『新潮45』休刊の背景~貧すれば鈍する名門雑誌の最期~

筆者が寄稿した『新潮45』各誌。左より17年11月、15年10月、18年10月

・極端な二重構造を持った雑誌『新潮45』

 月刊論壇誌『新潮45』が休刊した。大変なショックである。かくいう私は、同誌2015年9月号に初寄稿させて頂いて以来、合計8回この雑誌に寄稿させて頂いたことになる。毎回巻頭に近い位置に遇して頂き、表紙にも『古谷経衡』の名前が複数回踊った。

 奇しくも最終号となった2018年10月号の表紙にも、『酔っ払った山尾志桜里に罵倒された夜 古谷経衡』が目玉原稿のひとつとして表紙を飾っている。『新潮45』休刊のニュースと合わせて各種メディアで本号の書影が使用される際、かならずちらと私の寄稿タイトルと名前が垣間見えるのがなんとも複雑な心境である。

 2015年当時、私は新潮社から既に単著『左翼も右翼もウソばかり』を刊行し、これについて反響が大で増版となったため、同じ版元である『新潮45』の方にも単発で声をかけて頂く状況であった。当時の私にとって『新潮45』は権威と格式のある雑誌で、寄稿の依頼があったのは率直に名誉と感じた。

 今回、『新潮45』休刊のニュースを受けてバックナンバーを家の書架から探した。実はちょうど3年前の2015年10月号にも私は寄稿していて、よほど当時の私が嬉しかったのだろう、該バックナンバーはすぐさま見つかった(本記事ヘッド写真中央)。

・「ヘイト雑誌」「ネトウヨ雑誌」とはほど遠い連載陣

 いま振り返ってみると『新潮45』は極端な二重構造を持った雑誌だった。これはどういうことか。

 2015年10月現在の連載陣は主要なところで、武田徹(ジャーナリスト)『メディアの運命』、川本三郎(評論家)『男はつらいよ を旅する』、加藤寛(作家)『昭和からの伝言』、佐藤優(作家)『組織で生き抜く極意』、上原善広(ノンフィクション作家)『私大阪』、川上和人(鳥類学者)『鳥類学者の優雅で残酷な日々』、山折哲雄(宗教学者)『日本人よ、ひとり往く生と死を恐れる事なかれ』、里見清一(臨床医師)『日本のビョーキ』、譚ロ美(ノンフィクション作家)『日中百年の群像』ときて、連載漫画では『テルマエロマエ』で一躍大ヒット漫画家となったヤマザキマリの『プリニウス』、連載小説には真山仁の『オペレーションZ』が配置されており、現在、「安倍応援団」「ネット右翼」から蛇蝎のごとく嫌われている石破茂が「人口減少社会問題」についての対談で登場する。

 そして最終号となった2018年10月号(上記3年後)の主要連載陣は、鹿島茂(仏文学者)『二本史』、瀬戸晴海(前厚生労働省麻薬取締部部長)『マトリ』、古市憲寿(社会学者)『ニッポン全史』、稲泉連(ノンフィクション作家)『廃炉という仕事』、福田和也(評論家)『総理と女たち』、泉麻人(コラムニスト)『トリロー』、適菜収(作家)『パンとサーカス』、保阪正康(作家)『昭和史の人間学』、片山杜秀(評論家)『水戸学の世界地図』、佐伯啓思(社会思想家)『反・幸福論』と続き、ヤマザキマリの連載漫画『プリニウス』は第53回まで伸張している。

 今回の『新潮45』休刊で、同誌は「ヘイト雑誌だ」「ネトウヨ雑誌だ」などと散々誹謗があるが、この連載陣をみて「ネット右翼的である」と思う人はいないだろう。

 2018年8月号の杉田水脈代議士の寄稿『「LGBT」支援の度が過ぎる』と併せて、今回新潮社の代表取締役が声明で述べたように、

「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

出典:新潮社公式サイト

 というの部分の、「ある部分」が自称文藝評論家の小川榮太郎による『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』を指すことが明らかなように、この雑誌は特集や特別企画部分では極めてネット右翼に迎合し、当初から炎上上等の、エッヂの尖った姿勢を鮮明にしながら、雑誌後半を占めるの連載陣に至っては、「至極穏健な」寄稿で占められているという、極端な二重構造を有しているのだ。

・なぜ『新潮45』の二重構造は生まれたのか

 なぜ『新潮45』は、雑誌の半分がネット右翼迎合、もう半分は穏健という二重構造を内包する雑誌になったのか。それは、端的に、

『『新潮45』の実売数は1万部前後が続いており、雑誌単体では赤字という状況があった。部数の落ち込みを回復したいという焦り』

出典:(Abema TIMES)『新潮45』は「限りなく廃刊に近い休刊」

 という報道に全てが集約されている。部数減少の回復を願う一心で、特集と特別企画はネット右翼に迎合的とする。しかし雑誌全体をその路線にしてしまうと、既存の穏健な讀物を好む定期購読者や読者が離れてしまう、というジレンマを抱えながら突進を繰り返した。

 既に先行している『正論』(産経新聞社)、『WILL』(WAC)、『HANADA』(飛鳥新社)の「自称保守雑誌三巨頭」は、連載陣の細部に至るまで、「安倍支持」「反野党」「反左翼」「嫌韓・嫌中」などの古典的なまでのネット右翼迎合記事で徹頭徹尾締めくくられている。これは創刊当時からの該雑誌の姿勢が右派に軸を置いたモノだったのだから、当たり前だ。

 これらの雑誌は、ネット右翼の中で、近年では特にCS番組やネットニュース番組などで直接書影が紹介されることにより、全体的な雑誌苦境の中でまだしも奮戦していると言って良い。部数減少で苦しむ『新潮45』が、この「自称保守雑誌三巨頭」の奮戦を傍らに観て、「四匹目のドジョウ」を狙ったと考えるのが妥当であろう。

 しかし、「右傾化」後発の『新潮45』は、雑誌の「前半分」しかネット右翼迎合の内容にすることが出来ない宿命を背負っていた。なぜなら既に述べたとおり、創刊時からの穏健な讀物や漫画に期待する読者が一定数いるので、雑誌の前半分しか「ネット右翼迎合」に改造できないのである。ここに『新潮45』が、前半は過激なネット右翼路線、後半は穏健な讀物と連載陣で固める、という奇妙な『二重構造』を有した原因であると私は観る。

・『新潮45』実際の部数減はどの程度だったのか

 さて、『新潮45』の部数減の焦りが本紙前半の過激なネット右翼迎合記事を造成させたとして、はたして『新潮45』の部数減は実際にどの程度だったのだろうか。実のところ確固とした数字がある。一般社団法人日本雑誌協会の統計によって、『新潮45』の過去10年に亘る部数の増減を観ていくことにしよう。

画像

 上図を観ても分かるとおり、約10年前の2008年4~6月期に43,000部弱を誇った『新潮45』の印刷部数は、2012年には25,000部の大台を割り込み、以後ほぼ回復すること無く、2016年10~12月期には20,000部すら割り込み、最新統計では16,800部に低迷した。よって過去約10年間で印刷部数は実に6割以上減少、という断頭台に立たされたのである。

 ふつう、固有の戦力の6割が灰燼に帰した場合、その部隊は全滅と判定される。言い換えれば『新潮45』は、ここ10年でその戦力の2/3近くを喪失したのだ。『新潮45』のここ10年の歩みはまさにこのような壮絶な「生きるか死ぬか」の瀬戸際にあったのだ。

 注意して欲しいのは、これは印刷部数であって実売部数(実際に書店やネットで売れた数)ではないということだ。冒頭の報道のように該雑誌が実売1万部であるとすれば、この印刷部数に0.6の係数をかけなければならない。だから、実際の部数はもっと低落する。

 このような中で、『新潮45』は、「たとえどんなことをやろうとも、たとえどんな手を使ってでも、一部でも多く売る」ことを至上命題にして、炎上覚悟、右傾化路線、ネット右翼迎合路線に突き進んでいった。

・全滅寸前でも右傾雑誌になりきれず・・・

 しかし前述の『二重構造』が災いして、徹頭徹尾右傾雑誌になることは出来ず、『正論』(産経新聞社)、『WILL』(WAC)、『HANADA』(飛鳥新社)の「自称保守雑誌三巨頭」の読者を根底で奪うところまではいかなかった、といのが私の読みである。

 この中途半端な『二重構造』を持つ類似雑誌として、私が真っ先に念頭にあげるのはPHP研究所から出版されている月刊論壇誌『VOICE』である。こちらも前半は過激なネット右翼迎合の政権支持、嫌韓・嫌中、反メディアで構成されながら、後半は穏健な執筆陣による二重構造を持つ典型的な「後発右傾雑誌」である。

『VOICE』は1977年創刊。母体企業であるパナソニックの松下幸之助の意向を受け、穏健論壇誌としてスタートした。一方『新潮45』の創刊は1982年創刊。双方とも40年近くの歴史を持ち、高邁な理想からスタートした品格と気品ある雑誌であり、発行母体が大手出版社、と言う意味でも酷似している。では『新潮45』と『VOICE』の発行部数も比較してみよう。

・PHP研究所『VOICE』にすら敗北

画像

 10年前つまり2008年、『新潮45』は、『VOICE』に対して約1万部の比較優位を保っていた。しかし2013年を境に僅かばかり『VOICE』に逆転された。『VOICE』も同じく「後発右傾雑誌」として、どんどん過激な反中・嫌韓・反マスメディア(産経新聞を除く)を展開していったが、『新潮45』に比べればまだしも健闘している。

 結果、最新統計(2018年4~6月)では、『新潮45』が16,800、『VOICE』が約18,000と大差は無いのだが、ここ10年の減少率を観ると『新潮45』が1/3になったのに対して、『VOICE』は辛うじて半分の勢力を維持している。巨視的に観ればどんぐりの背比べかもしれないが、固有の戦力が半分程度残っている意義は大きい。『新潮45』は、10年前に優位に立っていた『VOICE』にも敗北を重ね、ますます焦燥感を募らせていったことは想像に難くない。

・他人事では無い『新潮45』休刊

 一向に回復しない部数。減り続ける実売。これが今回の『新潮45』の炎上商法とも言うべき暴挙の直接の主因のひとつであることは間違いないだろう。どんなことをしてでも一部でも多く売りたい、となれば、これはもう手段を選んでいる場合では無い。肉弾戦法でも何でも良いから、兎に角、生還を前提としない誌面構成にでる。しかし繰り返すように『二重構造』が故、全面的な右傾雑誌には改造できない。これが『新潮45』の宿命であったのかもしれない。

 雑誌不況、と言われて久しい。今回の『新潮45』の休刊を、単に「生きるか、死ぬか」の切迫した状況で生まれた悲劇、と断じてしまっていいのだろうか。これは苦戦する雑誌媒体のみならず、断末魔へと向かう他業種の業界全体の業界人にも、我が事としてとらえなければならない問題と言える。正に己が死に向かうそのとき、それまで営々と先人が気づきあげてきたポリシーや崇高な理念をかなぐり捨ててでも、「売り上げ」を優先してしまうという心境が、『新潮45』だけに固有のものであったとは、誰が言い切れるのだろうか。

 想像して欲しい。母屋に火が付き、もう消火は出来ない段階だと誰しもが分かっている絶望的な状況下でも、それでも会社員として戦わなければならないとき、人はあらゆる手段で、わらをも掴む姿勢であらゆるモノにしがみつく筈だ。

 結果それが死を意味すると分かっていても、現実の数字がその死を眼前に突きつけられたとしたら、皆さんは平常心を保っていけるだろうか。単に「暴走」「炎上」では済まされない、「窮鼠、遺産を食いちぎる」という最後の抵抗の段階に、少なくとも雑誌業界全般が入っていることは、我が国文化の衰退と同義で有り、決して他人事では無いのである。

・またひとつ村が死んだ

 宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』の中で、軍事的に追い詰められた土塊(ドルク)軍が、敵(トルメキア)に対抗する最期の手段として、自国が腐海の毒で汚染されることを知りながら、細菌兵器(突然変異体)を使う究極の焦土戦術を展開するシークエンスがある。

『新潮45』の最期は、この「勝利(―もはや勝利ですら無く延命なのだが)のためには国土が没することも厭わない」という、悲壮な土塊軍の戦術を私に想記させてならないのだ。『新潮45』が、言論界の村だったとしよう。さすれば今次の休刊で「またひとつ村が死んだ」(ユパ)と絶望せざるを得ない。本当に絶望しか無いのである。