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関東地震後の災禍と世界恐慌の中、太平洋戦争に突入

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:U.S. Naval History and Heritage Command/ロイター/アフロ)

関東地震前後の世界情勢

 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制の中、1920年に国際連盟が発足し、世界は戦争のない平和な社会を目指しました。日本も常任理事国になり、明治維新から半世紀で列強の一角を占めるようになりました。そんな中、日本の拡大政策を警戒するアメリカが、米英仏日の4か国協定を提案し1921年末に協定に調印します。これにより、日本の対外政策を支えていた日英同盟が破棄されました。1922年2月にはワシントン海軍軍縮条約が署名され、英米:日:仏伊の艦艇保有比率が、5:3:1.67となりました。日本にとっては有利な条件でしたが、国内では批判を招きました。この年には、ソヴィエト連邦が成立し、周辺国が社会主義に染まっていきます。敗戦国のドイツは植民地を失いヴァイマル共和国として再生しましたが、多額の賠償金で苦しむ中、ルール工業地帯をフランスとベルギーに占領され、ハイパーインフレに陥りました。また、中国では、中国国民党と中国共産党が歩み寄りを始めました。まさにそんなときに日本で関東地震が起きました。

大正デモクラシーを関東地震が痛撃

 関東地震が起きた1923年は、藩閥主義から政党政治に移行し、第一次世界大戦による好況もあって、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、民衆運動が活発になったときでした。西洋式の衣食住が広がり、芸術・大衆文化、新聞・ラジオ、路面電車や乗合バス、家庭電化製品など、都市文化が形成され、大正デモクラシーといわれています。

 関東地震が起きた9月1日は前夜の台風で風が強く、炊事時の正午直前に起きたため、住家が密集した東京や横浜で大規模な火災が起き、死者の9割は火災で死亡しました。残りの1割は強い揺れによる家屋倒壊が原因です。1割とはいえ、兵庫県南部地震の倍に相当します。経済被害は、日銀の推計では約45 億円とされています。当時の日本の名目GNPの1/3、一般会計歳出額の3倍強に相当します。緊急勅令によるモラトリアムをして、震災手形を発行し、損失を政府が補償する体制を整えました。大戦後の好景気の後で、政府にも余裕があったことが幸いしたと思います。

土地利用が左右した被害

 関東地震の死者等約10万5千人のうち約7万人は東京、約3万人は神奈川で発生しました。東京の約7万人のうち約6万人は隅田川の東側で亡くなりました。地盤が軟弱な下町に木造家屋が密集しており、強い揺れで倒壊した家屋から出火し、延焼したことが原因です。その火が隅田川の西側にも類焼しました。地震規模が大正関東地震より大きかった1703年元禄関東地震での江戸での死者は300人強です。元禄時代には、隅田川の東には町が余り拡大していませんでした。甚大な被害の背景には、東京の土地利用の問題がありそうです。

 また、東京での被害が注目されがちですが、震源に近い神奈川県の被害の方が遥かに甚大でした。地震後には、伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せ、丹沢などでは土砂災害が甚大でした。当時は、これらの地域には住家は多くありませんでしたが、今は丘陵地や海岸近くに町が拡大しています。

衛生行政のプロ・後藤新平が旗を振った帝都復興

 震災後には、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平を中心に帝都復興計画が立案されました。後藤は、もともと須賀川医学校で医学を学んだ医者です。現在の名古屋大学医学部附属病院の愛知医学校で院長にもなり、ドイツ人のローレッツから公衆衛生を学び、内務省衛生局長も務めました。ドイツ留学時代にはコッホの下で細菌学を学んでおり、公衆衛生行政や感染症対策の第一人者でした。後藤は、台湾の民政局長や南満州鉄道の初代総裁を務めた後、内務大臣や外務大臣などを経て1920年に東京市長になり、関東地震が起きる5か月前に市長を辞しています。後藤は、大風呂敷と言われながらも、台湾と満州での植民地経営の経験を活かし、現在の東京の骨格を作り上げました。

 関東地震では、流言飛語によって朝鮮人などの外国人殺傷事件が起きました。震災後、これを反省して1925年にラジオ放送が始まりましたが、後藤は、東京放送局初代総裁としてラジオ仮放送の初日に挨拶を放送しています。

関東地震を契機に世界で初めて耐震規定が導入された

 後藤と共に震災復興を担ったのは佐野利器です。佐野は、帝都復興院理事・建築局長や東京市建築局長に就き、鉄筋コンクリート造の復興小学校建築を進めました。佐野は東京帝国大学で建築を学び、1906年サンフランシスコ地震の被害調査を通して、鉄筋コンクリート構造の耐震性と耐火性の高さを実感していました。

 佐野は1917年に家屋耐震構造論を著し、震度法と呼ぶ現在でも使われる耐震設計の考え方を提案しました。震災後、建築雑誌に「耐震構造上の諸説」と題し「建築技術は地震現象の説明学ではない。現象理法が明でも不明でも、之に対抗するの実技である。建築界は百年、河の清きを待つの余裕を有しない。」と述べています。今でも通じるメッセージです。

 関東地震での甚大な被害を受けて、1920年に制定された市街地建築物法が1924年に改正され、世界で初めて耐震規定が導入されました。そこには、佐野の震度法が採用されました。ちなみに、市街地建築物法は現在の建築基準法の前身にあたるもので、大都市のみに適用されました。

続発する災禍の中、世情が悪化

 関東地震後、多くの災禍が続きました。治安維持法や普通選挙法が制定された直後の1925年5月23日に兵庫で北但馬地震が起きます。翌1926年5月には、北海道で十勝岳が大噴火し、融雪による火山泥流が起きました。さらに、1927年3月7日には京都で北丹後地震が起き、約3千人が亡くなりました。この直後に、震災手形が不良債権化して、昭和の金融恐慌が起きます。ちなみに、ニューヨークの株式市場が大暴落したのは2年後の1929年で、1930年には我が国でも昭和恐慌が起きました。そして、1930年11月26日に北伊豆地震が、満州事変の直後の1931年9月21日に西埼玉地震が起きます。その後、1932年に五・一五事件で犬養毅首相が殺害されるなど、国内外で世情が悪化してきます。

地震、大火、台風を受けた寺田寅彦の諫言

 こういった中、1933年3月3日に昭和三陸地震が起き、3千人余りの人が津波で命を落としました。地震の1週間前に、満州事変の調査をしたリットン調査団の報告書が国際連盟で可決されたため、地震直後に日本は国際連盟を脱退し、国際社会から孤立し始めます。

 さらに翌1934年3月21日に函館大火が起きて2千人余りが、9月21日に室戸台風が来襲して3千人余りが犠牲になりました。この年の11月、寺田寅彦は「経済往来」に「天災と国防」を寄稿し、「いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である」「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた」「災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである」「いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである」などと諫言しています。現代人にも耳が痛い指摘です。

ヨーロッパでファシズムが台頭し第二次世界大戦が始まる

 1929年に世界恐慌が起きた後、植民地を持つ英仏蘭はブロック経済化によって凌ごうとし、ソ連は社会主義国家のため大きな影響は受けませんでした。これに対して、植民地のない独伊は窮地に陥ります。このため、民族意識を高揚したファシズムが台頭し独裁国家が誕生します。ムッソリーニやヒトラーの登場です。ドイツは、ヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を進め、1936年に始まるスペイン内戦でフランコを支援し、独伊が同盟関係を結びます。そして、ドイツとソ連がポーランドに侵攻する中、1939年に英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まりました。ドイツは1か月でフランスを降伏させるなど、当初は破竹の勢いで、1940年には、日本も加わった日独伊三国同盟が結ばれます。

二・二六事件、日中戦争から太平洋戦争へ

 日本では、1936年に二・二六事件が起きて高橋是清らが殺害され、1937年には盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まります。翌1938年には国家総動員法も制定されます。抜き差しならぬ状況の中、1938年7月3日に阪神大水害が起きて700人余りが犠牲になり、1939年5月1日には男鹿地震が、1940年1月15日には静岡大火も起きます。そして、日独伊三国同盟を結び、とうとう1941年12月7日に真珠湾を攻撃し太平洋戦争を開戦します。ヨーロッパ戦線に太平洋戦争が加わることで、全世界を巻き込んだ戦争となり、6000~8000万人にも及ぶ戦死者を出す悲劇となりました。日本も300万人を超える犠牲者を出しました。

 「もしも」は禁句ですが、二度と同じ過ちを繰り返さないために、関東地震が起きなかったら、地震の発生時間や天候が異なっていたら、東京の町が軟弱地盤に拡大していなかったら、日英同盟を破棄していなかったら、国際連盟を脱退していなかったら、などと想像してみてください。今の社会をどのように変えていく必要があるのか、考えるヒントになりそうです。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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