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阪神・淡路大震災から四半世紀、25年前と今の写真を比べる

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
著者撮影

25年前を思い出す

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から25年を迎えます。当時を思い出すため、タンスから25年前の手帳を探し出し、ページをめくってみました。当日、夕刻に大阪に入り、翌日、翌々日と西宮から灘を歩き、約10日後に三宮、約20日後にポートアイランドを訪れていました。手帳を見ると目まぐるしい日々を送っていました。被災地を撮った写真も一通り見直してみました。そこから思い出したことを記してみたいと思います。

阪神・淡路大震災が起きる前の地震活動

 平成の初期の地震・火山活動は、1990~91年に雲仙普賢岳の噴火があったものの、大きな地震は1993年釧路沖地震や、奥尻島を津波が襲い死者・行方不明者230人を出した1994年北海道南西沖地震、北方領土を襲った1994年北海道東方沖地震など、北海道周辺で海の地震が多発していました。兵庫県南部地震の20日前の12月28日には、M7.6の三陸はるか沖地震も起き3人の方がお亡くなりになりました。一方、本州以西は比較的静穏でした。そして、1995年1月17日の朝を迎えます。

25年前のその日

 朝5時46分、名古屋郊外の自宅で就寝したとき、揺れで目を覚ましました。ですが、テレビをつけることもなく再び寝てしまいました。今なら、緊急地震速報が流れ、すぐにスマホで揺れを確認していたはずです。朝起きると、テレビには神戸の高速道路の被害が映し出されていました。

 午前中は、岡崎市で建築訴訟の現地調査があり、車で現地に赴きました。往復の車中、ラジオで聞く被災地の様相は、時間と共に酷くなりました。焦りを感じつつ研究室に戻り、活断層マップを確認しました。恥ずかしながら、その時までは、神戸直下の活断層のことはほとんど知りませんでした。

 午後に地元の新聞社から同行取材の依頼があり、夕刻、動いていた近鉄で大阪市・難波に向かいました。駅周辺の雑踏の中、タクシーで新聞社の大阪支社に向かいました。支社では通信局の音声が流れる中、情報収集をしました。その後、大渋滞の中、何時間もかけて尼崎のホテルにたどり着き、サイレンが鳴りひびく中、夜を明かし翌日を迎えました。

翌日の西宮~東灘

 渋滞する国道2号線を避けて、山側から西宮に入りました。斜面を降りる間は酷い被害だと感じませんでしたが、阪急を越えた辺りから甚大な被害になりました。不謹慎ですが、角地に立つ古い木造2階建て店舗が捩れながら倒壊している様子を見て、教科書通りだと感じました。角地の商店は、道路側の1階の壁が少ないので、1階部分が捩れながら大きく変形して壊れます。その後、芦屋、東灘、灘を回りました。

 芦屋市と神戸市の境で、高速道路が横倒しになっていました。市境で工区が分かれたためか、橋桁の構造が変わっていました。震度7の震災の帯となった東灘区や灘区では、見渡す限り家屋が倒壊していました。被害の大きな木造家屋は、当時の我が家とそっくりの古い木造家屋でした。小さな子供を持ち、耐震工学の教鞭をとる人間として、公私ともに衝撃は大きく、1ヶ月ほど、夜はうなされました。このときに、体調を落とし、禁煙に成功したのが唯一の救いです。

 それまで、新築の大規模建物ばかりを研究対象にしていたため、建物の耐震安全性を過信していました。また、地震の揺れもガタガタと揺れるものと考えていて、直下地震による強烈なパルス状の揺れに驚くなど、反省することばかりでした。

 この震災をきっかけに、現行の耐震基準を満足しない既存不適格建物の耐震改修を促進するため、建築物の耐震改修の促進に関する法律が制定され、耐震化が進められました。古い木造家屋の耐震改修の促進のために、全国の自治体で、耐震診断や耐震改修への補助が行われるようになりました。その後、徐々に耐震化は進んでいますが、まだ耐震性が不足する家屋は多く残っており、道半ばの状況にあります。

25年前と今を比較する

 25年ぶりに、西宮市の夙川沿いを歩いてみました。昔の写真を頼りに撮影場所を特定し、全く同じ場所・アングルで写真を撮影しました。2つの写真を重ねてみると、殆どの建物が建て替わっていましたが、その中に今も使われている建物を見つけることができました。いずれも、壁の多い建物でした。地震に強い家さえ作れば、命に加え生活や生業も守れることを実感しました。

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 また、高速道路が横倒しになった深江にも出向きました。25年前にもあった歩道橋から写真を撮り、2つを重ねてみました。再建された高速道路の橋脚の立派さを実感するとともに、高速道路脇には、同じマンションが建っていました。当時、なぜ、公的な高速道路は倒れ、民間建物が壊れなかったのかが話題になりましたが、私は、高速道路の橋脚はとても単純な構造で計算通りの耐力で余力がないこと、それに対して、建築物は、計算に考慮していない部材が沢山付加されているために耐力に余力があると考えていました。科学技術を信じていたずらに無駄を削ることの戒めと考えています。

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三宮とポートアイランドの周辺

 震災から約10日後に訪れた三宮では、瀟洒なビルの中間階が崩落していました。いずれも、古い耐震基準で作られた10階建くらいの建物でした。古い耐震基準では、建物は固いので建物全体が一体で動くと思って設計していたのですが、新しい耐震基準では、建物は変形するので上階の方が振られると思って設計していました。この差によって、中間階で耐力が不足して、このような被害になったようです。きちんとした設計と施工がされていたが故に、耐震基準の課題通りに被害を受けていました。

 また、三宮駅の北側の繁華街は、ペンシル状のビルが多く被害を受け、多くの看板が落下していました。ここでも、25年前の写真と今の写真を重ねてみました。ペンシルビルが立ち並ぶ風情は変わらないのですが、ほとんどが建て替わっていて25年の年月を感じました。

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 約20日後に訪れたポートアイランドでは、地盤の液状化被害が顕著でした。液状化すると地盤の横揺れは小さくなります。そのため建物の被害は余りありませんでした。ただし、液状化によって地盤は沈下します。一方、ビルは杭基礎で支えられているので沈下しません。そのため、どのビルも地盤と建物との間に大きな段差ができていたのが不思議でした。中には建物の基礎と地盤の間に隙間ができているようなビルもありました。

 一方、岸壁は大きく動いて地盤が側方に動いて沈下していました。コンテナふ頭のガントリークレーンも大きな被害を受けていました。この震災により、世界有数の港だった神戸港の地位が一気に低下することになりました。また、地盤の中に埋設されたガスや水道の被害が多く見受けられました。

 皆様も一度、昔の写真を持ちながら街歩きをしてみてはどうでしょう。思わぬ発見があると思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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