浪江町 報道と現実のギャップ ~原発事故と民俗芸能~

撮影:井戸川将吾(2018年1月1日)

 福島県浪江町。震災と原発事故の影響による全町民避難が続いていたが、2017年3月31日、一部地域で避難指示が解除された。今年1月には震災以来7年ぶりに浪江町で成人式が行われるなど、報道を見る限りは、あたかも順調に復興が進んでいるかのような錯覚に陥りそうになる。私の知人は「浪江ってみんな町に帰れたんでしょ?よかったね」と口にしていたが、そのような認識を持っている方も少なくないのだろう。実際のところ、町に帰ったのは500人足らず。震災時の人口の3%にも満たない。

 そんな中、ふるさと浪江をひとつにしようと奮闘する人々がいる。『浪江町川添芸能保存会』のメンバーだ。かつては毎年正月に獅子神楽を舞い、小さな集落を練り歩いてきた民俗芸能の担い手たち。彼らはどのような思いで活動を続けているのか。震災から7年、そして避難指示解除から1年を迎える浪江町の「いま」と「これから」を見つめていく。

浪江町川添芸能保存会のメンバーたち
浪江町川添芸能保存会のメンバーたち

原発事故に翻弄された民俗芸能の担い手たち

 彼らと初めて出会ったのは2015年師走のことだった。当時、私は福島の復興に関するドキュメンタリー番組に着手しており、浜通り地方で活動していた民俗芸能の担い手たちに連絡を取り続けていた。そして、その大部分が原発事故の影響で活動を休止していることを知る。そんな中、正月に仮設住宅を訪問する団体があるという。それが『浪江町川添芸能保存会』だったというわけだ。

 

 会長の石澤孝行さんに連絡を取り、避難先である福島県白河市で会うことになった。話を聞いていくうちに、彼らの置かれている状況が少しずつ分かってきた。震災前には20人以上いたメンバーが6人に減ったこと。その全員が県内外で避難生活を続けており、月に数回、二本松市の浪江町仮役場で練習していること。元日に福島県内の仮設住宅や復興支援住宅を10カ所以上回って獅子を舞う予定だということ。そして、これまでメディアの取材は全て断ってきたということー。理由を訊ねると「避難先で浪江出身であることを伏せているメンバーもいる」という。

 話の流れから半ば取材を諦めかけていたのだが、石澤さんの答えは「お受けします。メンバーは俺が説得します」という意外なものだった。さらに「そろそろ前に進まないといけない。多くの人に浪江の現状を知ってもらいたい」とも。初対面だったが、酒が入り、少しだけ饒舌になっていた。私は「東京で暮らしていると現場の状況が全く伝わってこない」ことを悟り、そのギャップを埋めなければならないと感じた。数日後、二本松市の練習場に足を運んだ。部屋に入った瞬間、メンバーたちから警戒の目で見据えられて緊張したことを記憶している。

獅子神楽は正月の風物詩だった
獅子神楽は正月の風物詩だった

仮設住宅に“ふるさと”を届ける男たち

 彼らが舞う獅子は私たちがイメージする“普通の獅子舞”だ。かつては正月のたびに日本各地で見受けられたであろう、五穀豊穣と悪魔祓いのシンボル。そして素朴なお囃子と太鼓の音色。原発事故によって奪われた“当たり前の日常”を彼らが取り戻そうとしていることが伝わってきた。練習が終わると石澤さんは仮設住宅を訪問。自治会長から正月に獅子を舞う許可を取りつける。中には「まだ正月を祝う気分じゃない」と断られるケースもあるという。

 元日、石澤さんたちは早朝から福島県全域を回り、避難生活を強いられる浪江の人々に“ふるさと”を届けた。中には涙ぐむお年寄りもいたが、私の脳裏には意地の悪い考えがよぎり、自分を恥じた。「彼らのやっていることはどれだけ人々の役に立っているのだろうか?」と。

 震災以降、福島県の民俗芸能を精力的に支援し続けてきた懸田弘訓先生は「民俗芸能は離れ離れになった被災者たちをひとつに繋ぎとめる最後の砦であり、人々をどれだけ勇気づけているか計り知れない」という。ただ、それが被災地の置かれた危機的状況の解決に結びついているかというと答えが出てこないのだ。ともあれ、2016年2月に番組は完成し、それなりの反響は得た。しかし、どうにもすっきりしない気分が拭えず、いつしか「彼らの活動を追い続けなければ」という思いに駆られていった。

浪江町川添芸能保存会の石澤孝行会長
浪江町川添芸能保存会の石澤孝行会長

視聴者は明るいニュースを欲している

 石澤さんたちとの交流はその後も続き、年に数回ではあるが、酒を酌み交わしたり、互いの近況を報告し合ったりするような間柄となった。その間、2017年3月に浪江町で一部地域を除く避難指示解除が発表され、ほどなく安倍総理が視察に赴き、名物の焼きそばを頬張っているシーンなどが報じられた。「皆さんが一歩一歩前進している様子をうかがうことができました」というコメントは強く印象に残っている。おそらくは事実が正確に伝えられていない違和感。その昔、「本当のことを言わないことは嘘をつくことと同じだ」と父親に言われたことを思い出した。

 私は石澤さんたちの番組を放送した時の担当者に「彼らを再び取材すべきだ」と提案した。しかし「視聴者は明るいニュースを欲している」という回答とともに却下。「福島ネタは数字(視聴率)を取れない」という声もあった。とどのつまり、年の瀬にひとりで福島に向かい、彼らの姿を映像に収めながら新年を迎えることになる。事情を話すと、石澤さんは「まあ、そうだよね」と言って苦笑した。

彼らの活動拠点だった国玉神社の前で
彼らの活動拠点だった国玉神社の前で

7年ぶりに浪江でー

 前回の取材から2年が経過したことで、石澤さんたちの活動にはいくつかの変化が見受けられた。まずは保存会に若いメンバーがひとり加わって7人になったこと。そして戸数が減っている仮設住宅ではなく復興支援住宅を中心に回る方針になったこと。特筆すべきは、震災以降初めて浪江町で獅子を舞う機会を得たことだろう。初日の出を拝みながら浪江の人々と正月を祝う。それが今回のハイライトであり、彼らが踏み出す新たなる第一歩だった。避難指示解除に伴う帰還が一向に進まぬ中、それでも300人近くが早朝の海辺に集まった。石澤さんたちは緊張の面持ちで獅子を舞い、浪江の人々は穏やかな表情でそれを見つめた。

 舞いを終えた後、石澤さんは挨拶で次のように述べる。「7年ぶりに浪江町の“時”がまた動き出しました。あの時間で止まっていた時計が、やっとまた、皆さんと一緒に、この“時”が動き始めました。皆さんとまた、この浪江町の“時”を一緒に進めていきましょう」。文字にしてしまうと何とロマンチックであることか。しかしながら、その言葉には心の奥底にまで達し得る力強さのようなものが込められていた。挨拶は原稿なしのアドリブ。頭に浮かんだ感情をそのまま言葉にしているからだろう、普段は朴訥とした石澤さんの偽らざる気持ちがダイレクトに伝わってきた。

 そして、その前向きなフレーズが彼ら自身を奮い立たせるためのものであることが、私たち部外者にやるせない感情を抱かせる。ふるさと再生を呼びかける彼ら自身が、誰ひとり浪江町への帰還を果たせていないという“自己矛盾”がそこに横たわっているからだ。

浪江町の慰霊碑の前で舞われた獅子神楽
浪江町の慰霊碑の前で舞われた獅子神楽

見えない出口を見つけるために

 以下は昨年12月に復興省・福島県・浪江町が共同で調査した住民の意向だ。【すぐに・いずれ帰還したい=13.5%、まだ判断がつかない=31.6%、帰還しないと決めている=49.5%】。ほぼ半数が生まれ故郷に帰らないことを決め、3割強が意思決定すらできずにいる。

 正月の取材から数週間後、私は石澤さんと浪江町を再訪したのだが、この場所が「まだ住める状況ではない」ことを思い知る。VTRでも紹介しているので詳細は省くが、彼らの活動拠点だった国玉神社の本殿は傾いたまま打ち棄てられ、かつてのショッピングモールも震災から手つかずのまま。駅前のメインストリートには人っ子ひとり歩いていない。かつて浪江町で自動車整備工場を営んでいた石澤さんが当地で事業を再開したとしても収益は見込めないだろう。

 そのような状況下にあって、今年は震災後初めての地元開催となった成人式が話題となった。新成人183人のほとんどが町外で暮らす中、約110人が浪江町に駆けつけ、離れ離れになっていた仲間たちとの再会を喜んだという。ある新聞では「生まれ育った場所・・・幸せ」という見出しが躍っていたが、ある新聞では「大半が町外で暮らす」とあった。おそらく前者を見れば「よかったね」という印象を抱くであろうし、後者を見れば「ああ、まだまだなんだな」という印象を抱くであろう。

 おそらく、去年の今ごろに私が抱いた違和感の正体はこの辺りにも潜んでいるような気がする。物事は球面に近い多面体であり、どの部分に光を当てるかによって見え方は著しく変わってしまう。そんな当たり前のことが東京で暮らしていると分からなくなってしまう。震災から7年という月日が経って、多面体の面数は増え続けている。現場に足を運び、人々の言葉に耳を傾けなければ、色々なことが“綺麗事”という名のオブラートに包まれて無かったことにされてしまう予感がするし、それはとても恐ろしいことだと感じる。

 だから今回のVTRでは、あえて石澤さんの“一人称”で物語を進めていくことにした。本来であれば、浪江町役場の取材や他の被災者の声などを挿入してバランスを取っていくのが正解なのかもしれない。ただ、それだと石澤さんたちの葛藤はダイレクトに伝わらなくなってしまう。例えば、役場職員の「皆さんの1日も早い帰還を待ち望んでいます」というインタビューや、お年寄りの「獅子を見ていたら浪江町を思い出しました」というインタビューを積み重ねたところで、いったい何を感じ取ればいいのか私には分からない。石澤さんたちの活動は無数に存在する多面体のうちのわずか一面に過ぎない。しかし、そこだけにフォーカスを当てることで浮かび上がってくる“答え”のようなものがあると信じている。

ショッピングモールは震災当時のまま打ち捨てられていた
ショッピングモールは震災当時のまま打ち捨てられていた

震災7年目の“答え”

 取材が終わりに近づき、私は石澤さんに「活動のゴールはどこにあるのか?」と訊ねてみた。すると、一瞬の沈黙を置いて次のような答えが返ってきた。「正直、見えないですね、ゴールは。(中略)ゴールって俺が持っているのではないかもしれない。一代二代下の子どもたちが実はスタートだったりゴールだったり。そこに繋げていくのがゴールじゃないけど、いま俺が持っているのは、それに対するバトンなのかもしれない」。

かつて保存会には多くのメンバーが在籍した
かつて保存会には多くのメンバーが在籍した

執筆・撮影:長谷川 歩

獅子神楽撮影:井戸川 将吾

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】