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ハンコは本当に無駄なのか 「コロナ」「押印廃止騒動」で揺れたハンコ職人の本音

橋本愛喜フリーライター
ハンコの里、山梨県「六郷」(筆者撮影)

日本には、世界からも認められる繊細で歴史深い文化や伝統技術が数多く存在する。日本人自身にもこうした自文化に誇りを持つ人が多く、ゆえに古くから伝わる技術を国内向けに紹介するテレビ番組も頻繁に放送されている。

そんな中、昨今急速に進む機械化やデジタル化によって存続が危ぶまれているのが、「手作業」という究極のアナログ方法でモノをつくり出す「職人」たちだ。

コロナ禍の中、菅内閣で行政改革担当大臣に就任した河野太郎氏の言動で矢面に立たされた「ハンコ」にも、古い文化を静かに紡いできた職人たちがいる。

騒動後に訪れた日本随一の「ハンコの里」、山梨県「六郷」。

この小さな町で触れたのは、誇りあるはずの自文化に対し、簡単に見切りを付けてしまう世間への「違和感」と、伝統文化存続に対する「本音」だった。

<日本でハンコが栄えた理由>

右半分は「福」の書体を集めたもの。左半分は「寿」。小林さんの父親、故小林雪山氏の手書き(筆者撮影)
右半分は「福」の書体を集めたもの。左半分は「寿」。小林さんの父親、故小林雪山氏の手書き(筆者撮影)

ハンコの歴史は非常に古く、文字が誕生するよりも前の紀元前メソポタミア文明には既に存在していたといわれている。

当時のハンコは、現在のような丸い印面に文字を刻むのではなく、円筒形の側面に絵や幾何学模様を彫り、粘土板に転がしながら押し付けて刻み込むものだった。

その後、シルクロードを渡り世界中に広まったハンコは、欧米で廃れる中、アジアに根付いた。

諸説あるが、その大きな要因が「漢字」の存在だ。

簡単に書けるアルファベットなどの文字と比べ、画数の多い漢字での署名は時間が掛かるため、漢字圏の国で広まるようになったとされている。

中でも特に日本で浸透した理由を、六郷印章業連合組合の組合長、小林成仁さん(65)はこう話す。

「江戸時代の大名によって積極的に使われていたんです。彼らのサインのことを『花押』と言うんですが、手書きが面倒だからと木を彫って押すようになった。それが『花押印』。書類を証明できるほど権威ある人にしか使われていなかった中、当時のハンコ職人は『御印師』といって、彼ら大名お抱えの存在となり、名字帯刀が許されていたとも言われています」

その後、時代が明治へと移った1873年10月1日、新政府が発令した「太政官布告」によって、一般庶民も自身の姓と実印を持つことが許されるように。同時に印鑑登録の制度が定められると、ハンコは一気に普及が進んでいった。

<戦中戦後の通信販売>

戦中戦後に海外に通信販売されていた時に使われていた封筒とカタログ。封筒には「満州」の文字(筆者撮影)
戦中戦後に海外に通信販売されていた時に使われていた封筒とカタログ。封筒には「満州」の文字(筆者撮影)

山梨県の六郷(市川三郷町)は、そんな歴史深いハンコの聖地として栄えてきた。

江戸時代、当時の岩間村ではもともと足袋(たび)づくりが盛んだったが、明治以降、機械化による大量生産が始まると、岩間足袋は衰退。その後、足袋産業で培った全国への営業力と、近郊にある昇仙峡で取れた水晶を活用して伸びたのが、副産業だった「印鑑づくり」だった。

やがて六郷のハンコは、手彫り印鑑の生産量が日本一となり、六郷のみならず山梨を誇る伝統工芸品に。

第二次世界大戦中や戦後においては、満州や台湾、中国への通信販売も行われ、現地でも広く深く愛された。

最盛期は1980年後半から始まった「バブル期」だという。小林さんは、当時の様子をこう振り返る。

「機械化もデジタル化も今ほど進んでおらず、ほとんどの事務作業が人の手によって行われていた時代。大きいモノ、高価なモノほどよく売れました。この小さな町にある指定郵便局の荷物取扱量は、山梨県の中でも甲府市にある一番大きい中央郵便局に次いで2番目に多かった」

そんなハンコに陰りが差し始めたのが、他でもない「デジタル化の波」だ。

折に触れて沸き立つ「ハンコ不要論」に、これまでも現場の職人たちは色々な思いを巡らせてきた。

が、その中でも「今回の波」は、ひと味もふた味も違った。コロナ禍による経済活動の停滞の煽りをモロに受けている最中、あの河野大臣による「押印廃止」騒動が起きた。

毎年10月1日に行われる供養祭の様子。使用済みのハンコが焚かれて供養される。昨年はコロナの影響で中止になった(市川三郷町商工会提供)
毎年10月1日に行われる供養祭の様子。使用済みのハンコが焚かれて供養される。昨年はコロナの影響で中止になった(市川三郷町商工会提供)

<騒動でハンコに押された「烙印」>

河野行政改革担当相がTwitterで「押印廃止」と彫られたハンコの印影を笑顔とともに投稿したのは、昨年10月末。

コロナ禍によるリモートワークでデジタル化の機運が高まる中、「仕事が早い」と評判高かった河野大臣の一連の言動により、世間からハンコは一気に「無駄の代表格」として世間に晒されるようになった。

山梨県の多くの小学校では、生徒に地場が生んだ伝統工芸品を学ばせるべく、ものづくり体験を兼ねた社会科見学として六郷へ赴き、篆刻を実際に彫らせる。地元の篆刻家たちには、天皇から叙勲を受けた人も多い。

山梨県、ひいては国の守るべき伝統文化。一連の騒動に対し、抗議は六郷印章業連合組合だけでなく、山梨県の長崎幸太郎知事からも力強い言葉でなされた。

小林さんは一連の騒動をこう話す。

「どんな業界であれ、ああいう軽率な言動によって、下がどれだけ影響を受けるのかをトップには自覚してもらいたい。『脱ハンコ』という言葉がひとり歩きし、ハンコが悪者みたいな報道を多くされましたが、彫る身としては非常に辛かった。リモートワークで見出した日頃の不便や無駄、ストレスの矛先を全てハンコに向けてはいないかと。“無駄な押印”をさせる会社のシステムには不備はなかったのかと」

コロナで経済活動が停滞。第二波を越え、少し盛り返してきたかと思った矢先に起きた騒動。

その後、六郷印章資料館に見学に来た人の中には、「ハンコってなくなっちゃうんだって?」という言葉を残して去っていった人もいたという。

風評被害により仕事が激減し、毎年卒業生に記念として贈っていた高校からの依頼がゼロになったという事例もある。

「東日本大震災の時、原発事故で起きた農産物に対する風評被害を『大変だな』と他人事のように聞いてましたが、今回のことでそれを実感しました。あ、風評被害ってこういうことなんだと」

<「跡を継いでほしい」は言えない>

小林さん自身もハンコ職人だ。町の資料館から小林さんの工房へ移動し、筆者も名刺印を1顆つくってもらった。※顆【か】はハンコの単位

「カメラのピントが合わないな…」と筆者がひとりごちると、作業の手を止めることなく小林さんがこうつぶやいた。

「目のピントも合わんのですよ」

今回取材に応じてくれた小林成仁さん(65)。父から継いだ「対岳堂印房」のハンコ職人だ(筆者撮影)
今回取材に応じてくれた小林成仁さん(65)。父から継いだ「対岳堂印房」のハンコ職人だ(筆者撮影)

職人の生命線は、技術力でも体力でもない。「視力」だ。

同じく金型研磨の職人をしていた筆者の父親も、腰は痛みをごまかしながら使ってきたが、やはり視力の衰えだけには逆らえなかった。

「目が悪くなった職人はなかなか量をつくれなくなる。辞めてもいいんだけど、他にやることなくてね(笑)。職人は死ぬまでが職人なんですよ。このご時世、そこまで仕事があるかっていう問題ですけどね」

小林さんは大学卒業後、篆刻家の父親に師事。その他にもう1人の篆刻家(二葉一成氏)と書道家の師匠がいる。

「ハンコの彫り方を手取り足取り教えてもらったことは一切ないです。職人は大体そうですけど、『そこ座って見てろ』と」

不思議なもので、どの業界の職人も一人前になるのに必要な年数は「10年」という。ハンコの世界では「彫る」技術だけでなく「漢字」に対する知識も必要になる。工房には中国に行くたびに買ってきたという大量の漢字辞書が所狭しと並べられていた。

バブルの頃には、この小さな町に100人ほどの職人がいた。現在町に残っている職人は20人ほど。一番若い職人でも50代だという。

小林さんには息子さんがいる。

――跡を継いでほしいとは言わなかったんですか――

「言わなかった。息子が高校卒業する時に『やろうか』と言ってきたんで、『やりたいことないのか』と聞いたら『ないこともない』と。だから『好きなことやれ』って言ったんです。『おじいさんの代からある対岳堂(小林さんの工房)の名前がなくなっちゃうよ』って言われたが、『そんなこといいんだぞ』と。対岳堂という名のハンコ屋をやってたことを自分の誇りとして持ち、胸張って生きればそれでいい」

その後に続いた言葉が胸に刺さる。

「ハンコの見通しが良くないからね」

小林さんの本音が詰まったひと言。継いでほしくても「継いでくれ」とは言えない。それがハンコ職人たちの現状なのだ。

「今の仕事をやめてハンコをやりたいという人がいたとしても、この状況では『じゃあ弟子にしてやる』とは言えないですよ。この仕事がしっかり残るのか。師匠には弟子を食べさせる責任があるから」

跡継ぎがいない、継がせる環境がないことで、これまで多くの伝統技術が失われてきた。一度途切れた技術を完全に蘇らせるのは非常に難しい。

世間からは、「世界が認める日本の伝統文化ならば外国人向けにつくればいい」、「存在価値を芸術や趣味モノに見出せばいい」という声も聞こえてくるが、「技を残す」というのは、それほど単純なものではない。

文化として自国から評価され、必要とされなければ、現場では「次」が育てられない。現在の「脱ハンコ」の風潮では、たとえ下の代が「継ぐ」と手を上げ、自身も継いでほしいと思っていたとしても、やはり「よしやれ」と迎えてやることができないのだ。

筆者の名前の1文字「愛」を彫ってもらった。6mm角の印面に5本の横棒を入れる、まさに職人技だが、小林さんは「一(はじめ)」さんなどの名前のほうがバランスを取らねばならずむしろ難しいという(筆者撮影)
筆者の名前の1文字「愛」を彫ってもらった。6mm角の印面に5本の横棒を入れる、まさに職人技だが、小林さんは「一(はじめ)」さんなどの名前のほうがバランスを取らねばならずむしろ難しいという(筆者撮影)

<事務用品でも芸術品でもない>

ここまでハンコに対する議論が深まるのは、ハンコが実用品でありながら、伝統工芸品でもあるという点にある。

日常生活で頻繁に押印を求められるがゆえに大量生産され、世間からは100円ショップでも買える「事務用品」「文房具」として見なされるようになったが、現在「無駄」と言われている押印のほとんどが、この「大量生産のハンコ」によってなされている。

また、世間からは「芸術品」とも見られがちだが、実用品の生産という観点からすると、ハンコそのものは「芸術品」でもない。

小林さんの師匠、二葉一成氏がよく口にしていた言葉がある。職人の世界にいた身としては、心が震えるひと言だ。

「難しい作業を簡単にやってみせるのが職人。簡単なものを難しそうにやるのが芸術家」

「外国人や趣味のためのハンコ」だけに存在意義を見出せない理由は、この違いにある。

「脱ハンコ」が論じられる際、押印の「煩わしさ」や「手間」が指摘されるが、そもそもハンコという存在はその「煩わしさ」が必要だからこそ存在するのではなかったか。

無論、現在書類に求められる「ハンコ枠」には既述通り無駄も多く存在する。が、押印そのものの「煩わしさ」を「無駄」と直結させるのはあまりに浅薄だ。かく言う筆者も、ハンコが手元になく押印できない間に冷静になり、決断を思いとどまったことが過去にある。

デジタル化で効率を上げることはもちろん悪いことではない。実際、小林さんも「僕たちはデジタル化を反対しているとは1度も言っていない。ハンコをなくさないとデジタル化できないのか、ともに歩む道はないのかと言い続けているんです」と語っている。

「わざわざ出社してまで押さなくてもいいハンコ」は、ハンコが悪いのではなく、そのハンコ枠を作った会社や業界の判断に問題があるはずだ。

自文化に誇りを持ち、「手間ひま」を大事にする日本人が、非効率だという理由で歴史あるハンコを全否定するのは、あまりにも悲しい。

今回の「無駄な押印の廃止」の流れによって、歴史を背負った押印の「重み」を再認識し、むしろハンコの存在が見直される機会になればいいと心から思う。

六郷印章資料館https://www.rokugoinsho.com/%E5%8D%B0%E7%AB%A0%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8

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フリーライター

フリーライター。大阪府生まれ。元工場経営者、トラックドライバー、日本語教師。ブルーカラーの労働環境、災害対策、文化差異、ジェンダー、差別などに関する社会問題を中心に執筆・講演などを行っている。著書に『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)。メディア研究

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