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東南海地震から75年 当時と今を比較し、これからの南海トラフ地震を考えてみる

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:アフロ)

東南海地震の概要

 75年前の1944年12月7日午後1時36分ごろに、遠州灘を震源とする東南海地震が発生しました。南海トラフ沿いの震源域の東側の一部が破壊した地震で、気象庁マグニチュードはM7.9と、それまでの南海トラフ地震と比べやや小ぶりの地震でした。1854年安政東海地震から90年の発生で、それまでの地震発生間隔と比べて、早めでした。震源域が駿河トラフに及ばなかったため、その後の東海地震説につながりました。

 戦時下でもあり、被害の詳細は十分には明らかになっていませんが、愛知県、三重県、静岡県西部を中心に、死者・行方不明1,183人の死者を出したと言われます。名古屋の沖積低地に集中していた軍需工場が大きな被害を受け、飛行機生産の主力を担っていた三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場や中島飛行機半田製作所山方工場の被害により、戦争継続能力を削ぐことにもなりました。また、三重県南部では津波による被害が顕著で、静岡県袋井市の太田川流域では多くの家屋が倒壊しました。

戦時下の地震

 東南海地震は、アメリカ軍による本土空襲が始まった時期に発生しました。防火訓練が盛んに行われていたからか、名古屋市内での焼失件数は2件でした。死者は121人です。同じM7.9だった1923年関東地震の火災件数30万件、東京市での死者7万人弱とは随分異なります。戦時下だったため、関東地震のときのようなアメリカなどの諸外国からの援助はありませんでした。働き手の男性は出征しており、金属供出などで物資も不足していたため、損壊家屋の修復は十分に行えませんでした。このこともあり、37日後に発生したM6.8の三河地震では、多くの家屋が倒壊し、東南海地震よりも多い1,961人の死者を出しました。

 これらの地震被害は、戦時下の情報統制もあり一般人には十分に知らされず、「隠された地震」とも言われます。地震翌日の中部日本新聞の朝刊では、3面の片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」と小さな記事があるだけでした。一方、欧米では、ニューヨーク・タイムズが1面に「JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE」と報じています。当時は、通信手段も限られていたため、被害把握にも時間がかかりました。

東南海地震前後の日本の様子

 東南海地震の3年前、1941年12月8日に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。当初は進撃を続けましたが、1942年6月のミッドウェー海戦に敗れ、1943年ガダルカナル島撤退と戦況が悪化する中、1943年に鳥取地震が発生し1,083人の死者が出ました。そして、1944年になって南方の島々が陥落し、11月24日に東京空襲が始まりました。その直後の12月7日に東南海地震が起きます。

 翌週の12月13日には、名古屋への初の本格的空襲があり、航空機エンジンを製造していた三菱重工業の大幸工場が空襲を受けます。さらに1945年1月13日未明に、誘発地震とも言えるM6.8の三河地震が発生しました。その後、10万人もの死者が出た3月10日東京大空襲、名古屋城が炎上した5月14日名古屋空襲、6月21日米軍沖縄占拠、7月26日ポツダム宣言、8月6日広島原爆投下、8月7日豊川海軍工廠空襲、8月9日長崎原爆投下などと続き、8月15日に敗戦を迎えます。直後の9月17日には、昭和の三大台風の一つ枕崎台風が来襲し、原爆の被災地・広島が被災しました。

 そして、翌1946年12月21日に南海地震が発生、さらに、1947年9月15日にカスリーン台風が来襲し、利根川や荒川などが決壊し死者1,100人を出します。そして、1948年6月28日夕刻に福井地震が発生し、3,769人の死者が出ます。このように、終戦前後の5年間に、死者千人を超える地震が5つもありました。

一つ前の地震から75年後の地震発生状況

 安政東海地震から75年後の1929年は、世界恐慌の引き金となったブラックサーズデイがあった年です。自然災害としては、北海道駒ケ岳がマグマ噴火しています。この前後は、1923年関東地震以降、1925年北但馬地震、1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1933年昭和三陸地震と被害地震が続発していました。この間に、大正デモクラシーの時代は、1925年治安維持法、1927年金融恐慌、1931年満州事変、1933年国連脱退と、暗い時代へと移り変わっていきます。そして1944年東南海地震へと向かいます。

 私たちの時代も、2011年東北地方太平洋沖地震以降、同年長野県北部の地震、静岡県東部の地震、福島県浜通りの地震、2014年長野県北部の地震、2016年熊本地震、鳥取県中部の地震、2018年島根県西部の地震、大阪府北部の地震、北海道胆振東部地震、2019年山形県沖地震と被害地震が続いています。

 平成の30年間には、昭和後半の30年間にはなかった震度7の地震が6つ、死者200人を超す地震が4つもあり、西日本内陸直下の地震も多発しています。次の南海トラフ地震が近づいているように感じます

75年間の社会変化

 75年前と今とではずいぶん生活スタイルが変わりました。1945年の我が国の人口は約7200万人で今の6割弱です。当時の居住地は、おおむね、台地の上か、丘陵地の麓、あるいは、自然堤防の上で、比較的地盤がしっかりした場所でした。ですから、揺れや液状化危険度は高くはありません。また、家屋は平屋が多かったので家屋内の揺れは、地盤の揺れと同じ程度でした。家屋の中には家具もありませんでしたから、家具転倒の危険度は少なかったと思います。都市部を除けば、家屋が密集することもなく、職住近接、かまどで煮炊きをし、井戸水を使い、便所も汲み取りでした。テレビも冷蔵庫も洗濯機もありません。3世代同居が多く、地域のつながりもしっかりしていました。

 一方、現代は、科学技術が進化し、建物の耐震化が進み、電気、ガス、通信、高速交通のおかげで大変便利な社会になりました。ですが、便利さと裏腹に、都市に人口が集中し、地盤が軟弱な低地にまちが広がり、建物が高層化・密集し、家屋内には家具が溢れ、危険度が増しています。独身世帯が多く、高齢化、核家族化で地域コミュニティの力も弱くなっています。行政への依存心も強くなりました。75年前に比べ、安全になったと言えるでしょうか。

科学技術の進展

 東南海地震の発生した当時には、プレートテクトニクス理論は生まれていません。また、地震観測点もわずかで、体感での震度観測も各県に1か所くらいでしか行われていませんでした。これに対し、今では、体積ひずみ計やGPSを用いた地殻変動観測、様々な地震観測などが行われています。これにより、震源域で何が起きているのかが分かるようになりました。地震学の進展で、地震発生のメカニズムも明らかになり、稠密な地震観測と高速の計算機・通信技術を利用して、揺れが到達する前に緊急地震速報を発することもできます。そして、南海トラフ地震の発生の可能性が高まったと評価されたときには、南海トラフ地震臨時情報が発表されるようになりました。

南海トラフ地震臨時情報

 南海トラフ沿いの震源域の半分で地震がおきた場合には、気象庁は南海トラフ地震臨時情報(巨大地震警戒)を発表します。自治体は、あらかじめ津波避難が困難な地域を事前避難対象地域として指定しておき、この情報が出たら、対象住民に1週間の避難を呼びかけます。現在、対象自治体は、事前避難対象地域の指定のための検討を進めているところです。とはいっても、まだ、臨時情報や、発表時の対応のあり方について、社会に十分に周知されているわけではありません。

 そこで、先月末に、内閣府防災担当から、「南海トラフ地震の多様な発生形態に備えた防災対応動画(ドラマ版)」が公表されました。

静岡県に住む4人家族の物語

 この動画は、南海トラフの西側で南海地震が発生した後の静岡県に住む4人家族の1週間の物語です。あらすじは次の通りです。

 四国沖で南海地震が発生、緊急地震速報が鳴り、朝食中の家族は机の下にもぐります。そして、大津波警報が発表され、家族は着の身着のまま近くの津波避難ビルの屋上に避難します。その後、臨時情報(巨大地震警戒)が発表され、家族は、屋上で寒い夜をこすことになります。翌日、大津波警報の解除と共に、家族は高台にある公民館の避難所に移動します。父親は避難所から会社に通い、子供の学校はお休み、家族は食料を調達しながら避難所で1週間を過ごします。そして、1週間を過ぎようとした夜、緊急地震速報が鳴ります。東海地震が起きたようです。

 ぜひこのドラマを見て、そのときのことをイメージし、それぞれの家庭の対策について考えてみてください。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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