〈Interview イ・ランになるまで〉1. どこからどんなふうにやって来た?

写真は本人提供

 2018年11月、エッセイ集『悲しくてかっこいい人』の発売直前、東京に来ていたイ・ランに話を聞いた。彼女へのインタビューは、同年2月以来。その時は、MVを発表したばかりの『イムジン河』について、カバーした経緯や表現方法を主に聞いたのだが、それ以来、連絡を取り合い、個人的な話も色々とするようになった。

画像

 私たちはいつも韓国語で話すので、インタビューも韓国語で行ったものを日本語で起こし、まとめた。彼女は私を「ハンさま」と呼び(おそらく「ヨン様」から来ている)、私は彼女を「ランちゃん」と呼んでいるので、この記事でもそう記すことにした。

 このエッセイ集は、2016年冬に韓国で発売された『いったい何をして生きている人間かと(原題)』の日本語訳だ。今回、私に与えられたお題は、今現在のイ・ランが、どこから来てどのようにかたちづくられたのか、彼女の言葉を引き出すことである。

――小さい頃は何になりたかった?

大人たちに上手だとほめられたのは作文と美術。作文は書けば賞をもらえるから、ああ簡単だと思ってた。でも美術は、もっと上手くなりたいっていう欲があったから、将来の夢を書かされるときは、いつも画家と書いてた。高校くらいまでずっとそうだったけど、その頃は、スケッチブックに絵を上手に書けば画家、くらいにしか想像できてなかった気がする。

――やりたいことがまだ漠然としていたってこと?

うん。弟に障害があったから、私が学校でほめられてもそれをサポートできるような家庭じゃなかったし。私は私で、って感じ。小さい頃、自分から何かやりたいと言ったことはない。

――学校は嫌いだった? のちに高校を中退しちゃっているけど。

幼稚園も小学校も中学校も朝行かなきゃダメで、ずっとそれがつらくて。高校は違うかもという期待が少しだけあったんだけど、入ってみたら何も変わらなくて、これはもう無理だと。

――将来への不安はなかった?

まったくなかった。

――むしろ自由になれたんだ。退学してどうしようと思ったの?

家を出るための準備として、高卒認定試験を受けないと、と思った。

――現実的、計画的だね。高卒の資格はなぜ必要だと思ったの? 大学に行くつもりだった?

大学に行こうと思ってたわけじゃないけど、高卒だと言えれば、独立して何をしてもいいかなって。試験を受けた後、家を出て「PAPER」という雑誌でマンガの連載を始めた。

――その話はあっちから来たの?

違う。自分からマンガの原稿を送り続けた。

――積極的だね。

うん、ものすごく積極的。高校退学直後は、まだ絵を描かなきゃっていう固定観念があった。編集部からしたら、めんどくさい子だったかもね。

――どんな雑誌だった?

映画や本のレビュー、短編小説やインタビューなんかが載ってて、大学生がよく読むような個性的なカルチャー誌。当時はそういう雑誌があまりなくて、とても人気だった。高校生だった姉がちょっと背伸びして読んでた影響で、私も中学生の頃から読んで、時代の先を行っている気分になる、そんな雑誌。

――持ち込みが掲載されたってこと?

マンガ担当者に手紙を添えてマンガを送り続けてたら、雑誌のサイトに掲示板があるから自分でマンガをアップしてみて、と連絡が来た。でもやり方がわからなくて、その後も紙に描いたものを郵便で送り続けてた。そのうちめんどくさくなったのか、編集部がアップしてくれて、ついには雑誌でも連載できることに。小さいけど仕事をもらえた。こんな16歳の女の子の存在が不思議で面白かったみたい。

――でもそれで食べていけるわけじゃないよね?

それだけじゃ食べていけないけど、その雑誌に載るってだけで大きなインパクトがあったから、仕事が思ったよりたくさんつながっていった。

――16歳の当時、世の中ちょろいって思ってた?

私にとっては自然なことだって受けとめた。

――他の子たちから見たらうらやましいことだったんじゃない? 自分は特別な存在だという気持ちはあった?

特別な人になりたいとは思ってたかな。雑誌のイベントをしたら、サインの列に大学生たちがずらっと並ぶ。彼らにとって私は不思議な存在だったようだけど、私にとっては自然なこと。学校に通う時間がもったいないから、辞めてやりたいことを優先した。幼くてもやりたいことはできるとも考えてた。特別になりたいからそう行動したわけじゃない。私の計画に沿っただけ。ただ、周りの人たちには個性的な子、変わった子、すごい子と言われ続けた。

――そう言われて、どんな気分だった?

芸術家っぽいとかアーティストになれそうとか、そんな感じだったと思う。あと当時の服装やスタイルを思い出してみると、明らかに目立ちたい人だったよね。

――どんなファッション?

ピッピみたいな。

――『長くつ下のピッピ』? 絵本の? 今と全然違うね。

うん。カラフルでごちゃごちゃしてて目立つ感じ。歩いてると、あ、ピッピだ!って言われるような。

――憧れのスターとかお手本になるロールモデルがいたの?

とくにいなかったかな。ただ当時、若い私と遊んでくれたオンニ(年上の女性)たちが周りにいた。ハンドメイドしたり、写真を撮ったり、路上でペインティングしたり、そういう人たちだったんだけど、オープンで自由な雰囲気で、私のような子を年齢関係なく受け入れてくれた。一緒に遊んだり、芸術や色んな計画について話したり。オンニとかオッパ(年上の男性)とか呼ぶのはなし。平等主義というか、年上でも私のこんな考え方に同調してくれる人たちといて、男女関係なく手をつないだりスキンシップしたり。だから大学でも変わってる、すごいって言われたんだと思う。

――大学に入ったのが何歳のころ?

21歳。日本の年齢だと20歳かな(以下、年齢は韓国の数え年で)。普通より3年遅く行った。

――大学に入っても雑誌の仕事は続けた?

最初のマンガ連載からつながって、他にもいろんな仕事をした。ポスターやパンフレットのデザインもしたし。

――デザインの技術はどこで習ったの?

最初は自分の手でできることをやってた。手書きして、切り取って、紙の上にコラージュしたり。フォトショップとかは、少しずつまわりの人から習った。当時、恋愛を始めたんだけど、その相手が美術専攻でデザインもしてたから、フォトショップや絵が上手で、影響をたくさん受けた。

――マンガとかデザインは自己表現だった? これが仕事だと思い始めたのはいつから?

うーん、本にも書いたように大学に1年通ってから22歳のときに働いたレストランの経験が大きくて。もともとは芸術が社会の他のどんな要素よりもっとカッコいいと頭の中だけで考えてたけど、あのときそんな価値観がぶっ壊れた。

お金を稼ぎたくてそこで働くことにしたのに、自分はアーティストだから仕事ができなくてもいい、一生懸命に学ばなくてもいいと思って最初は適当に働いてた。でも、私より10歳以上年上の料理人の女性たちの仕事ぶりを見て反省した。彼女たちは、何かを作って人々に食べてもらうわけだけど、料理のなかにも芸術的な要素はたくさんあって、私が作りたいものと変わりはないんだと。芸術はカッコよくて自由で特別だと思ってる人も多いけど、それぞれがそれぞれの仕事で力を発揮するというだけで、どんな職業だって特別なわけじゃないと思えた。

――レストランで働いて、他者ひいては社会を認識、意識するようになったんじゃないかな? ただ自分がやりたい自己表現をします、ということではなくなっていった。前にも「メロディーよりも歌詞を知らせたい」、「歌詞を伝えてこそ意味があるから、日本のライブでは字幕をスライドで出したい」と言っていたのが強く印象に残っているんだけど、人に伝えたいという意識が強いよね。

そう思います。ハンさまがそうやって整理してくれるといいね(笑)。厨房で一人前に働けるようになるまでは8か月かかったけど、初日にすぐわかったのは、芸術と似てるってこと。当時、働きながらモダンダンスを習ったり、歌ったり、公演も準備したり、色々とやっていたことが、あるときから全部つながったように思う。『神様ごっこ』のMVを作るきっかけも、そのときにレストランで一緒に働いた人たち。

――あれは様々な仕事の動作を取材して振付にしたんだよね。その頃は、人前で表現してお金をもらうことについてはどう感じてた?

料理は、お客さんが求める味を提供して、その対価としてお金をもらう。芸術もそうでなくてはいけないと思うようになった。芸術にお金を出す人々が求めるものは何だろう?と考えたときに、慰労、癒しの役割をすることだと思ったし、私が行う芸術はそれだと。

――慰労でない芸術があってもいい?

受け取る側のことはどうでもいい人もいるよね。私の表現を見たければ見ろって感じで、社会がどう動いていようが関係なく、たとえば100年間花だけとか100年間女性器だけを描き続けるような人とか。そういうのもすべて芸術だと言えるかもしれないけど……。私としては、人がお金を出して映画を観たり音楽を聴きに行ったり本を読んだりする理由は、彼らが自分たちの日常を芸術だととらえていないからだと思う。疲れた日常に、砂漠のオアシスのような何かが欲しいから消費するんだとしたら、そういう意味での慰労、癒しになればいいと思ってる。

――そう思うようになったきっかけは、レストランの経験以外にもあった?

うん。見る人を意識し始めたのは、大学に通いながらだったかな。芸術大学なんだけど、私はそこでも変わってるとよく言われてて。

――個性的な学生が多いはずなのに? そのなかでも言われるほどだったんだ。

たとえば映画科では、ほとんどの学生がナラティブな映画を作ろうとする。つまり、ストーリーがある長編映画を念頭にしつつ、そのなかのワンシーンを短編映画として作ろうとする雰囲気なんだけど、私は家でひとりで踊っているところを撮影して、テレビから探してきた素材と一緒に編集したり。製作費もないし、自分のテーマを落とし込むために、やれる範囲のやれる方法でやるだけ。芸術大学だからダンスや美術の授業も取ってて、そこから引用できるソースもあるから、必ずしも俳優2人が座って対話するナラティブを撮る必要はない。でもこんな考え方が変わってると思われたみたい。

――今も、曲の歌詞やMVもそうだし、ジャンル問わずいろんなプロジェクトをやろうとするし、方法論を固定せずに多彩に駆使する感じだよね。

よくそうやって言われるけど、子どもの頃の遊びの習慣を維持しているだけでも、人は芸術家になれると思う。たとえばミュージシャンたちは見えないサインを交わしながら即興で演奏し、観客も盛り上がっていく場の雰囲気を感じながら、一緒に気持ちを高揚させていく。私たちも子どもの頃は、そういう感覚のなかでたくさん遊んでいたはず。その感覚をそのまま維持して守ってる人が、芸術家という名前で社会に作用を及ぼしているのかもしれない。

次回へつづく)

■イ・ラン(Lang Lee)

1986年ソウル生まれ。シンガーソングライター、映像作家、コミック作家、エッセイスト。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。

短編映画『変わらなくてはいけない』、『ゆとり』、コミック『イ・ラン4コマ漫画』、『私が30代になった』(すべて原題)、アルバム『ヨンヨンスン』、『神様ごっこ』を発表(2016年、スウィート・ドリームス・プレスより日本盤リリース)。『神様ごっこ』で、2017年の第14回韓国大衆音楽賞最優秀フォーク楽曲賞を受賞。授賞式では、スピーチの最中にトロフィーをオークションにかけ、50万ウォンで売ったことが話題となった。

日本では今後、柴田聡子と共作したミニアルバム『ランナウェイ』が2月7日にリリースされるほか、2月7日、8日には東京・新代田FEVERで5人編成のバンドセットによるワンマンライブ2DAYSが、同日から隣接するカフェ兼ギャラリーRRで「イ・ランのことばと絵」展が開かれる。最終日の3月19日にはFEVERでトークイベントも。

「リトルモアnote」2018年12月6日付より転載)