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度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代・平安時代の文化と制度

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:ロイター/アフロ)

災禍と歴史

 新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンス、コロンブスのアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震とポルトガルの衰退、アイスランド・ラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結とスペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代・平安時代の感染症と自然災害について考えてみます。

天平時代の天然痘・地震と天平文化

 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。

 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺や国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺と法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。

 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。

貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化

 859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房の摂関政治が始まった時代でもあります。

 861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。

 翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。

 元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。

11世紀末の疫病・災害・改元と武家社会の到来

 10~11世紀、清少納言や紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震と南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。

 古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症と地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。

 嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱や保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛や源頼朝の時代へとつながっていきました。

 災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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