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イ・ランの『イムジン河』――ボーダーを、言葉を越えて、幾重にも折り重なった意味に思いを馳せる

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
臨津江のほとりでMV撮影中のイ・ラン(本人Twitter @2lang2 より)

 韓国のシンガーソングライター、イ・ランが1日、新曲MV『イムジン河』を発表した。MVのクレジットには『イムジン河』(1968年) 作詞:朴世永、作曲:高宗漢、日本語作詞:松山猛と明記されており、ザ・フォーク・クルセダーズ版の日本詞を、手話とともに歌っている。

 イムジン河(臨津江)は朝鮮半島中部にある川で、朝鮮民主主義人民共和国の南部から軍事境界線を越え大韓民国・京畿道を経て西の黄海に流れ込む。南北朝鮮を隔てる軍事境界線をまたいでいることから、南北分断の象徴となっている川だ。今回のMV撮影は、韓国側の臨津江のほとりで行われた。映像作家でもあるイ・ラン本人が監督している。

■故郷と平和を思う歌

 もともとは、現在の韓国・京畿道出身で解放後は北朝鮮で活躍した詩人、朴世永が南の故郷を思ってつくった詩が1957年に歌として作曲されたもので、その多くが現在の韓国エリアにルーツを持つ朝鮮総連系を中心とした在日コリアンの間で今も広く歌われている。そして、日本語詞によるもので一番有名なのが今回、イ・ランがカバーした、ザ・フォーク・クルセダーズが1968年に発表したバージョンだ。

 松山猛の『少年Mのイムジン河』(2002年、木楽舎)によれば、京都の在日コリアンの多い地域で育った松山は、植民地支配の歴史や朝鮮戦争、身近で行われていた朝鮮人差別に胸を痛め、日米安保を憂慮し平和を願う多感な中学生だった。そのような思いから、いさかいが絶えない近隣の朝鮮学校と自らが通っていた中学校の間で、サッカーの交流試合を行おうと提案する。

 その申し込みに訪れたときに、偶然耳にしたのがこの『イムジン河』だった。松山はその後、トランペットの練習をしていた九条大橋でやはりサックスの練習をしていたことから仲よくなった朝鮮学校の生徒に頼み、1番の歌詞とその日本語訳を教えてもらう。

■「禁止」された幻の名曲

 その後、美術学校を出てデザイナーを志していた松山は、アメリカ公民権運動を経たベトナム反戦のうねりのなかでフォークと出会う。さらに、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと知り合い、ポスターのデザインなどの裏方を務めるようになるうち、中学生の頃に心動かされた『イムジン河』をフォークルが歌ってくれないかと加藤和彦に相談する。加藤ほかメンバーは快諾し、手もとにあった朝鮮語の1番と日本語の1番だけでは足りなかったことから、松山が2番と3番の歌詞を書いた。1966年の初演時には、大きな拍手がわいたという。

 こうしてアマチュア時代からのレパートリーだった『イムジン河』は1968年、大ヒットとなったデビュー曲『帰って来たヨッパライ』に続く第2弾シングルとして発売されることになった。しかし発売前に突然、レコード会社が「政治的配慮」から発売中止を決定する。

 これは、作詞作曲者不明の朝鮮民謡とされたことについて朝鮮総連が朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者名のクレジットを入れるよう抗議し、トラブルを恐れたレコード会社が一方的に発売中止を決めたもの。韓国側の圧力や親会社への配慮も存在したと言われている。

■なぜ今この歌なのか

 その後、事実上の「放送禁止歌」となって長くタブー視されていたが、このフォークルバージョンは2002年に34年の歳月を経て初めてシングルCDとして発売され話題となった。また松山のエピソードを原案にした2005年の映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)では、テーマ曲となった(音楽監督は加藤和彦)。数奇な運命をたどった幻の名曲として、今も歌い継がれている。

 なぜ今、韓国の若いシンガーソングライター、イ・ランがこの歌を歌うのか。無粋だと思い、直接聞いてはいないが(とはいえ機会があったら聞いてみたい。 ⇒後日、インタビューしました。〈上〉〈下〉)、近年の、北朝鮮を取り巻く軍事、外交情勢の緊張状態が念頭にないはずはないだろう(「利敵行為」を犯罪とする国家保安法は今もある)。しかも、歌われているのはフォークルによる日本語詞だ。日韓関係の現状への思いも読み取りたくなる。

 韓国で、公の場で日本語の歌が歌えるようになったのはそう昔のことではない。過去の植民地支配という歴史的経緯から日本の大衆文化の流入を規制してきた韓国では1998年、当時の金大中大統領がその解禁の方針を表明して以来、段階的に開放してきた。現在ではほぼ全面開放とされる一方で、とくに地上波での放送にはいまだ「自主規制」による事実上のしばりがないとは言えないという。

■「自由」に近づく音楽

 南を思い北で作られた歌を、日本で歌おうとして禁じられたその歌を、南で生きる人が日本語で手話をまじえて歌う、その題材となったまさにその川辺で。しかも今。東アジア、さらに言葉を越えた広がりを射程に、幾重にも折り重なった意味が込められたその選択と批評的センスには敬服するしかない。

 あらゆるボーダー、いや私にとっては私自身の人生の近くにある様々なボーダーを乗り越え自由に近づく試みのようなものが、音楽と映像というかたちで、しかも美しく昇華されたかたちで目の前に提示されたことに年初から心が震えた。

 いや、音楽とはもともとそういうものだったのかもしれない。そして、イ・ランはそういうアーティストだ。3月には来日ライブが予定されているという。

【追記】

 この記事を出した後、現在ソウルで個展「Imjingawa」を開催中の韓国の現代美術作家、ナム・ファヨン(Hwayeon Nam)を通じて、イ・ランがこの歌と出会ったことを知った。同展のメインとなる映像作品《Imjingawa》は、動画サイトを通じてザ・フォーク・クルセダーズの曲を知り興味を持ったナム・ファヨンが、日本でリサーチとインタビュー重ねたうえで制作したもの。この映像のために女性の声を探していた彼女の依頼により、イ・ランが朝鮮語と日本語で歌って録音したのがきっかけだ。

 北朝鮮から日本へ、そして半世紀を経て、こうして韓国から届いた一連のリアクションに、改めて歌の持つ力を思う。その後、イ・ラン本人ともやり取りした(ひとつ重要な確認として、手話は「韓国手話」である)。機会があれば改めて紹介したい。 ⇒インタビューしました(〈上〉〈下〉)。

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

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