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ポリティカル・コレクトネス――社会的属性の描き方における「社会的な望ましさ」

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
(写真:アフロ)

ポリティカル・コレクトネス(以下、PC)とは何か。いまだ明確な定義は難しいとされるが、その言葉が使われている文脈を見ると、一定のコンセンサスはあるように思う。本稿ではそれを日本社会の文脈に沿って読み解き、整理したうえで定義してみたい。若干抽象的な「試論」になるが、表現の現場における具体的な問題を考えるうえでの一助になれば幸いだ。

■日本では2010年代から、ネットの議論により一般化

日本にポリティカル・コレクトネスという言葉がアメリカから輸入されたのは1990年代だが、広く一般的に使われるようになったのは2010年代になってからのことだと言っていいだろう。

とくにインターネット上で、女性をはじめ外国人や性的マイノリティなど特定の属性に対する偏見や固定観念を助長しかねない表現に対して批判が集まるようになった。場合によってはネットが炎上し、表現の削除や修正も起きたことから、それを「たたき」だとして揶揄する「ポリ(ティカル)コレ(クトネス)棒」という言葉も流行った。批判されて反発する側が「ポリコレ」という言葉を使ったわけだ(注)

一方で、近年のディズニー映画に象徴されるような、登場するキャラクターの社会的属性の多様性に配慮し、また特定の属性に対する偏見や固定観念、保守的な関係性を打破するような表現が、欧米での評価を輸入するかたちで、PC的だとかポリコレに配慮していると評価されるようになった。

■明文化されていない規範・倫理、人々のニーズにより変化

こうして見るとPCが、表現に対する評価の問題であることは間違いない。では何をめぐる評価なのか。それは、社会的な属性の価値づけをともなう描き方の望ましさをめぐる評価だと言っていいだろう。またPCが、法的な規制ではなく明文化されていない規範・倫理だというのも重要なポイントだ。ヘイトスピーチのような明らかな差別扇動表現は、PC的か否かといったかたちでの議論が許されるものではく、規範・倫理の範疇にはない。つまりそれは、法的に規制されるべきものだろう。

さらに、「PC的ではない/ポリコレに配慮がない」という否定的評価と「PC的だ/ポリコレに配慮している」という肯定的評価、つまりネガティブとポジティブ両方のベクトルがあることを鑑みると、PCの範疇は「望ましくない表現への批判(やその抑制)」から「望ましい表現の奨励(や代案の提示)」までのグラデーションだと言っていい。このように、表現の「社会的望ましさ」のレベルによって、それに対する反応のレベルは異なっている(図)

【図】望ましくない表現と「望ましさ」への対応
【図】望ましくない表現と「望ましさ」への対応

繰り返しになるが、差別を扇動する表現に対しては、公的に、明文化された法律や条例で禁止、規制する必要がある。また法規制が必要なほどの差別扇動ではないが、差別的であったり、特定の属性に対する偏見や固定観念を助長するような表現に対しては、その抑制を求めて批判が寄せられ、抑制のために企業や業界団体がガイドラインを設けることもある。その際の基準となる規範・倫理を、ネガティブなベクトルのPCと呼びたい。

さらに、かつては意識されることの少なかった多様性やマイノリティ属性の特定ニーズへの配慮を心がけ、ひいては特定の属性への偏見や既存の固定観念を打破することで表現の豊かさに挑戦するオルタナティブな表現に内包された倫理や価値観を、ポジティブなベクトルのPCと呼んでいいだろう。

■すべての人に等しく自由と尊厳を担保していくための知、理性

以上を踏まえて筆者はPCを、ポリティカル・コレクトネスを直訳した「政治的な正しさ」ではなく、「社会的な望ましさ」と定義したい。ポリティカル・コレクトネスにおける「政治」は、議会政治などの狭義の政治でなく、「正しさをめぐる力関係」のことであり、それは絶対的なものではないからだ。また前述したようにPCはネガであってもポジであっても明文化されていない規範・倫理であり、その社会の文脈に沿って、人々のニーズによって変化し更新されていくものである。さらに評価の主体、また当然ながら表現する主体の公共性の度合いによってもその基準は異なってくるだろう。

ネガティブなベクトルのPCは、不特定の他者の尊厳を傷つけないための最低限の努力義務であり、それは社会の重石として機能する。努力義務だからこそ明確な線引きがなく、つねに論争が起きる。だがそれは、規制ではなく規範である以上、むしろ重要なことだろう。

一方、このようなものだからこそ、マジョリティが安易に「PC疲れ」や逆ギレに陥る前に、むしろその予防、セーフティネットとして機能するものであるはずだ。PCは、表現した側の悪意のありかを問うような問題ではなく、かといって事なかれ主義の問題回避策でもない。表現する側と受け手、そして一般的にはマジョリティとマイノリティ間の理解やコミュニケーションの糸口、回路なのだ。だからこそ、マジョリティのニーズとしてもPCは存在しうる。

またポジティブなベクトルのPCは、よりよい表現への模索だ。それもまた、マジョリティとマイノリティのコミュニケーションから生まれるはずである。とはいえその前提に構造的な不平等がある以上、決してそこから目をそらしてはならない。だからそこでは何よりも、マジョリティ側の誠実さが求められる。豊かな表現について考えるのはそれからだ。いや、豊かな表現はその前提に立ってこそ生まれるはずだ。

「社会的な望ましさ」をめぐるコミュニケーションであり、社会のセーフティネットとしてのPC=ポリティカル・コレクトネスは、不特定の他者の尊厳を傷つけないための知であり、不平等と偏見を可視化し減らしていくための模索だ。負荷がかかりがちな人々の負荷を減らす一方で、すべての人に等しく自由と尊厳を担保していくための知であり理性であるとも言えるだろう。

【注】実は、「ポリティカル・コレクトネス」とは1970年代以降、アメリカで進んできた人種やジェンダー、少数民族といった多様なマイノリティをめぐる差別解消と、マジョリティ側の認識の転換をともなう多文化主義的な論争が盛んになるなかで、様々な実践的な取り組みが実を結ぶことによってある程度定着した「社会的な望ましさ」を快く思わない右派が1990年代に入り、一部のラディカルな左派の言動を誇張して揶揄的に紹介する際に使われて広まった言葉である(つまり、「ポリコレ棒」といったアンチとしての事例の方が、アメリカでPCというこの言葉が広まったときの用法に沿ったものだとも言えるのだ)。そのためアメリカの文脈に親しんでいる場合、たとえばディズニーの多様性表現をPC的とかポリコレへの配慮といった言葉で評価することをためらう人も少なくないが、その後に輸入され一般化した日本では、アメリカでの文脈が消えて現在のような用法が定着した。本稿もそれに沿って記述している。ただしこうしたねじれが話を複雑にし、PCをわかりにくくしているのも事実だろう。

月刊『シナリオ』5月号 特集「ポリコレってなんだろう?」より一部修正し転載。同特集には、白石和彌監督の「世界標準の『表現』と『表現の場』」と題したインタビューもあり)

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

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