Yahoo!ニュース

帰省した人に「さっさと帰れ」と中傷ビラ - コロナ禍の夏に思う今必要な覚悟

原田隆之筑波大学教授
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

感染と誹謗中傷の拡大

 新型コロナウィルス感染症の拡大が衰えを見せないなかで、人々の不安も一向に収まる気配がありません。メディアは連日「感染者数が過去最大を記録しました」などと数字の連呼を続けています。ニュースの画面に拾われる街の声も「不安です」といったものばかり。あたかも国中に感染者があふれ、今にも感染爆発が起こる、いやもう起こっているかのような報道ぶりです。

 さらに問題なのが、不安に端を発した感染者への誹謗中傷です。感染者だけでなく、都会から帰省してきた人や観光客などに対しても心ない誹謗中傷がなされています。

 青森県では、帰省してきた人の家の敷地内にビラが投げ込まれ、そこには「なんでこの時期に東京から来るのですか?・・・さっさと帰って下さい!!皆の迷惑になります」などと書き込まれていたと報じられました。世も末かと思ってしまうほどです。

 イタリアの作家パオロ・ジョルダーノは「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵(おか)す病だ」と述べていますが、まさにそのとおりのことが起こっています。

ウィズコロナとは

 たしかに、医療資源が乏しい地方に、都会からウイルスが持ち込まれることへの危機感もよくわかります。また、きちんとした感染防止策を取って、自粛している人たちからすれば、夜の街や昼カラオケで大騒ぎした挙句、クラスターになったというニュースを聞くと腹立たしい気持ちになるのもよく理解できます。

 緊急事態宣言下の頃から「ウィズコロナ」ということがよく言われるようになりました。しかし、人々の心のなかでは、まだ具体的な「ウィズコロナ」に対するイメージができていないように思えます。「ウィズコロナ」という言葉だけが一人歩きしていて、それが何を意味するのか、どのような社会を生きるべきかという具体像がなく、心のなかでは「ウィズコロナ」への覚悟ができていないのです。それが不安やそれに端を発する誹謗中傷問題の1つの大きな原因なのではないでしょうか。

 感染症への不安が社会を覆っている今、それを少しでも癒やすのは、漠然とした言葉ではなく、具体的で明確な言葉です。つまり、「ウィズコロナ」とはどのような社会であり、生き方であり、行動様式であるのか、それを各々が明確に心に思い描く必要があるでしょう。

 残念ながらコロナはゼロにはなりません。もうコロナ以前の世界には戻れないのです。だからといって、いたずらに不安だけをこじらせても、他人を攻撃しても事態は何も変わりません。だとすると、専門家の意見を聞きつつ「これくらいは許容しなければならない」というその現実を共有し、それに対する覚悟が必要でしょう。

  

交通事故とインフルエンザ

 車の性能が上がったとはいえ、自動車事故はゼロにはなりません。しかし、車に乗るたびに事故の不安におびえる人はいないでしょう。われわれは、事故対策をきちんとしたうえで生活を送っています。それでも一定数の事故はなくならないのです。無謀運転をする人も存在します。だとしても、それは社会の存続やわれわれの心の平安をいたずらに脅かすほどのものとは意識されていません。

 つまり、人々は交通事故に対しては、多少のリスクを許容しながらも、心の平穏を脅かされることなく生活を送っています。交通事故死亡者数は年間で3,000人強、コロナでの死者の3倍であるにもかかわらずです。人々は、すでに「ウィズ交通事故」の社会を生きているのです。

 もっとわかりやすいのがインフルエンザです。季節性インフルエンザでは例年1,000万人もの人が感染し、数千人から1万人の人が死亡しています。それでもわれわれはいたずらにそれを恐れることがなく、賢く恐れながら、「ウィズインフルエンザ」の社会を生きています。

 もちろん、新型コロナウィルス感染症はワクチンも治療薬もなく、致死率も既知のインフルエンザより少し高いことは事実ですが、「賢く恐れる」ことの重要性はずっと言われていることです。

 

それでは「ウィズコロナ」とは

 コロナに関して言えば、どれだけ政府や知事、専門家が声を大にして連日のように注意喚起しても、いまだに大声で唾を飛ばしながら会食をする人がいるし、カラオケでのクラスターも発生しています。

 先日知人からこんなことを聞きました。彼は友人から飲み会に誘われて断ったのですが、そのとき「コロナなんて怖がっていても仕方ない。うつるときはうつるんだから楽しめばいいんだよ」と言われて絶句したというのです。

 同じく私も絶句しましたが、このとき同時に思ったのは、「こういう人は一定数いて、いなくならない」ということでした。残念ながら、このような人々とともに社会はあるのです。それが現実というものです。

 しかし、われわれは口では「ウィズコロナ」と言いながら、明確で具体的なイメージも準備もなく、心はまだ「ウィズコロナ」とはほど遠い状態にあるのだと言えます。どこかで「ゼロコロナ」の社会を思い描いているのです。

 「ウィズコロナ」ということは、毎日ある程度の感染者が出る社会を生きていくということです。旅行する人もいれば、帰省する人もいて、彼らが一定の感染防止策を講じているのであれば、それに目くじらを立てないということでもあるでしょう。また、世の中には感染防止に不用心な人や無関心ながいても、それはゼロにはならないという現実を受け入れることです。

 だからといって、現状に対して何もしないでいいというわけではありません。一人ひとりが感染防止策を徹底することはもちろんのこと、無防備な人や無関心な人々への説得や啓蒙は重要です。

 つまり、受け入れるということと、あきらめることは違うのです。あきらめるのは現状を放棄して何もしないことですが、受け入れるということは、その後に覚悟と行動を伴います。

ウィズコロナへの覚悟

 東京大学の熊谷晋一郎先生が、「コロナによって誰もが障害者になった」とおっしゃっています。ウィズコロナの時代、誰もが不便で面倒な生活を強いられていますが、それを指して言われた言葉です。予防策を講じ続け、マスク装着や外出の自粛を継続しなければなりません。旅行やライブにもなかなか自由に行くことができません。突如として、生活の中に大きな障害が生まれてしまったのです。

 しかし、このような不自由に対しては、多くの人々がそれを受け入れつつあり、こうした個人的な「ウィズコロナ」への覚悟はだいぶできているように思えます。

 一方で、社会全体として見たときに、感染防止策が頭に入っていない人、あえて実行しない人、うっかり忘れてしまう人、自分はかからないと根拠なく信じている人、別にかかってもいいと思っている人、感染症よりも目の前の楽しみのほうが大切な人、こういう人がいるという事実を受け入れながら、ある程度の感染者が出るのは現実的に仕方ないと受け入れることに対して、どれだけの人が覚悟できているでしょうか。

 結局、ウィズコロナとはそのような覚悟をすることなのです。「ウィズ」なのですから、「ゼロ」にはならないのです。現状を見るとき、感染者数は増大をしていますが、死亡者数は非常に低いレベルです。以前のように自粛をしているわけではなく、Go To トラベルのさなかにあってもです。

 もちろん、それでいいとは言いません。少しでも感染する人が少ないに越したことはありませんし、安心して生活できる日常を早く取り戻すことができるようにわれわれ一人ひとりの努力の継続は大切です。不用心な人に対して、感染防止策を伝えるのも大切です。

 この夏は、帰省や夏祭り、旅行などを自粛して、あきらめる覚悟の夏になりました。それとともに、一定の感染の増大を受け入れる覚悟の夏にもしないといけないのではないでしょうか。心の「ウィズコロナ」に対する覚悟です。

 それができると、いたずらに不安になったり、感染者を誹謗中傷したりすることが少しは減ってくるように思えます。「ゼロコロナ」を心のどこかで思い描いているからこそ、感染が許せないのです。

 熊谷先生はこうも言っています。

 潜在的にこれまでにないほど不便を経験しているのだから、連帯のチャンスです。自分と同じようにしんどい思いをしている人がたくさんいるということでチューニングすれば連帯に向かうと思うのです。でも一方では、総障害者化の状況では、みんな余裕がなくなります。みんな余裕がなくなる延長線上には、自分以外の人々よりも自分のニーズを大切にするという形で、他者を排除する方向に総障害者化が向かっていく可能性ももちろんあります。

 心理学の専門家が、治らない障害や病気を抱えた人にカウンセリングをするときの重要な目的の1つは、彼らがその障害や病気を受け入れ、それとともに生きる気持ちを支援するということです。

 われわれが、コロナ禍のさなかで「総障害者化」したのであれば、われわれはまずその現状を受け入れる必要があります。不安を募らせるのは自然なことであるし、誰かを責めたくなるのも人情です。でも、それをしたところで、現実は何も変わらないのです。

 だとすると、われわれにできることは、現実を受け入れコロナの社会を障害とともに生きる覚悟をすることです。そうすれば、心に余裕が生まれます。余裕のないところに排除があるのなら、余裕が生まれたことで連帯に向かう動きが始まるのかもしれません。

 不便なのはあなただけではありません。我慢しているのはあなただけではありません。コロナで不安なのもあなただけではありません。感染防止を疎かにする人もいますが、何かの事情があるのかもしれません。感染防止にまったく無頓着な人がいますが、そういう人はゼロにはなりません。この誰もがみな、コロナとともに社会を生きています。

 コロナ克服のために努力を続けながら、コロナを受け入れるという一見矛盾したことをしなければならないのは、思ったよりも大変なことです。ハーバード大学の心理学者、スティーブン・ピンカーは『コロナ後の世界』のなかでこのように言っています。

 我々が、パーフェクトな社会をつくることは不可能でしょう。しかし、科学や理性を大切にして進歩していくことは可能です。それはユートピアでもロマンティックな絵空事でもなく、エビデンスで示されています。・・・・

 楽観主義の悲観主義も自己予言的です。ならば、我々は楽観主義になるべきでしょう。人類はそうして危機を乗り越え、進歩してきたのですから。

 われわれはピンカーの言うように、「科学と理性に導かれた楽観主義」によって、この危機を連帯してともに乗り越えたいものです。そして、そのためには「ある程度の感染は仕方ない」という苦い事実を受け入れる覚悟も必要です。しかしそれには悲壮感や絶望感は必要ありません。必要なのは「健全な楽観主義」なのです。

 それはまた、感染症蔓延を許すということでもありません。今まで通りの努力を続けながらも、少し心に余裕をもって長い目で感染症とともに生きていく。そのような覚悟が今必要な時期に来ていると思います。

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

原田隆之の最近の記事