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リベラルは何故こんなにも絶望しているのか~「保守」にあって「リベラル」に無いもの

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
『新しい憲法の話』(提供:アフロ)

・野党支持率が伸びないのは、自民党内にメタ的野党構造があるから

 右を見ても左を見ても、テレビ・新聞・ラジオ・雑誌の大メディア・ネット空間も自民党総裁選一色。菅政権はその末期になって支持率3割前後のままだが、自民党の対抗軸になるはずの立憲民主党の政党支持率はわずか3.0%。公明党にも後塵を拝することとなっている。

 なぜ自民党政権が不人気なのにその受け皿が立憲民主党などの野党に及ばないのか。リベラル政党の支持者は、そのジレンマに日々懊悩しているのであろう。答えは簡単である。今次自民党総裁選を見てわかる通り、自民党の中に野党的対抗軸が存在しているからだ。つまり、メタ的に自民党の中に「党内野党」という極が無数に存在するからである。よって立憲民主党に支持が及ばないのは、自民党の構造上、必然の成り行きなのである。

 かつて中選挙区時代、この構造はもっと鮮明であった。自民党内の派閥間の対立が、そのまま反自民票を吸収した。自民党A派閥への批判を自民党B派閥が受け皿になることによって、「自民党への批判を自民党が吸収する」という摩訶不思議な現象が起こり、少なくとも1993年の細川連立政権誕生まで自民党はその命脈を保ってきた。第二次安倍政権の7年8か月における長期政権で「安倍一強」が言われたが、ふたを開ければ安倍元総理の出身派閥である清和会は衆参自民党国会議員の1/4に満たず、それでいて他派閥が付き従っていたのは「選挙に勝てるから」、という理由でしかない。

 よって菅総理では選挙に勝てぬと算段すると、途端に抑圧されていた多極が動き出す。今次総裁選では岸田派(宏池会)以外は自主投票とされるが、現実的には派閥の力学が作用し、もし決選投票となった場合は議員票の偏重から、より派閥間の駆け引きが熾烈となろう。つまりは小選挙区制となって以降も、自民党の派閥政治は何ら衰えておらず、自民党の中にメタ的反政権が存在する以上、野党がその受け皿になることは難しいのである。

・朝日新聞「リベラル派が陥る独善」の衝撃

朝日新聞
朝日新聞写真:アフロ

 さて2021年9月9日の朝日新聞に、私としては極めて衝撃的な記事が掲載された。”(インタビュー)リベラル派が陥る独善 政治学者・岡田憲治さん”である。要点をまとめると次の通り。

1)リベラルは不寛容で教条的であるから、有権者広範の支持を受けない

2)よってリベラルは不寛容を捨てて、大同団結するべきである

3)リベラルの「正しい主張」が必ずしも人々に受け入れられるとは限らない

 云々である。くり返すように私はこの記事を読んで衝撃を受けた。インタビューを受けた政治学者の岡田氏はリベラル派の学者・言論人として知られるが、その内容はリベラルへの自虐ともとれる内容で、「こんなにもリベラルは自分自身に絶望しているのか」と、私自身保守の立場からショックを受けたのである。岡田氏は同インタビューの中で、リベラルの誤謬をこう断定する。

「身近な同志たちは、民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望(後略)」

 岡田氏はこう表現している。ここで言う、”民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望”というのは、すなわち前述第二次安倍政権が7年8か月にわたって続いたことの圧倒的絶望を示すものであろう(菅政権は、衆参における国政選挙の”審査”を受けていないので除くとしても)。

「なぜ、第二次安倍政権のような”民主国家のルールを平然と無視する”政権が、有権者からの信任を受けているのか。やはり私たち(リベラル)は、やり方が間違っていたのではないか」

 こういった声を、ここ数年で幾度となく嫌になるほど私は聞いてきた。リベラル系と思われる新聞記者や雑誌記者、言論人や政治家たちは、皆一様にこれと同じか、はたまたこれに準じた「絶望」を語る。「なぜこんなむちゃくちゃな政権(第二次安倍)が国民から信任を受けているのか」。彼らは時として苦渋に満ちた表情で結句として、こう判決する。

「我々リベラルのやり方が間違っていたに違いない」

 と。最近はリベラル側からリベラル側の誤謬を指摘するのが流行っているのかもしれないが、とかくこういう論調が多い。「有権者に訴求できない以上、リベラルの戦法は間違いであった」。皆それを言うのだが、保守である私には全く理解できない。なぜ自分たちが間違っていると早々に結論して自虐に走るのか、意味が分からない。

・ロッキード時代と相違ない議席数

ロッキード事件(1976年)
ロッキード事件(1976年)写真:Fujifotos/アフロ

「この間に、日本の政治家のモラル水準はどんどん低下しつづけた。いつ収賄罪などで逮捕されてもおかしくないような人々が、次々と総理大臣の座についたり、政府、党の要職についたりするようになった。」

 この言葉は、現在の政治状況を皮肉ったものでは無い。田中金権腐敗政治を鋭く糾弾した、ジャーナリストの立花隆氏がその著書『巨悪VS言論』(文藝春秋)で、田中角栄をぶった切った際の文章である。立花は、田中政治を「民主主義のルール破りだった」と断罪する。

 言うまでもないが、田中角栄は自衛隊機を含む「ロッキード疑惑」に関係して、1976年7月に逮捕された。元総理の逮捕という前代未聞の事件に日本はもとより世界中も注目した。長い裁判の後、田中は1983年10月に第一審の東京地方裁判所で懲役4年の有罪判決を受けた。世論は、田中角栄はクロだ、という印象が強くなった。このような田中批判の中で行われたのが、1983年衆議院総選挙だった。正しく立花の言う「民主主義のルール破り」を行った自民党への国民の審判が問われた。

 当時、「”田”中曽根内閣」と揶揄された中曽根康弘率いる自民党は、歴史的大敗を喫した。このとき衆議院の定数は今より多い511議席だったが、自民党は250議席を獲得して第一党の地位を堅守したものの、単独過半数を割れこんだ。これでは政権が維持できないから、無所属当選議員を勧誘して何んとか自民党政権を維持した。この時、野党第一党である社会党の獲得議席は112議席であった。この数は、現在の立憲民主党の議席数と大差ない。

 ロッキード疑獄は、第二次安倍政権下に於ける「桜を見る会」の疑惑とは金額的には比較にならない規模であった。丸紅ルート・全日空ルートなど、数億以上のカネが動いたとされる戦後最大の疑獄である。よってそれを「民主主義のルール破り」「いつ収賄罪などで逮捕されてもおかしくないような人々が、次々と総理大臣の座についた」り、と評することはなんら不思議は無いが、こんな元総理の逮捕と起訴、有罪判決が出て田中金権政治への不満が頂点に達した1983年末の総選挙でさえ、逆に言えば自民党は過半数ぎりぎりに踏ん張り、対抗軸たる社会党は伸びたとは言え衆議院の1/5強を確保するにとどまったのである。

 事程左様に、「民主国家のルールを平然と無視する政権を有権者が結果的に信任し続けていることへの絶望」は、21世紀に入って突如として起こった事ではない。実は、戦後の日本政治の中で常に繰り返されてきた歴史である。今更になって、「絶望した」というのは、私からすると奇異に感じる。ロッキード疑獄を以てしても自民党政権が続いたときの絶望の方が、よほど比較的に絶望の度合いが濃い。野党が弱いのは、冒頭で述べた通りに、「自民党の中にメタ的な野党構造がある」からで、今に始まった事ではない。なぜこんなにも簡単にリベラルは世論から「拒否された」と思い込み、「リベラルの不寛容さがこの状況を招いた」と自虐するのか。短慮に過ぎると思う。

・今こそマックス・ウェーバーに学ぶべき

 おそらくリベラルは、2009年の劇的な政権交代(麻生自民党から鳩山民主党へ)の成功体験が忘れられないのだろう。1993年における細川連立内閣は、その政権交代劇の首魁である小沢一郎氏、細川護熙氏、羽田孜氏らが揃いも揃って元自民党議員であったように、自民党Aと自民党A´(ダッシュ)の分裂であり、狭義の意味での政権交代とは程遠い。そういった意味では、真に「55年体制の崩壊」が達成されたのは2009年の民主党鳩山内閣成立であったとすることもできる。しかしリーマンショック・東日本大震災などの時代的背景のため、鳩山→菅→野田と続いた民主党政権は3年強で瓦解した。

 現在のリベラルは、この鳩山政権誕生時代の政権交代の成功体験を引きずっているが、それは日本の戦後政治史の中で極めて特異な事象であったとするよりほかない。なぜ一度の「挫折」で「リベラルはまちがっていたのではないか。不寛容に過ぎたのではないか」と自虐する理由になるのか。

 マックス・ウェーバーはその不朽の名著『職業としての政治』の中で次のように書く。

”政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なこの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。(マックス・ウェーバー著、『職業としての政治』,脇圭平訳,岩波書店,強調筆者)

 こういった不屈の精神が、リベラルには足らないのではないか。たった一回の政権交代(鳩山政権)の成功体験とその後の挫折を後顧して、「私たちはまちがっていた、不寛容であった」と自虐するのは早計ではないか、と言っているのだ。

 事実、本稿で引用した朝日新聞の岡田憲治氏の言によると、「リベラルの正しさが必ずしも受け入れられるわけではない」と述べているが、実際に過去10年間を切り取っても、性的少数者や女性差別について、主にリベラル側から提起され続けてきた問題について、現在ではそれが大メディアのコンプライアンス基準となり、実際の番組制作や表現を動かしているではないか。まさに、マックス・ウェーバーの言う、”堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業”が、奏功したのが現代社会ではないのか。そういった地道な、刹那的に注目されない政治活動を「無意味」「(リベラル以外に対し)不寛容で訴求しない」と決めつけて自虐を行い、すぐに主張を修正しようとする恰好そのものが、リベラルの弱点だと言っても差し支えはない。

・「昭和の日改定運動」と保守の草の根

 私は永年保守界隈に居を構えてきた。保守界隈は第二次安倍政権が誕生するはるか前の段階で、”堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業”をずっとおこなってきた。例を挙げるとキリが無いが、例えば「昭和の日改定運動」である。昭和の日とは、昭和天皇の誕生日である4月29日の祝日を指すが、これは2007年までの話で、それ以前は単に「みどりの日」と呼ばれていた。

 これに強硬な保守層は怒っていた。昭和天皇誕生日を「昭和の日」としないで「みどりの日」と呼称するのは何事であるか。是非「みどりの日」の呼称を「昭和の日」に改定するべきである―。ゼロ年代後半の保守界隈やネット界隈では、俄かにこの「昭和の日改定運動」が盛り上がったのだが、特に彼ら在野の保守系活動家は孤立無援であった。「昭和天皇誕生日を”みどりの日”と呼称することの違和感」と題したパンフレットを、彼ら活動家はまったくの自費で、新宿駅や池袋駅、渋谷駅で配布した。彼らの大半は自営業者だったが、「昭和の日」実現を目指して全部私費を投じた。仕事が終わるや否や、損得を度外視して新宿駅の街頭に立って、「昭和の日」の正統性を訴えた。

 勿論彼らは保守系の国会議員や地方議員にも訴えたが、保守系論壇誌ですら「昭和の日改定運動」は優先度が低く、そこまで注目されなかった。40歳を過ぎたいい歳のおじさんが、損得を度外視して、身内からも注目されることなく、コンビニのコピー機で刷った一枚10円のビラを雨の日も風の日も、台風の日も配布するとき、その主張が正しいか正しくないかを別として私は涙が出た。これが草の根の保守運動というやつであった。彼らの声が届いたかは判然としないが、結果として「みどりの日」は、彼らの望む通り「昭和の日」になって現在を迎えている。

 くだんの朝日新聞における岡田憲治氏のインタビューには、現在のリベラル派が認識している支持層を「上顧客」とする記述がある。自分たちの思想への支持層を「客」と呼んで憚らない岡田氏の世界観には賛否があるだろうが、少なくとも保守運動にはそういった意識は無かった。「昭和の日改定運動」に携わった保守系の活動家のほとんど全部は、自らへの支持者を「客」とは見做さず、「同志」として歓迎した。

 客観的にみて、その主張が如何に政治的に偏っていようとも、彼らは自らの主張が絶対に正しいと信じ、多数派工作を行わなかった。なぜ行わなかったのかと言えば、自分たちの主張は絶対に正しい。いつかは届くと信じたので、多数派工作を行う必要性を感じなかったからだ。彼らは愚直なまでに自らの信念を貫き通し、その活動で出会った人々を「客」という周縁に追いやることをせず「同志」として平等に連帯した。

 これが「保守」にあって「リベラル」に無い根本精神ではないのか。「上顧客」「固定客」などという、いわば見下した他者への存在がある限り、リベラルの復権は絶対にない。強固な保守は、過去にも、現在にも、未来でも、「同じ志を有する者は同志として見做して平等に扱う」をその根本精神とする。間違っても「客である」等とは言わない。そして絶対に信念を曲げない。

「自分たちが受け入れられないのは、メディアのせいであり、反日勢力の陰謀であるから、自分たちはまちがっていない」という直進性を有する。その点リベラルは、たった一回の実質的政権交代に味を占め、それが再現できなくなると「私たちが間違っていたのではないか」という自虐に走る。これがリベラルが保守に劣後する最大の理由だ。今こそマックス・ウェーバーの故事を思いだし、たった一度の挫折にひるむことなく自身の主張を剛毅不屈に貫徹してもらいたい。それができず、単に主義のない「多数派工作」を展開し、自らの支持者を「客」と蔑むなら、リベラルに未来などないのではないか。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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