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「人生の最後で、私は幸せだった」 ひっそりと死去したポル・ポト派最高幹部の妻

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
リー・キムセイン(撮影コサル・チャンビュラ)

 2021年、私にとって大事な人々がこの世を去っていったが、その中で最も印象深い人のひとりは、カンボジア女性のリー・キムセインさんであった。訃報は5月末、カンボジアの友人から突然もたらされた。

 「昼食後に気分が悪くなったからと言って横になって、それきりだったらしい」。

 洗いざらしの暗い色のサンポット(カンボジアの伝統的スカート)。素朴な微笑みは平凡な農民出身の女性にしか見えなかった。彼女が寄り添い、人生を共にしてきた夫は、虐殺者として糾弾されたポル・ポト派最高幹部「ブラザー・ナンバー2」のヌオン・チア(2019年8月死去)だった。ポル・ポト派が、新米政権を倒し権力を握った3年8カ月。ベトナム軍に政権を追われ、ジャングルを拠点にした激しいゲリラ活動と内部抗争の日々、そして政府に投降した後の静かな時間。悲劇に満ちたカンボジアの荒々しい年月をくぐり抜けたのに、彼女の微笑みは素朴なままだった。

 彼女が語る夫、ヌオンチアは、妻への気遣いに溢れた、真面目でとてつもなく頑固な男だった。彼女は幸せだっただろうか。最後に会った時の少し寂しげな笑みを思い出した。

■夫と一緒に死にたい

 リー・キムセインに最後に会ったのは2019年11月、カンボジア北西部パイリンであった。パイリンはかつてのポル・ポト派の本拠地。ジャングルだったこの地は、今はカジノがあるタイ国境の町である。住民には今も、かつてポル・ポト派に属していた人々が多い。

 ヌオン・チアの百箇日法要が執り行われる前日で、リー・キムセインは広い庭がある親戚の家で、僧侶らを迎える準備をしていた。

「我々の共産主義は仏教を基本にしている」

 ヌオン・チアは生前、よくそう言ったが、実際にはポル・ポト派の人々は長い間、仏教儀式とは縁遠い生活を送っていた。リー・キムセインらも仏教のしきたりがよく分からず、供物の準備にもまごついていた。見かねた私の友人が供物の準備の仕方などをあれこれ指導していた。リー・キムセインは言葉少なで時折、薄く微笑んだ。どこか吹っ切れたような雰囲気があった。

 「夫と一緒に死にたいと思う。それが夫婦というものでしょう?」。彼女は以前、そう語ったことがあった。ポル・ポト派を裁く法廷が国連の支援で設置され 、ヌオン・チアが収監され1年ほどが過ぎた2008年頃だったと思う。長年住んだ質素な高床式の家の所有者から追い出され、移った小さな家の中は熱がこもって暑かった。

■「顔を見ることもできなかった」

 リー・キムセインはコンポンチュナン州の村に生まれ、21歳の時に知人の紹介で若き日のヌオン・チアと出会った。当時30歳を越えていた彼にはある種の威厳があり、「威圧感で私が顔を見ることもできなかった」と言う。親戚は反対したが、結婚はヌオン・チアを気に入った父の命だった。

 新婚時代は、首都プノンペンで始まった。ヌオン・チアは出かけたきり長期間、帰ってこないということがあった。中国人に自宅でカンボジア語を教えたり、ベトナム人らしい男に護衛されながら帰宅したこともあった。危険が伴う政治活動に関わっていることはリー・キムセインにも容易に推測できたという。

 ポル・ポトやイエン・サリ(ポル・ポト政権で外務大臣)らが食事にやってくることもあった。ポル・ポトは柔らかな雰囲気の人物で、彼女の手料理を「美味しいね」と褒め優しく気遣う人だった。

 カンボジア政府軍とポル・ポト派の戦いが激化すると、リー・キム・セインは幼い子どもたちを連れてポル・ポト派の支配地域だったプノンペン 近郊の森に移った。1975年4月17日、米国が支援する政権をポル・ポト派は打倒し首都入場を果たす。リー・キムセインは車でプノンペンに連れて行かれ、子どもたちとはそこから別れて暮らすようになった。4年近く続いたポル・ポト政権時代の大半を、彼女はヌオン・チアら最高幹部らが仕事をし生活をした建物で過ごした。

 リー・キム・セインの仕事は、彼らの食事に毒が入れられないかどうか見張ることだった。ポル・ポトやヌオン・チアたちは、「スパイ」を常に警戒し、「毒味係」もいた。最高幹部たちの毎日の食事は、朝はおかゆ、昼、夜はご飯に魚が付く程度の質素なものだったという。

 ポル・ポト派は、階級のない平等な社会を目指しているとしていたが、高等教育を受けパリに留学した最高幹部の妻たちは、自分を見下しているのをリー・キムセインは感じていた。

■投降にほっとした

 1979年1月6日、ベトナム軍が侵攻しポル・ポト派は敗走した。ヌオン・チアやポル・ポト、キュー・サムファン(ポル・ポト政権では国家元首)らと山道やジャングルを幾日も歩く厳しい逃避行だった。ヌオン・チアは妻に木の枝で杖を作り気遣った。子どもたちの行方が分からず気を揉むリー・キムセインに、ヌオン・チアは「すまない」と謝り「安全な所にいる」と説明した。

 ポル・ポト派はタイ国境の森を拠点にゲリラ戦を繰り広げた。その間に高じた幹部間の激しい諍いを、リー・キムセインは目の当たりにした。ポル・ポトが98年に死去した時は、他者の前で泣かないヌオン・チアが、そっと涙をこぼしたという。

 同じ年の暮れ、ヌオン・チアはキュー・サムファンと共に政府に投降した。

 「正直言って、ほっとしました」。リー・キムセインは、カンボジアにとって大きな節目となったその日のことについてそう語っていた。

 カンボジア政府はヌオン・チアとキュー・サムファンにパイリンに住むことを許可し、高床式の簡素な家で息子や孫との生活が始まった。リー・キムセインには結婚して初めての平凡で静かな生活だっただろう。

■「逮捕されても泣かないで欲しい」

 2007年9月、ヌオン・チアは、カンボジア政府が国連が支援する形で設置した特別法廷に、パイリン の自宅で特別法廷に逮捕された。ヌオン・チアは逮捕の日を政府関係者から予め知らされていたが、妻には言わないでおいたのだ。

 「私が逮捕されても泣かないで欲しい。夫がそう口にしたことがあったんです」。ヌオン・チアを乗せたヘリコプターがプノンペン 郊外の特別法廷の拘置所に向けて飛び立った後、リー・キムセインは夫との約束を破り、一人で泣いた。

 リー・キムセインは、体調を崩すことがよくあった。それでも月に1、2度はパイリン から相乗りタクシーに6時間ほどゆられて夫の面会に行き、夫の独房で1日を過ごしていた。「独房から出られない夫がかわいそうだ」と子供たちに語り、涙をこぼすこともあった。

 私が何度か彼女と会い質問を重ねる中で、素朴な彼女の目に挑むような光が宿ったのは、夥しい市民の死について尋ねた時だけである。

 「夫が人を殺すところを見たことはありません。悪いのは下士官たちです」。

 断固とした口調だった。彼女の主張は本当だろう。大量虐殺やジェノサイドを実行した集団で、最高幹部たちが行うのはたいてい、部下への命令であり、それを実行に移すのは下士官や兵士たちである。

 ポル・ポト派の最高幹部は「敵は抹殺しなければならない」と繰り返したが、「敵とは誰か」については明確に示さなかった。このことがかえって部下の間に恐怖を呼び、市民の処刑を加速させた一面がある---ポル・ポト派の元中堅幹部はそう語った。

■たまにはダンスを

 ヌオン・チアの印象的なエピソードがある。面会時間を終えて帰ろうとするリー・キム・セインをヌオン・チアが引き留めた時のことだ。

 「いつも私と一緒にいたために苦労ばかりかけた。たまには友達と踊りにでも行って人生を楽しんで欲しい」

 ヌオン・チアが彼女の額に口づけをし、そう言ったのだ。「快楽に身を委ねること」を戒めてきたヌオン・チアの言葉だった。

 「驚きと嬉しさで気持ちが弾みました」

 リー・キムセインはその夜、娘や友人たちと連れ立って夕食をした後、カンボジアの歌謡曲が大音響で流れるダンスホールに行った。彼女の手を取り踊ったのは、両親をポル・ポト派に殺害された私の友人でもある男性だった。2人は互いに過去を知っていたが、そのことに触れたことはなかった。彼女が楽しむのを見るのが嬉しかった、と友人は言った。

 ヌオン・チアはプノンペン市内の病院で2019年8月に死去した。百箇日法要が終わると、娘たちがFacebookに、それまで見たことがないリー・キムセインの写真をアップするようになった。

 お洒落にカットしたショートヘアに、色鮮やかなシャツを着て、娘たちと微笑む。重石から解き放たれたかのようで、パイリンで会った頃よりも輝いていた。

 娘や孫たちは、彼女を旅行に連れ出しては、楽しませていたのだ。彼女が出かける時には、孫や親戚を含め総勢4、50人が共に行動したという。そのうちの多くに私はヌオン・チアの百箇日法要で会ったが、礼儀正しく、互いにさりげない気遣いをする若者たちばかりだったことが印象に残っている。

 「またダンスに行きましょう」。リー・キムセインは、私の友人に何度もそう言っていた。「人生の最後で、私は幸せだった」。娘には度々、そう言っていた。

■1枚だけの写真

 夫の死から2年足らずで、その日は突然、訪れた。

 「ポル・ポト派指導者の妻だったが、寡黙で、家族と共に質素に暮らした人だった」。与党系の地元英字紙「クメール・タイムズ」は5月28日に、リー・キムセインの死を短く報じた。

 娘たちは母の死後、多数の写真をFacebookにアップした。トランプのカードを両手で広げ、水着でプールにつかり、レストランや浜辺で食事をする、子や孫と人生を楽しむリー・キムセインの姿である。ポル・ポト派が、つまりはヌオン・チアが自分と家族、国民に禁じていた「快楽」を謳歌する彼女だった。

 アップされた写真の中には、彼女のポル・ポト派時代の写真が1枚だけあった。黒い農民服に身を包んだその写真を、リー・キムセインは密かに、大事に保管していたに違いない。その写真を、取り出して眺めることもあっただろうか。

(了)

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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