実は「就業スキル」が高い日本の若者を活かせていないのは、企業側の問題だ

若者を活かせていない企業(写真:アフロ)

前回の記事は色々と詰め込みすぎてしまいましたが、私が一番伝えたかったことは「大学は意味があるか」を論じることの無益さであり、大卒学歴が大卒に相応しい学力・能力を担保できなくなっている現状は進学した個人の責任でも大学の責任でもないということ、何のための教育であるのかを含めた教育のあり方を政府主導で変えていくことの必要性です。

留年制度そのものには様々な疑問符が付けられており、一律で導入することは難しいでしょう。留年率が低い国の方が、平等度が高いという調査もあります。OECDによれば、留年をしやすいのは、低学年、早生まれ、社会経済的に不利な家庭出身、学校活動への関与が少ない家庭出身、男子とされています。つまり、早い段階で家族を巻き込んだ介入ができればそれが一番なのです。

また、学校が強制する留年は生徒にネガティブな影響を及ぼす一方、本人・家族が希望した留年は望ましい影響を及ぼすともされています。また、自動的に学年が上がっていく方法にも、習熟度を下げるなどの問題点が指摘されています。これらを総合的に考えると「科目によってもう一度やり直しをしたり、さらに上に行ったりする」というのが普通であれば「留年」の効果が変わるはずです。一番重要なのは、本人の家庭環境や「属性」に関わらず、十分に学ぶチャンスが与えられるシステムを構築することです。

高校までの教育において生徒たちに求めるものが何なのか、生徒たちにどうなってほしいのかを考えていくことが必要です。そういう意味で、日本のように「自動的に学年が上がっていくシステム」から、本人が留年を積極的に希望できるような教育システムへの転換が必要だと考えています。

たとえば、高大連携、中高一貫教育などはエリート教育に焦点を当てるだけではなく、コアとなる科目でどこまでの習熟度を求めるのか、その習熟度に達していない場合に、一部の科目は大学レベルのものを取りながらも、他の科目では本人とも相談しながら、中学・高校レベルの授業を取れる「高大連携」があっても良いはずです。Fラン大学進学や「就職できない文系は意味が無い」という議論をするのではなく、入学者全体の質が上がるシステムを考える必要があると思います。

その上で、「進学しなくてもよい」就職の仕組みを作っていくべきなのです。そして、これは官主導で十分に可能なことであると思います。

高い教育や職業訓練を受けても就職はできない。仕事が無いからだ。

これらを踏まえた上で論じたいのが、では学生のレベルが上がれば就職できるのか、という問題です。

OECD Skills Outlook 2015 によれば、日本の若者の「就業できるスキル」は小中高のレベルではどれも世界トップレベルのスキルで、「必要な学力・能力が無い」若者は世界で一番少なく、「トップとボトムの格差」も少なく、ニートの若者であっても十分な学力を持っています。そして「レベルが低下している」と言われている大学生も、OECD標準よりかなり上にいます。そして、若者の就業率も世界トップ*です。

学校で学べる「就業に必要なスキル」は十分に身につけているのが日本の若者なのです。

このデータで、日本のスコアが低いのは「職場でスキルアップができる」「学校で学んだことを職場で活かせる」「問題解決スキルを使って仕事をすることがある」などの項目。つまり、学校ではなく職場が若者を活かせていないことこそが問題なのです。

にもかかわらず、若者と学校ばかりが責められるのはあまりにも理不尽かつ、的を得ていません。

仕事を生み出せていない企業側の問題を教育側になすりつけるな

大学を出てもまともな就職ができない人間しか作れない大学や学部に意味があるのか、まともな就職もできない学生ばかり生み出す「Fラン大学」を国の税金で補助する必要は無いのでは、という議論があります。一方の大学側は、大学が職業訓練校なのか、教養を身につけるアカデミックな場所なのか、高校までの学問もまともに身に付けていない生徒の受け皿なのかという議論をしがちです。

しかし、そもそも論じるべきは、生活できる水準の給与と労働条件を提供している仕事の絶対数が減り、国際的に見てスキルも十分に高い若者を活用できていないのは企業側の問題です。就職できない学生がいるのも、せっかく働き口を見つけた若者を活かせていないのも、大学や学校の責任でも若者個人の責任でもありません。

大学がどんなに人を育てても、仕事がなければ、スキルを活かせる職場が無ければどうしようもありません。

こうした議論は、仕事を生み出せていない企業側の問題を大学はじめ教育側になすりつけているだけです。

一方、「企業成立の歴史」を考えた場合、企業だけを責めるのもおかしな話です。なぜなら、企業というのは常に政治と一蓮托生の関係にあるからです。

企業・政治がともに調整しあって発展してきた各国経済

日本に限らず、韓国、台湾、シンガポール、インドネシアなどアジアの国々の経済が、国家主導で発展してきたことはよく知られていると思います。国家主導で工業化を進めるために、企業を設立させたり、多大な補助を与えてきました。

一方、企業が徹底的な競争を繰り広げているように見えるアメリカはもちろん、「産業革命」が起こったブルジョワの国イギリスでさえ、企業というのは国家主導でした。「企業・会社」というのは英語では「corporation=共同」です。アメリカでは企業の経営者メンバーは「board of directors」といいますが、それは植民地期に地域の名士たちが責任者となって鉄道建設やタバコ生産など、植民地化・地域開発プロジェクトを進めていた頃の会社組織の名残です。

「企業」とはそもそも植民地化、自国の工業化や開発を効率的に進めるために、政府が主導する「官民合作」のプロジェクトとして始まったものなのです。時代を経て19世紀後半になると、財政悪化、業界団体の台頭など様々な要因によって、官民合作のうち「官」の要素が削ぎ落とされていきます。今では「私企業の方が効率的に経営できる」という考え方が蔓延していますが、アメリカの企業の歴史を見る限り、この考え方さえも、膨大なプロジェクトコストから逃げるための方便として州政府が言い出したものでした。

州政府にせよ連邦政府にせよ、政府はいつも自分たちの都合にあわせて、官民合作の要素を薄めて「官民だったら民の方がうまくやれる」という方便を利用してきました。

1960年代から70年代にかけて、公民権運動、労働運動、ウーマンリブ運動、人権意識の高まりにより、社会保障ニーズが増大します。この時期は社会運動の時代であり、フォードのような工場で働く労働者たちが十分なサラリーを得て生活えきる、高福祉社会でもありました。しかし、膨らむ社会保障費は政府にとって多きな負担でした。

それをかわすために「お金が無い。従来の政府のやり方が間違ってたからだ」と言って、レーガンが大統領になります。彼は「無駄をなくせ!これからは企業型だ!」と言いながら、それまでとは桁違いの、払う気のない「財政赤字」を膨らませ、借金で国・国民生活が回るようにするための準備を整えたのです。社会保障ニーズに対しては「お金がない。借金しているし。あんたらには払えない。でもあんたらも借金すればいいじゃん」という政策を打ち出したのです。

ここから、アメリカとアメリカを追従する日本のような国々で、経済政策=金融政策そして、国民生活に常にローン、借金がつきまとう生活・政策の「Financialization」が始まっていったのです。何を作るか、何が必要か、何をするかではなく、「全ては金。いくら稼ぐか。いくら借りているか。」に変わっていったのです。

同時に、政治家は自分たちの無能を差し置いて、政府機関や官僚機構を批判し、「企業の効率性に見習え」「規制を緩和すべきだ」「官僚は頼りにならない。政府機関は無能だ」という主張をしました。税制改革も行われ、各国の法人税・所得税が大幅に引き下げられるとともに、それまで労働者や国民を守っていた「規制」システムに対して、規制緩和が進められます。

アメリカだけの話ではありません。すべて、日本でも起こっていることです。

こうした「ムチ」に対して、「労働者としての保障はないけど、君たちはもう「労働者」じゃないんだよ。自由に自分たちの能力を提供して、それを評価してもらえるんだよ。自分で自分をマネジメントできるんだ。自分がリーダーだよ!」という「アメ」も用意していました。この流れに沿う形で、ホワイトエグゼンプションの導入が議論されているのです。そして、やれアントレプレナーだの、リスクテーク、リーダーシップだのと、実態のあるような無いようなキーワードで「自分の能力でサバイバルだ!やる気があるならできるだろう!」という雰囲気を作りだしていったのです。しかし、この「アメ」は一部の人に対しては自由への切符であっても、その他多くの人にとっては何の関係も無いどころか、「働きたくない」「もっと楽したい」「フツーでいい」と考える自由すらも奪うものです。こうして、官民合作で「能力とやる気のある人間しかいらない」という社会意識が醸成されているのが今の日本であり、新自由主義が席巻する主要先進国の潮流でもあるのです。

官民合作で作られた「能力とやる気のある人間しかいらない」社会

形は違えど、始まりは皆「官主導」でした。そこから、政治都合による官批判→ブルジョワ資本主義の発展→フォーディズム的大量生産・大量消費・労働運動・公民権運動・福祉国家の発展→政治主導の・官僚主義批判→自由・自立に依拠したマネジメント・プロジェクト経済化、という発展をしてきているのが、少なくとも主要先進国における経済・社会発展の大まかな流れです。アメリカも日本もフォーディズム的経済とプロジェクト的経済の過渡期にあるのが現在の状況です。

今、若者が置かれているのは、「グローバルな過当競争」によって官民合作による経済成長政策が機能しなくなっていることに加え、「企業の方が効率的にやれる」という方便のもと、官が離脱しセーフティネットが薄くなっている状況です。そこに、官民合作で作られた「能力とやる気のある人間しかいらない」という雰囲気が、彼らをさらに追い立てるのです。

しかし、冒頭に述べたように、日本の若者のスキルは国際的に見ても十分に高いのです。

その彼らを、生活できないような水準の賃金や労働条件の仕事に追い立てているのは、学校が無能だからでも若者にやる気や能力が無いからでもありません。政治と企業が、こうした状況に向き合っていないのです。

能力ややる気の高い若者は「自分はまだ足りない。会社勤めはやばい。日本にいるのはやばい」と思って自分をさらに追い立て、普通の若者は「自分は頑張るのは嫌いだし、競争も嫌いだし、適当に生きていけばいいや。頑張っても意味無いし」と思って生きるのです。だって、日本の若者は学校では十分に頑張ってきたし、能力も高いんですから。それなのに「能力もやる気も無いやつはいらない」と社会に言われては、「そんなのこっちから願い下げ」と思うのは当たり前です。

若者はもっと自分の能力は高いということに自信を持ち、学校は十分にやっている、ということに自信を持って良い。

変えるべきは企業・政治です。

まずは、若者のこれ以上の負担を減らしていく必要があるので、「大学に行く必要が無い」システムを作ることでしょう。日本の若者は高校まででも十分に高いスキルを持っているのです。大学に行かなくとも就職できるように、現在の非常に限定的な就職の仕組みに、官主導で規制緩和をすべきです。

しかし、一番重要なのは、非大卒であれ大卒であれ、企業が「職場で人を育てられていない」現実に向き合い、なぜなのか、どうすればそれが改善できるのか、もっと真剣に考えることです。若者を活かせない日本企業にも、若者を責めるクソジジイ社会日本にも未来はありません。

  • もちろん、このデータでは正規・非正規を分けていないので、これを見てただちに「若者の就職率が高い」ということはできません。日本の正規・非正規の待遇格差は大きく、若者の非正規雇用の比率は就労者の3割にもなるからです。