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若者たちは森に向かった ミャンマー古都での虐殺事件後、彼らが軍事訓練を受ける理由

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
台北で、ミャンマー国軍の武力弾圧に抗議する人々(5月2日)(写真:ロイター/アフロ)

 ミャンマーの古都バゴー市で、国軍が対戦車ロケット弾などで市民を攻撃し82人以上が死亡した事件から1カ月が過ぎた。クーデター後、1日の犠牲者としては最多となったこの虐殺事件でも、犠牲者の大半は国軍への抵抗運動の最先端にいる「Z世代」の10代や20代。いまだ多数は行方不明だが、国軍を恐れて家族さえも公の場で悲しみを語らない。

 バチェレ国連人権高等弁務官は事件後、「シリアのように本格的内戦となる可能性がある」と国際社会に警告したが、暴力を止める効果的な策は取られておらず、国軍による逮捕や拷問、殺害は全土で続いている。地元人権団体によると、5月11日までに死者は783人、逮捕者は4936人に上った。一方、Z世代の若者たちは、軍事訓練のため少数民族武装勢力「カレン民族同盟」(KNU)の支配地域を続々と目指しており、その数は数千とも数万とも言われる。

 「国際社会の支援を待ち続けるよりも、市民を守るために戦いたい」。バゴー虐殺を生き延び新たな闘いの段階に進もうとする若者らが語った。

 バゴー虐殺の日

 バゴー市は、国内一高い仏塔やジャングルに埋もれていた寝仏などで知られる、ゆったりとした古都だった。虐殺事件以来、国軍の「スパイ」が目を光らせ、抵抗運動の関係者とみなされた市民の逮捕や殺害が続いている。

 バゴーで抵抗運動を続ける若者らは、市南部のマウカン、サンドートゥインなど3地区に、国軍の侵入を防ぐために土嚢や古タイヤを摘み上げバリケードを設置していた。マウカン地区のバリケードは最も大きく、その近くの学校の建物が運動の「拠点」だった。若者たちは夜も自宅に戻らず、僧院や近郊の村々の民家で寝泊りをしていた。

国軍の攻撃を受ける数日前、抗議運動をする若者たち。左手の黒い旗には「我々は反撃する」の意味が込められている(バゴー・サンドートゥイン地区、Facebookより筆者作成)
国軍の攻撃を受ける数日前、抗議運動をする若者たち。左手の黒い旗には「我々は反撃する」の意味が込められている(バゴー・サンドートゥイン地区、Facebookより筆者作成)

 国軍は度々、バリケードを攻撃したが、若者らは手製のエアガンやスリングショットで反撃し、犠牲者を出しながらも国軍の地区内侵入を阻止していた。「警察署を放火する」と、若者たちは言い放ったこともある。国軍の武力の強大さは分かっていたが、「軍事政権は受け入れない」という精神を示そうとしていた。

 4月8日。上空を飛ぶドローンに若者たちは気づいた。国軍が上空から偵察していると分かった。

 「国軍は激しい武力弾圧を仕掛けるつもりだ。ドローンを見た時に僕たちはそう覚悟したんです」。当時、サンドートゥイン地区のバリケードにいた16歳のマウンサンは言う。若者たちの予測は当たっていた。

 翌9日午前5時ごろ。爆音や発砲音が町に響き渡った。国軍がバリケードがある3地区への攻撃を同時に開始したのだ。40ミリロケット砲、手榴弾、迫撃砲など戦場で使う重火器を使ってきた。当時、各バリケードには数人の見張り役しかいなかったが、連絡を受け若者たちが集まった。駆けつけたマウンサンは50人の仲間とバリケードの背後から手製のエアガンやスリングショットで反撃した。

 マウンサンたちのバリケードはなんとか持ちこたえていたが、マウカン地区のバリケードが破られた。国軍は銃を乱射しながら地区内に進み、マウンサンたちが守っていたサンドートゥイン地区にもなだれ込んだ。若者たちは逃げるしかなかった。攻撃が始まってから2時間後の午前7時頃のことである。

 「出てきやがれ、クソ野郎ども。殺してやる」。

 兵士が怒鳴りながら銃を乱射し、マウンサンの近くにいた3人が倒れた。住民が通りに出て抗議の叫びを上げる。兵士らは逃走する若者を追いながら今度は、住民にも発砲し、自宅の隅に隠れていた58歳の男性も射殺された。

 国軍の激しい攻撃は終日続いた。多数の死者や負傷者が転がっていたが、国軍は家族や救急隊が近づくことを許さず、負傷者は手当てを受けられないままうめき声を上げていた。午後8時ごろ国軍は電気の供給を遮断し、バゴーの町は真っ暗になった。暗闇の中で、遺体や負傷者が国軍の車に積まれ運び去られたとみられる。それがどこに運ばれたのかはいまだに分からない。市当局者によると、遺体安置所には34遺体が運び込まれ家族に渡されたのは8遺体だけだった。多数の遺体と負傷者が僧院の敷地内にあるのを見たと複数の人が語っている。情報をFacebookに投稿した女性は、行方が分からなくなった。

攻撃を生き延びた若者が見せてくれた、現場近くに落ちていた不発弾の写真(バゴー市、現地から入手した提供写真)
攻撃を生き延びた若者が見せてくれた、現場近くに落ちていた不発弾の写真(バゴー市、現地から入手した提供写真)

助けを待ち続けるよりも

 現場から辛くも逃げられた若者たちは郊外の村々に向かった。国軍は近隣の村々を攻撃して捜索し、隠れていた若者らを逮捕した。

 一日中歩き続け、たどり着いた町で夜を明かした若者たちもいる。彼らは市民の助けを借りて車で密かにバゴーの僧院に戻り、そこからさらに別の市民が運転する車に乗って約320キロ南東にあるKNU支配地域に向かった。

 マウンサンたちのグループは野や森を抜けて4時間歩き続け、着いた村で一晩を過ごした。着ていた服を土中に埋め、村人からもらった服に着替えて翌朝、出発した。村から村へと移動し、僧院や民家で匿ってもらいながら国軍の監視網を逃れた。

 バゴーにいる友人が、携帯電話で国軍の動きを日々、伝えてくれた。国軍が近隣の村々を襲撃していること、村に潜んでいた男性を連行し拷問死させたことー。国軍のトラックが向かって来るのが見え、茂みに飛び込み伏せたこともあった。数日後、マウンサンたちはバイクに分乗してバゴーに戻った。しかしグループのリーダーらはすぐにKNU支配地域へ向かった。

 マウンサンはバゴーに残った。

 「バゴーの状況を伝える役目をするようにとリーダーに言われたんです。もうすぐ、リーダーたちは軍事訓練から戻ってくる。時が来たら僕もゲリラ戦に加わる。必ず市民は勝利します」。その言葉には固い決意がのぞく。

 「国連や外国からの助けを待ち続けるよりも、武装少数民族と共に国軍と戦いたいんです」。国連や国際社会は暴力を止める行動を取れない。その間に市民が虐殺されていくのであれば、自分たちが市民を守る以外に方法はない。マウンサンのように感じる若者たちは増えている。バゴー虐殺を逃れた若者たちの多くが、市民の助けを借りてKNU支配地域へ向かったとみられる。事件以来、行方が分からなくなった若者たちの親は「KNU地域に行っているに違いない」と考えているという。

4月9日、国軍に攻撃されたバゴー市サンドートゥイン地区で、倒れた人を収容する男性。国軍はこの日、市民が遺体や負傷者に近寄ることを禁じたので、男性は私服を着た当局者とみられる(現地からの提供写真)
4月9日、国軍に攻撃されたバゴー市サンドートゥイン地区で、倒れた人を収容する男性。国軍はこの日、市民が遺体や負傷者に近寄ることを禁じたので、男性は私服を着た当局者とみられる(現地からの提供写真)

離脱した国軍大尉らが指導

 KNU支配地域で若者たちは、銃の扱い方や戦い方など、45日間にわたる基礎的な軍事訓練を受けるという。国軍の弾圧を批判して離脱した少佐と大尉も指導に当たっている。

https://www.facebook.com/myanmarnownews/videos/242192531031153/

 複数の若者によると、これまでKNU地域で訓練を受けた若者は約3万人に上るという。訓練を終えた者はそれぞれの地に戻り、目立たないよう静かに「戦いの日」の合図を待っているというのだ。

 軍事訓練を受けている18歳のヌエウーチョージィが携帯電話のチャットで取材に応じてくれた。バゴー虐殺が起きた後に、市民の助けを得ながらKNU地域にたどり着いた。

 「クーデター前の僕の夢は、大学を卒業して両親の生活を支えられる職業につくことでした。自由な空気の中でね。でもクーデターが僕たちの未来を破壊したんです」。自分たちの未来は奪われたと感じて、涙が止まらなかった。

 軍事訓練に参加したのは「国軍の攻撃から市民を守りたいから」だ。「市民不服従運動(CDM)は期待したほどの効果がなかった」と思う。武力弾圧がエスカレートして多数の若者が殺害され、国軍に脅され運動に参加しない市民も出てきた。少数だが国軍を支持する人もいる。

 「運動が成功しなければ、若者や市民の死は報われない事になる。だから最後まで全力で戦う。そう決めたんです」

アウンサンスーチーの言葉

 最大都市ヤンゴンなど都会には、訓練を終え戻ってきた若者たちがいる。

 仲間に「ジャーマニー」と呼ばれている25歳の男性は、ミャンマー南部の出身。民主化を求める香港の若者たちと連絡を取り合いながら抵抗運動を進めてきた。YouTubeなどを参考にして、火炎瓶やスリングショットなど自衛のための手製の武器を作ったこともある。しかし、エスカレートする一方の武力弾圧で、それだけでは十分ではないと感じるようになった。

 「今の状況で民主主義を復活させ軍事政権を倒せるのは、武装闘争だけです」。彼は断言する。

 若者たちの抵抗運動は、平和的なデモで始まった。しかし、国軍の弾圧がエスカレートするにつれて運動のスタイルも変えた。国軍が武器で威嚇を始めた頃、正面衝突しないようにデモを展開する戦略を取り、実弾で攻撃する国軍に対して火炎瓶やスリングショットなどの武器で自衛手段を取るようになった。しかし、自分たちの未来と民主主義を守るためには次の段階に進まなければならないと思う。

 武装少数民族と連絡を取っているのか。

 「イエス」とジャーマニーは言い、軍事訓練を受けたことを示唆した。国軍の武力弾圧を押し返すために、戦闘方法のほか医療班の組織、インターネット上で安全な連絡網を作ることなどを学んだ。「これ以上は言えないけれども」

 しかし、国軍の武器は強大だ。怖くはないのか。

「誰もが恐怖という感情を持っています。アウンサンスーチーさんは『正しいと思う行いを恐怖という感情に阻ませてはならない』と言っています。我々は危険に直面している。それは分かっていますが、国軍と戦うために武器を取るしか選択肢はないんです」

 平和的でない闘争を市民は支持するだろうか。この問いに「もちろん」とジャーマニーは断言する。

 「この困難な時期に、市民は独裁政権を倒すためならどんな戦いも支持してくれるはずです。僕たちが通りで平和的な運動を始めた頃、市民は安全な宿泊場所を提供してくれ、治安部隊から僕たちを守ってくれた。自衛のための戦いに移った時、市民は道具を作るために力を貸してくれた。少数民族武装勢力に軍事訓練を受けに行く若者に、市民は現金を提供してくれたのです」

 今、「ジャーマニー」が率いるグループのメンバーは20人。国軍に攻撃された時には「自衛のために」武器を使う準備ができている。

「シリアとは異なる」

 バゴー虐殺の4日後、ミシェル・バチェレ国連人権高等弁務官は声明を発表した。ミャンマー国軍による弾圧は「シリアで起きている内戦のように全面的紛争に発展するおそれがある」と警告し、人道犯罪を阻止するために「部分的な制裁」や「非難声明」に止まらず、影響力のある国々が一致して圧力を掛けるよう求めた。

 これに対し、国軍に対抗し民主派や少数民族武装勢力が設立した挙国一致政府(NUG)のイーモン防衛大臣はオンライン記者会見で「ミャンマーの問題はシリアと異なる。これは独裁政権と民主主義との戦いなのだ」とし、次のように述べた。

 「Z世代を含むわれわれ市民は、国軍との最後の戦いに進む準備をしている。あらゆる方法を使い、独裁政権を根絶する決意だ。これは外国からの支援に頼らない戦いなのだ。市民に選ばれた連邦議会代表委員会(CRPH)、挙国一致政府(NUG)、あらゆる世代の市民が共に働き、この国の問題を自分たちで解決する」。独裁に直面したことで、世代や民族の違いを乗り超えた真の団結が実現していると、イーモン大臣は強調した。

 挙国一致政府(NUG)は5月5日、市民を守るためとする「国民防衛隊」の創設を発表した。次の段階は少数民族武装勢力が参加する「連邦軍」の創設である。若者たちが切望しているのはこの連邦軍だが、国軍の武力は遥かに大きく、本格的な内戦に突入してしまう危険性も拭えない。

 「僕たちは合図を待っている。時が来れば戦う」。ジャーマニーらZ世代に迷いはない。「国軍は僕たちの未来を破壊した。失うものはない」

取材協力 F.O.M

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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