樋口尚文の千夜千本 第8夜  「永遠の0」(山崎貴監督)

(写真:毎日新聞デジタル)

シニア師団とVFX戦隊によるトラ・トラ・トラ!

今、映画を観てもドラマを視ても、同じようなキャスティングばかりで息が詰まることがしばしばある。ひとつの役柄が評判いいと、俳優は次々に似たりよったりの配役をオファーされがちだ。そしてまた観客や視聴者の若年化に伴って、若いアイドルやスターばかりが番組をまたいで起用され、時によっては同じ男女スターの組み合わせがあちこちで反復されたりもする。

こんな傾向とともに憂うるべきは、映画もドラマもシニアの熟練俳優たちの腕の見せ場に乏しくなったことだ。しかし、たとえば大作映画や地上波のゴールデンタイムにそういう俳優を見かけなくなっても、インディーズ映画やBSのこだわりあるドラマなどで「あ、この俳優さん、久しぶりに見たぞ」というシニアの俳優に再会すると、そのあり余るエネルギーとさすがの技量に打たれたりする。園子温監督の映画『希望の国』も、異色の切り口のおさめどころに困っているようなきらいはあったものの、夏八木勲と大谷直子を存分にボリュームのある役柄で起用したことだけでも既に大きな意味のある作品だった。

さて、ここからが本題なのだが、東宝が300万部のベストセラーをもとに映画化、今年の正月映画として公開する『永遠の0』は、観る前は岡田准一を主演に若き演技派俳優たちを取り揃え、零戦パイロットたちの青春の光陰を描く定番の大作かと思っていた。東宝には戦闘機パイロットを描く映画史が脈々とあって、はるか戦時中の『翼の凱歌』『加藤隼戦闘隊』に始まり、『ゼロ・ファイター 大空戦』も『大空のサムライ』も『零戦燃ゆ』も、基本の軸は空を翔けた若き搭乗員たちの青春映画である。だが、『永遠の0』はそんな東宝の戦闘機映画ヒストリーから意外な逸脱を試みる作品だった。

というのも、この作品は岡田准一扮する主人公の宮部久蔵という腕のたつ零戦パイロットをはなから賛美するのではなく、しごく謎に満ちた男として現在の視点からさまざまな証言を集めるという構成をとっている。したがって、岡田准一主演の悲しくも爽やかな青春映画という構えかと思いきや、実際は今やすっかり老いた証言者たちが宮部久蔵という空洞を埋めてゆく過程を描く、シニア俳優陣の力演つるべ打ちの映画なのである。それゆえ、このよくある若きスター映画を予感させる大作は、平幹二朗、橋爪功、田中泯、山本学、夏八木勲といった芸達者の堂々たる熟練の演技の饗宴なのであった。

さらに言えば、いま若きスター映画と記したが、それもよくよく見てみれば、岡田准一を囲む航空隊の面々は染谷将太、新井浩文、濱田岳といったエッジの立った演技派で固められており、「永遠の0」は岡田准一と井上真央の夫婦のメロドラマ的部分と零戦のスペクタクル的要素とを興行的な安全弁としながら、実質はこくのあるシニア俳優と癖のある若手俳優の演技の十字砲火で見せ切ろうという野心的な作品なのである。実際、この大作映画の大画面をくだんのシニア俳優たちが次々に占拠して、味のある演技を開陳しつづけるさまは快挙であった。全篇彼らと向き合う三浦春馬までもが徐々に上原謙のように見えてきて、このいくらかクラシックな二枚目の風貌がうまくはまっていたし、終盤の山場は意外にも染谷将太と夏八木勲が全てを持って行った感さえある。

さて、こういった果敢なたくらみをもって稀代のユニークな東宝戦闘機映画を作り上げた山崎貴監督だが、このドラマ部分が意欲的であるだけでなく、海原をゆく零戦や航空母艦の戦闘シーンを筆頭にとにかくVFXが圧巻だ。今回は飛行する零戦そのものがドラマになじんで観る者をハラハラさせないとまずいわけだが、そもそも全てが現実から切れたVFXで観客をドキドキさせるのは至難の業だ。たとえば東映の「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の海戦シーンのように絵巻物的な背景説明の役割ならば複雑で精巧な画をもってすれば何とかなるのかもしれないが、「永遠の0」は戦闘機の飛行感覚が人物たちの飛ぶことへの陶酔やおののきという感情に直結している。つまりVFXがドラマ展開上もことのほかデリケートな役割を負っていたわけだが、山崎監督と白組のスタッフはこの難題を見事に突破していた(ちなみに白組は、同じく東宝の佐藤東弥監督「ガッチャマン」でもVFX世界内のリアリティを果敢に追求していて、ハリウッドのVFX大作などに比べても全く遜色ない域にあると思う)。

最後に、公開順でいえば是枝裕和監督『そして父になる』に続いてこれが最後の出演作になるはずの夏八木勲は、奇しくも『終戦のエンペラー』と本作で全く異なる角度から、同じ昭和の激動の時を生きた人物を演じきってみせた。決然とした、見事な俳優人生のピリオドだ。合掌。