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鴨長明が「無常」と感じた平安末期から鎌倉初期の感染症と災害

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

お坊ちゃんだった鴨長明が無常と語った時代

 前回、奈良時代から平安時代の感染症と災害を取り上げてみましたが、今回は、鴨長明が記した方丈記を通して、平安末期から鎌倉初期について見てみたいと思います。鴨長明は1155年に賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜の次男として生まれたお坊ちゃんです。平安時代末期から鎌倉時代初期の激動期を過ごしました。長明さんは、人生の立ち回りが上手でなかったせいか、禰宜になることができず、最後は、日野に作った小さな方丈の庵に隠遁しました。このときに有名な随筆・方丈記を書き記し、1216年に亡くなりました。方丈記の書き出しの「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」は、災害が続発し、形あるものは無くなるという、「無常」の心を見事に表現しています。

動乱と疫病感染の中で育った鴨長明

 長明さんが生まれた翌年、1156年に、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱が起きました。源義朝と平清盛の力を借りた天皇方が上皇方を破り、これ以後、武士が台頭しました。さらに、1159年に、平治の乱で平清盛が源義朝を破り、力を付けた清盛は、1167年に太政大臣になります。この間、1160年には兵乱による災異改元が行われて、平治から永暦に改元されました。さらに、疱瘡や疾疫などによる災異改元により、1161年に永暦から応保へ、1163年に応保から長寛へ、1165年に長寛から永万へと2年ごとに改元されました。1175年にも、疱瘡によって承安から安元に改元されていて、いかに感染症が蔓延していたかが分かります。

平氏の興隆から衰亡を見た鴨長明

 長明さんが大人になったとき、清盛は、日宋貿易で財を成し、その権勢は「平氏にあらずんば人にあらず」とも言われました。ですが、その後、後白河法皇との確執の中、平氏への不満も高まって、1177年に鹿ケ谷の陰謀が、1179年には治承三年の政変が起き、1180年からの6年間の治承・寿永の乱で、平氏が滅亡しました。長明が成人して見た社会は、公家と武家のせめぎあいや、上皇と天皇、摂政や関白の関係など、ドロドロして見えたのだと想像されます。ですが、方丈記ではこの種のことは殆ど触れられていません。

内乱の中で繰り返し起きた災害

 この動乱の中、災害が次々と発生しました。方丈記には、都での災害の様子が克明に記されています。1177年6月3日(グレゴリオ暦、以下同様)には、安元の大火が起き、都の1/3が燃え、空一面が紅になり、公家の家も16軒が焼け、七珍万宝が灰燼になったと記されています。大極殿も焼失し、2か月後に、災異改元で、安元から治承に改元されました。

 1180年6月1日には、治承の辻風と呼ばれる竜巻が都を襲いました。方丈記には、強風で押しつぶされた家や、柱だけが残った家、垣根が飛んだ家、屋根の檜皮や葺板が木の葉のように飛ぶ様子が描かれています。この2か月後、清盛は、福原への遷都を企てました。

 ですが、翌年の1181年に、養和の飢饉と呼ばれる大飢饉が起きました。前年に、干ばつや辻風があって農作物の収穫ができなかったため、田舎の農作物に頼る京の都では、疫病も発生し、飢餓状態になりました。方丈記には、死臭や悪臭が漂い、都の中心部だけで4万2300もの遺体があったと記されています。飢饉の中、福原に遷都した都は再び京に還都しました。1182年には、飢饉、病事、兵革などによる災異改元で、養和から寿永に改元されました。

壇ノ浦の戦いの直後に起きた大地震

 源氏が壇ノ浦の戦いで勝利した3か月後に大地震が都を襲いました。1185年8月13日文治地震です。最近の断層調査などから、琵琶湖西岸断層帯の南部が活動した可能性が指摘されています。方丈記には、地震のときの様子が、「おびただしき大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋み、海はかたぶきて、陸地をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖割れて、谷にまろび入る。」「都の邊には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。」「地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。」と記されています。土砂崩れ、河川閉塞、琵琶湖の津波、液状化、家屋倒壊など、様々な現象が、見事に表現されています。

 さらに、「かくおびただしくふる事は、暫しにて、止みにしかども、その餘波しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。」と、余震の発生状況も克明に記されています。

 そして、この地震の1か月後、元暦から文治に改元されました。

23回もの改元が行われた鴨長明が生きた時代

 鴨長明が生きた61年の間に、改元が23度も行われました。その内、天皇の即位による代始改元が8回、「辛酉」の年と「甲子」の年に改元する革命・革令改元が2回、災異改元が13回ありました。61年間の間に天皇が8人も代わったことも驚きですが、災異改元が13回もあり、災異には、重複を含めて、地震が2回、水災が1回、火災が2回、兵革が3回、疾疫が7回、飢饉が1回あります。疾疫の多さが際立っており、多くの人が感染症で亡くなったと考えられます。

 人生の中で、都が何度も壊れ、燃え、吹き飛ばされ、遷都まで経験し、多くの人が命を落としていくのを見て、長明さんは、永続しない物事のはかなさを感じ、「無常」を訴えたくなったように感じます。これは、自然への諦めというよりは、自然と共に歩もうとする思いだと考えたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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