宮里藍の思い出を紐解きながら「なぜ今?」に想いを巡らせる
「宮里藍、引退」の報は、日本のファン、日本のゴルフ界にとっても、世界のゴルフ界にとっても、本当に驚きのニュースで、なぜこの時期に発表したのかが、とても気になる。
シーズンエンドとか、年末とか、そういう区切りのタイミングではなく、なぜ今、この5月という時期に発表したのか。宮里を今、引退発表に踏み切らせたものは何だったのか。
その答えは29日に予定されている会見で明かされるのだと思うが、考え抜いて決めたことなのだろうから、彼女は包み隠さず本心をさばさばと語るだろう。少なくとも、かつて私が米女子ツアーで毎週のように取材し続けた「藍ちゃん」は、決めたらスパっと割り切ることのできる思い切りのいい女性なのだから。
宮里との思い出は、あまりにもたくさんありすぎて、一気に書こうとしてもネバー・エンディングゆえ、順を追って少しずつ綴っていきたいと思う。思い出を振り返っていけば、「なぜ今?」の答えも見えてくるのかもしれない。まずは、最初に思い浮かぶ最も強烈な思い出を、みなさんにお伝えしたい。
宮里が米女子ツアーのQスクール(予選会)に挑戦し、2位に12打差を付けてトップ通過した2005年の秋以来、私は初優勝を目指していた彼女を、ほぼ全試合、追い続けていた。
日本の大きな期待に応えようと必死だった20歳の少女は、必死ゆえに肩肘を張り、なかなか本心を見せてはくれなかった。いつも仮面を被っていた。いや、仮面を取り去ることができなかったのだと思う。
ルーキーイヤーの2006年の春、ギンクラブ&リゾートという大会で初めて優勝争いに絡み、「宮里藍、早くも初優勝なるか!?」と日本メディアは色めき立った。
だが、最終日の彼女は序盤から大きく崩れ、優勝争いの蚊帳の外へ。あの日の彼女のゴルフは、文字通り、ボロボロだった。
ホールアウト後、当時のマネージャーに連れられて歩き出した宮里は、歩きながらボロボロと涙を流し始めた。その姿を私は真後ろから眺めつつ、彼女と同じペースで歩いた。
こういうときは、人間として、同じ女性どうしとして、何か声をかけてあげたくなる。あのときも思わずそうしてあげたい衝動に駆られたが、メディアと選手という関係上、その衝動を抑え、何もできず、何もせずに見守っていた。あの数分間は、今も忘れられない。
小1時間後、マネージャーを通じて宮里の声が日本メディアに伝えられた。
「悔しいです」
だが、次の試合で会ったときは、もう割り切った笑顔。いや、少し照れ笑いもしていたところが愛らしかった。あの涙の敗北以後、宮里の仮面は拭い去られ、本心が垣間見えるようになった。だからこそ、あの涙、あの敗北は大きな意義があり、忘れがたき思い出になった。
あれから10年以上が経過して、いろんなことが変わった。引退発表が「なぜ、あえてシーズン半ばの今なのか?」は会見で語られるまではわからない。
だが、彼女を追い続けた3年超の日々の中、メディアの私にさえ忘れがたき思い出を胸に刻んでくれた「藍ちゃん」なのだから、アメリカで過ごしてきた2006年からの10年以上の日々の中、彼女が日本や世界の大勢のファンにもたらした思い出はきっと果てしない。
その1つ1つをそれぞれが思い出し、紐解きながら、日本が誇る女王、宮里藍の里帰りを待っていてあげたい。