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小山田圭吾氏の辞任劇に際して考えたこと

原田隆之筑波大学教授
(写真:Paylessimages/イメージマート)

小山田氏の辞任劇

 東京オリンピック・パラリンピックの開催を間近に控えて、開会式の作曲担当であった小山田圭吾氏が辞任に追い込まれた。

 小山田氏を巡っては、もうさんざん批判がなされているので、今さらその輪に加わることは、溺れている人にさらに石を投げつけるような行為であるとも思い、記事を書くことがためらわれた。

 しかし、卑劣な差別やそれに基づく言動に対して、きちんと異議申し立ての声を上げ続けることもまた、社会に生きるわれわれ一人ひとりの責任であると思い直し、私なりに考えたことを書き記すこととした。

いじめと呼ぶには度が過ぎる 

 小山田氏が行ったとされる言動のなかには、「いじめ」と呼ぶにはあまりにも度を越したものが多く含まれる。障害のある相手に暴力を振るった挙句、人間性を嫌というほど貶めるような行動を強制する、重病患者が苦しんだり亡くなったりすることを嘲笑う、さらには大人になってもこうした行為を武勇伝のように吹聴する、など列挙するだけで著しい嫌悪感を覚えるようなものばかりだ。

 これらは障害者や弱者に対する虐待であり、人間性の蹂躙である。

攻撃性の心理

 彼の一連の行為を聞いて、同じような嫌悪感を覚えた人は多いだろう。それが正常な人間の姿というものだ。われわれが、「いじめ」や攻撃的な行為に対し、このような感情を覚えるのは、人間には生まれながらに、暴力を制御したり、それを嫌悪したりする「装置」が備わっているからである。

 人間は、相手が怯えていたり、苦しんだりしているのを見ると、そうした「装置」が自然に発動するようにできている。そのために、われわれの大多数は、暴力を振るわないし、暴力を嫌悪する。

 一方、それができない少数の人々もいる。そうした人々は、こうした「装置」のどこかに問題がある。それは大きく以下のような3つにまとめられる。

  1. 感情的反応性の欠如:感情を揺り動かすような刺激がインプットされても、感情の揺れ動きがほとんどない
  2. 共感性の欠如:相手の表情や言動を想像し、それに心を動かされることがない
  3. 注意力の欠如:注意の幅が狭く、相手や周囲のことより、自分の興味関心にしかピントを合わせることができない

 もちろん、これは一般的な攻撃性の心理であって、それが小山田氏に当てはまるかどうかわからない。また、彼は直接暴力は振るわず、指示していただけだというが、だからといって、攻撃的であることは変わらない。

 そして、本来ならば嫌悪感を抱くべき言動を面白おかしく語ったり、現時点でも謝罪文のなかで「連絡を取れる手段を探し、・・・・直接謝罪したい」などと言っているところをみると、驚くほどの共感性の欠如が読み取れ、このような分析はあながち間違いとも言えないだろう。

小山田氏への批判に対する反論

 小山田氏への非難に対し、反論する人々もいる。漫才師の太田光氏は、「時代の価値観を知り評価をしないといけない」と述べた。しかし、小山田氏や太田氏とほぼ同世代の私には、障害者を虐待するのが是とされるような時代を生きた覚えはない。

 また、小山田氏の辞任を受けて、彼の従兄弟でもある音楽プロデューサーの田辺晋太郎氏は、「正義を振りかざす皆さん、良かったですね」とツイートをした。しかし、これだけの行為をした人が、こともあろうにパラリンピックの楽曲を担当すると聞いたとき、正義を振りかざすのは当たり前のことで、それを揶揄するほうがどうかしている。

 さらに、30年以上も前のことを持ち出して、批判するほうがおかしいという意見もあった。もちろん、本人が真摯に反省し、その反省に立った言動をしているのならば、社会の側も寛容になる必要がある。

 しかし、反省するどころか、それを面白おかしく「昔語り」していたのだし、その後も反省をしていたことがうかがえるような言動は聞かない。五輪担当を辞めさせられそうになって慌てて紙切れ1枚の「謝罪文」を出しているようでは、批判されても仕方ないであろう。

 冒頭で述べたように、われわれは卑劣な差別やそれに基づく暴力には、断固として正義を振りかざし、「ノー」と言い続けなければならないのである。

 奇しくも、7月26日は「津久井やまゆり園」の事件から、ちょうど5年の節目である。あのような凄惨な殺人事件を二度と起こさないためにも、程度の違いはあっても、同じ「思想」が見え隠れする行為を見過ごすわけにはいかない。

反省とは

 小山田氏辞任のニュースを受けて、ヤフーニュースのコメントで、私は「小山田氏は、辞任を悲しむのではなく、あのような行為を行い、それに対して反省もしてこなかった自身のあり方を悲しむべきだ」と書いた。

 それは実は、彼の今後に対するエールのつもりでもあった。なぜならば、それを悲しむことによって、今後の自分のあるべき姿を真摯に考えてほしいと思ったからだ。

 多くの批判を受けてもなお、何の感情も揺り動かされないということはないだろう。さまざまな強い感情を体験しているはずである。しかし、彼の被害者は当時、今彼が抱いている感情の何倍も強いネガティブな感情を抱いたはずである。もしかすると、一連の報道によって、フラッシュバックに苛まれているかもしれない。

 今であれば、共感性を働かせて、被害者のことを真剣に思いやることができるはずだ。そして、自分と同じ一人の人間の人権を蹂躙し、尊厳を貶めていたとき、同時に自分自身の尊厳も貶めていたのだということに気づくはずだ。

 そうすれば、次に自分が何をすべきかが自ずからわかってくるのではないだろうか。それは間違っても、被害者の連絡先を探して、直接会いに行くなどということではない。

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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