仕事の技能を教える場合、「聞く」や「読む」が主体と思われる学校と比べて、教える相手の「見る」に働きかけることが増えます。

例えば学校だったら、「教えたいこと」は教科書などを通して伝えます。教えられる人は、教科書の内容や先生の言葉を通して、知識をインプットします。しかし、社会人になると、教える場は、職場などの実践の場面であることが増えますし、そうした中で、口頭だけで技能を体系的に伝えていくことは難しいものです。ですから、教える人は仕事を「見せ」、教える相手がそれを「見て」インプットすることを求めるようになります。

「見る」に働きかける教え方は、大まかに2つあります。一つは、「やって見せる」です。もう一つは、「見て学ばせる」です。

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2つの教え方は一見似ていますが、その目的や、身に付ける人への働きかけ方などに違いがあります。それぞれ利点があると思われますが、技能五輪に出場する選手やその指導員の方々から伺ったお話などからは、特に一定期間内である程度高い水準まで技能や知識を高めたい場合に、「やって見せる」の方が効果的ではないかと感じます。実際、技能五輪の指導でも、かつては「見て学ばせる」が主流だったようですが、「やって見せる」へ教え方がシフトしているそうです。

シフトが起こっている理由は様々でしょうが、この記事では、初心者と熟達者が「見る」能力の違いと学んだ結果の関係に注目していきます。

そもそも、「やって見せる」と「見て学ばせる」は何が違うかですが、一般的に、「やって見せる」場合、教える人は、比較的明確に「出来るようになって欲しいこと」を持っていて、そのフォーカスが絞られています。それを相手の前で実践して見せ、その後相手に実践させ、見せた通りに出来ているかをフィードバックして、技能や知識を伝えます。

例えば、先日、革靴を作る工程を見学した際、靴に甲の部分を縫い付ける作業を体験させてもらったのですが、どのように革に針を通し、どう縫い付けるか、まず職人さんが見せ、その後私が実践して、縫い方にフィードバックをもらいました。体験と実際の仕事場面の違いはあるでしょうが、「出来るようになって欲しいこと」が明確に設定されていて、初心者でも短時間で実践しやすいと感じました。

一方で「見て学ばせる」は、自分が仕事をすることに主眼があり、相手がそこから何を学ぶかは、副次的と言えます。それゆえ、「やって見せる」と比べて、「出来るようになって欲しいこと」はそれほど明確に設定されていません。むしろ、教える相手が仕事を側で見て、そこから自発的に技能や知識を学んでいくことを期待します。

「出来るようになって欲しいこと」のフォーカスが絞られているかは、見る対象のズレや、見たものが記憶に残りやすいかに影響する点で、重要です。

見る対象のズレや見たものの記憶に影響が生じる理由として、初心者と熟練者では、「見る」能力に違いがあることがあげられます。まず、初心者と熟練者では、「見る」場所が異なります。人や物の動きなどを見る際、どの点に注目し、どの点には注目しないかを判断する働きは、「選択的注意」と呼ばれます。例えば、野球中継を見慣れている人が、試合のスコアが気になってテレビをつければ、すぐにスコア表示に目が向きます。これは、選択的注意が働き、どこを見れば必要な情報が得られるか、意識しなくてもわかるからです。

しかし、野球を全く知らない人に「テレビつけてスコア教えて」と言っても、選択的注意は働かないため、たまたま目に入った球速表示を見て「146点」とか言うかもしれません。

次に、初心者と熟練者では、「見た」ものから読み取る意味が違います。

先程の革靴作りでは、甲側と靴側の革にそれぞれ穴が空いていて、そこに針を通して縫い付けるのですが、穴の位置がズレてしまい、針を通せず苦戦していました。そこで、職人さんが、「左手の親指と人差し指で穴の位置を抑えておくと穴がズレにくくなる」とフィードバックしてくれました。それまで、左手はただ革を持つだけだと思っていたのですが、穴のズレを抑えるという意味を教えてもらえ、その動きを学ぶことができました。

一般的に、記憶は、「見た」情報の中で「意味がある」と認識されたものが残りやすいという性質を持つため、教える人が「見せた」と思った情報を、教える相手が「意味がある」と認識しなかった場合、「見せた」のに覚えていないということも起こります。そういう場合に、上記の例のようなフィードバックがあると、情報認識のズレを調整することができます。

教える人が「見せた」技能を、教えられる側が再現できてはじめて「学んだ」と言えるとしたら、「見る」能力の違いによって生じる「見る」場所のズレや「見た」ものの認識のズレは、再現する上でマイナスに働く可能性があります。

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一定期間内に高い水準まで技能を高める場合に「やって見せる」方法が選択されやすいのは、教える側が「見せる」もののフォーカスをある程度絞り、見る場所のズレを調整し、見せた後に実践させ、教えたいことと出来たことのズレを調整できるからではないでしょうか。つまり、入口と出口の2箇所で情報のズレを調整していくのです。

一方、「見て学ばせる」場合、どこにフォーカスを絞って見ればいいか、出来たことはこれでいいのかの調整が、教える相手に委ねられます。そうするとその人なりに取り組むことになるため、学ぶ早さや精度は、期待と比べて変動の幅が大きくなる可能性があります。

もちろん、「やって見せる」が万能な教え方ということではありません。例えば「やって見せる」時間が長く、そのタスク量が多い場合、身に付ける側にとって過剰負荷となり、学習効果は低くなります。ですから、「見せる」長さは適切に区切られる必要があります。また、「見て学ばせる」方が自由度は高いため、「え、そんな視点もあるんだ」というような新しい発見などは、得やすいかもしれません。

「見る」技能に注目し、2つの教え方を整理してきましたが、教え方はある種の道具であり、教える目的や、教える側が可能なことと限界に応じて、適切な道具を選択できるよう判断を重ね、意思決定の基準を作り上げていくものなのだと思います。自分の中に、上手くいったケースと失敗したケースを蓄積していけると良いですね。