関係はないと思わされんばかりの酷薄さが漂う。だが、もしやこの犬が割り込んでくることで、何かが変質するのでは、とゴダールは本気で信じているようだ。<世界>の夕暮れを厳格に見つめながら、このロクシ―や湖や草花を見やるゴダールのまなざしはどきっとするほど優しく、それらはまた率直に「いわゆる3D」であった。

さて、間もなく84歳のタメになるイーストウッドの『ジャージー・ボーイズ』が揺るぎなき作品であるとすれば、ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』は揺らぎのみからなる作品であり、これらはどこか陰陽のごとく嵌り合うようである。