大坂なおみ選手に対して「日本人らしさ」を押し付けるのはナンセンス

全豪オープンのトロフィーを手に微笑む大坂なおみ選手(写真:ロイター/アフロ)

大坂なおみ選手を日清カップヌードルのCMが「色白に描いた」ことが問題視されている。

各種メディアでもこの問題について議論が交わされており、それと同時に国籍選択期限が迫っているとして「二重国籍」の問題を論じている議論も見かけるが、いずれも「日本国内」だけを見た内容に終始しているように思う。

筆者は日本と米国を行き来しており、かなりの時間をアメリカで「外国人」「アジア人」として過ごしているため、大坂選手をめぐる議論が日本国内の賛成・反対に終始していることに危機感を覚える。

先日の「色白に描いたCM」について、日本では「黒人としての特長を持つ大坂選手を色白に描いた」ことを日清が謝罪したことは大きく報じられている。

だが、その問題点を大坂選手が生まれたアメリカの文化、社会的文脈でとらえた議論は見られない。

実は、大坂選手は「色白に描かれる」ことをすでに国外で経験している。

全米オープンでセリーナ・ウィリアムス選手の試合中の言動が問題視された件での風刺画である。

ウィリアムス選手が「怒った野蛮な黒人」という、人種的偏見に基づいた描かれ方をされている後ろで、大坂選手はウィリアムス選手よりも色白に、金髪の姿で描かれている。

これを描いたのはオーストラリアのHerald Sunというメディアだったが、アメリカでは「セリーナ・ウィリアムスを典型的な野蛮な黒人として描いている」として大きな議論となった。

そして同時に、大坂選手が白く描かれたことも「ホワイトウォッシング」として問題視された。

アメリカのメディアにおける、ホワイトウォッシングの問題は根深い。

たとえば、数年前にハリウッドで実写映画化された『攻殻機動隊』という日本のアニメ・漫画原作の作品は、主人公の日本人女性であるはずの主人公を白人女優が演じたことで「ホワイトウォッシング」として問題視された。

また、Netflixで実写映画化されたデスノートという日本のアニメ・漫画も、主人公の少年を白人俳優が演じたことが「ホワイトウォッシング」であるとして問題視された。

マーヴェルの映画『ドクターストレンジ』では、主人公に教えを垂れるアジア人師匠を白人女優が演じたことが「ホワイトウォッシング」とみなされた。

アジア人を白人が演じる「ホワイトウォッシング」の問題は、上げればキリが無い。

アメリカで非白人キャラクターが「ホワイトウォッシング」、つまり白人俳優が非白人キャラクターを演じる状況は、人種差別の歴史と切っても切り離せない。

20世紀初頭のアメリカ映画では黒人キャラクターは黒塗りした白人が演じていた(ブラックフェイス)。

20世紀中盤のアメリカ映画ではアジア人キャラクターは眼鏡をかけて出っ歯の入れ歯をして、目を一重に化粧した白人が演じていた(イエローフェイス)。

たとえば『ティファニーで朝食を』に登場する隣人の日本人ユニオシ氏は、人種的偏見に満ち溢れた「英語のできない醜いアジア人」として、白人俳優が演じている。

現在のハリウッドでは、アジア人を白人俳優が醜く演じる事例は減ったが、白人系(混血も含む)俳優がアジア人を演じ続ける問題は一向に改善しないし、非アジア人キャラクターが白人キャラクターに置き換えられる問題も続いている。

大坂なおみ選手は、確かに日本代表として試合に出ているが、アメリカ国籍を有し、アメリカで生活するアメリカ人でもある。

アメリカで非白人として生きるということは、意識的にであれ無意識的にであれ、こうした人種差別、人種的偏見と向き合わざるをえないということでもある。

アジア人である私の場合、メディアでアジア人や日本人が白人によって演じられることに違和感を覚えるし、アジア人キャラクターが総じて、女性なら「おとなしい」「セクシー」で、男性なら「コンピューター担当」「まじめ」「セクシュアリティの対象外」として描かれ、「ミステリアス」「武術家」という「文化的偏見」に満ち溢れた描かれ方をしている状況にも大きな違和感を覚える。

黒人ならば、黒人キャラクターが「筋肉」「セクシー」担当で、ホラー映画なら英雄的行動を取ってさっさと死んでいき、ヒーロー映画なら常に白人主人公の片腕として描かれることに、大きな違和感を覚えるだろう。(だから『ブラックパンサー』は画期的だった)

大坂なおみ選手は、黒人でもあり、アジア人でもあり、そして男性主体のスポーツの世界で活躍する女性でもある。

黒人差別、アジア人差別、女性差別、そしてそれに伴う各種の偏見と向き合わなければならないのが、彼女を取り巻く状況なのである。

たとえば、女性黒人テニスプレイヤーのパイオニアとして名高く、プロゴルファーとして活躍したAlthea Gibson。

彼女の力強いプレイスタイルは、女性プレイヤーにふさわしくない野蛮なスタイルだと批判された。

ギブソン選手の活躍は「女性のテニスは上品であるべき」「黒人は野蛮」という女性差別と人種差別との闘いそのものだった。

こうした人種とジェンダーの差別や抑圧が入り組んだ状況を、アメリカでは「インターセクショナリティ(inter sectionality=様々な差別や抑圧が交錯していること)」として議論している。

アメリカでの今回の大坂選手ホワイトウォッシュ問題は、彼女が異様に白く描かれた、という点を越え、非白人女性アスリートの抱えるインターセクショナルな差別や抑圧の歴史をふまえた多様な議論がなされている。

日本での大坂選手をめぐる議論は、ホワイトウォッシュ問題であれ二重国籍問題であれ、いずれも「黒人と日本人の混血である大坂選手は日本人として認めるに足りうるかどうか」「アメリカと日本の二重国籍者である大坂選手は日本人として認めるに足りうるか」という点が中心である。

問題となったテレビCMも「より日本人らしく描く」ために、ホワイトウォッシュという結果になったのだろう。

つまりホワイトウォッシュというよりは「日本ウォッシュ」されたのである。

だが、彼女がアメリカで闘わなければならないのは、まさしくこの「日本人らしさ」というイメージそのものでもある。

彼女はアメリカのメディアでは、おとなしく、真面目で、優しくキュートな女性という、典型的アジア人女性らしさを強調されている。

しかし、この描き方自体が、アメリカ社会におけるアジア人に対する偏見の押し付けである。

たとえば、ウィリアム選手との試合で、大坂選手をおとなしいアジア人女性として報道することで、ウィリアムス選手の「野蛮さ」を強調し、黒人女性と黒人女性を分断させた点を問題視する声も上がっている。

日本での大坂選手の「ホワイトウォッシュ」「二重国籍」をめぐる議論は、彼女の本拠地であるアメリカでの人種に関するこうした議論や人種差別、人種的偏見の問題をふまえていない。

彼女は今のところ、アメリカのメディアではアジア人らしさが強調され、大人しく、穏やかで、キュートな女性として報道されているが、何か問題行動を起こすようなことがあれば「異文化のアジア人」あるいは「野蛮な黒人」として、人種的偏見をもって描かれるだろう。

日本では彼女に対して、このような「人種的偏見に基づく描き方」はしないかわりに、「日本人らしい振る舞い」を求めすぎている。

日本語で話させようとしたり、日本について語らせようとしたり、日本人らしい肌色に描こうとしたりする、そのすべてが彼女に「日本人らしさ」を求めている結果だ。

だが、彼女が何か問題を起こしたり、日本国籍放棄を選択すれば、きっと「外国人」として批判的に報道するのだろう。

彼女の国籍選択は彼女の自由だし、彼女が日本語で喋ろうが英語で喋ろうが、それも彼女の自由だし、彼女の肌の色は褐色であって、それより白くも黒くもない。

日本人でもあり、ハイチ人でもあり、アメリカ人でもあり、そのすべてに祝福された才能あふれるアスリートが大坂なおみ選手である。

今や日本の人口の2%近くが外国人で、私のように国外に出て行く日本人も少なくない。

彼らの子が日本国籍であろうがなかろうが、「日本人らしくない」肌の色だろうが髪の色だろうが、彼らはまぎれもなく日本人・日本社会・日本文化の影響を受けて生きている。

そういう社会の変化を受け入れ、合わせていく心意気と柔軟性を、日本社会、そして日本の政治・法律制度に求めたい。

大坂選手が日本国籍かどうか、日本人らしい見た目かどうかなどより、そういう日本の影響を受けた人が世界で活躍していることを純粋に喜べばいいではないか。