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東日本大震災から8年 あの日、東京・青山の高層ビルで感じた長周期の揺れを思い出す

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
246号線の歩道(著者撮影)

2011年3月11日

 東日本大震災の当日、私は東京・青山にある23階建ての高層ビルの15階で、建築技術者向けのセミナー「地震による地盤と建物の揺れをイメージして耐震安全性を視(み)える化しよう! 」の講師をしていました。朝10時から夕刻17時までの長丁場のセミナーです。

 参加者は、建設会社、設計事務所、住宅メーカーなどの建築技術者が中心で、40~50名が参加していました。午前中に、「歴史と地理を通して都市の耐震安全性を診る」と「地震と地震動を見て学ぶ」の講義をし、昼休みを挟んで、「建物の耐震性と振動応答を見て学ぶ」の講義をしていました。

 大地震時の大都市の脆さや、巨大地震による長周期地震動、超高層建物の揺れの特徴について話し終えたところでした。プリンを揺すって地盤の揺れやすい周期を実感したり、竹ひごと消しゴムを使った実験道具で建物の揺れ方を体感しながら、長周期地震動に対する超高層建物の共振問題の大切さを話していたときでした。

14時46分

 最前列の受講者から「揺れてる」と指摘されました。私は立って話していたので揺れには気づきませんでした。最初はとても小さな揺れでしたが、揺れが徐々に大きくなりました。まさに、減衰の小さい高層建物特有の揺れ方です。余り大きな地震では無いだろうと思って揺れの解説を続けながら、「これから徐々に揺れが大きくなります」とか、「揺れはすぐに収まらずずっと続きます」とか解説をしてしまいました。

 しかし、揺れがどんどん大きくなるので、恐怖を感じはじめて机の下に潜りました。周期は2~3秒でした。ユサユサという揺れではなく、ゴーゴーという感じの揺れでした。建物もミシミシと音を立てます。ブラインドが大きく左右に揺れ、天井が外れそうになったり、衝立が倒れたり、ホワイトボードが走り始め、マズイと思いました。

 そのときの様子を動画撮影した参加者もいました。映像を確認してみると、参加者の多くは、そのまま椅子に座り、ビルの揺れと共に左右に揺れていました。机の上には、私が配布した揺れの実験道具が載っていて、ビルと共振して大きく揺れていました。残念ながら、建築技術者は一人も机の下に潜らず、地震時の退避行動が十分ではないことが分かって、少しガッカリしました。

揺れの後

 揺れが徐々に収まる中、窓から隣の高層ビルを見ると、ビルが左右に揺れるのが分かり、ビルの上ではアンテナが大きく揺れています。地上では、多くの歩行者が揺れるビルを見つめていました。そのとき、ビルは安全との館内アナウンスがありました。

 セミナーはいったん中断し、携帯電話のワンセグを使ってテレビで情報収集することにしました。固定電話、携帯電話ともに通じませんでしたから、PCでメールをチェックしました。東北大学に出張中の同僚の先生から、大変な状況と安否確認の連絡が入っていました。

 ビルは、繰り返す余震で揺れ続けます。館内放送でエレベータ停止のアナウンスもありました。窓からはお台場の方で煙が上がっているのが見えました。テレビでは、市原でのタンク火災の様子が放送されていました。当初は、津波の映像よりも都内の映像が多かったように記憶しています。

 大学の同僚とは、モバイル通信を使ったメールで情報交換することができ、家族とも安否の連絡だけはできました。その後、落ち着いてきたので、再びセミナーを始め、17時に終了しました。停電はしていなかったので、念のため携帯電話を充電しながら、ワンセグでテレビを視聴しつつセミナーを続けました。

セミナー終了後

 セミナー終了後は、参加者はそれぞれ、会社や自宅に安否確認をしました。テレビの映像を通して見る津波の様子に、皆、衝撃を受けました。交通機関が全てストップしていることが分かったので、帰宅する人と、留まる人を分けました。遠隔地から参加している人も多く、東北地方から来た参加者は家族の安否が確認できず戸惑っていました。

 新幹線、JR、地下鉄、全てがストップしているため、ビルの中に滞在することを決め、ビルに依頼しました。ビルの好意で、スペースを確保してもらい、参加者はそのまま滞在できました。そこでまず、コンビニに食料と飲み物を調達することにしました。体力のある人が階段で往復し、最低限の食料と飲物を確保しました。ただ、コンビニの商品はすぐに売り切れてしまいました。階段室の壁には、あちこち亀裂が入っていました。

 インターネットを通して色々な情報の取得を試みましたが、むしろ、名古屋にいる同僚や家族からメールで届く情報が役に立ちました。被災地の外側の方が全体の状況が把握しやすいようでした。夜になって、テレビ局や新聞の方々からの問い合わせが相次ぎました。それを通して、大変なことが起こっていることが少しずつ理解できました。ビルから下を見ると、道路は大渋滞でした。

その夜

 21時過ぎに地下鉄が動き始めたことを知り、参加者と相談し、半数が帰宅することになりました。私も、妻の実家に行くことにし、地下鉄で渋谷まで行って、国道246号線を歩きました。地下鉄は、経験をしたことのない混雑度合いでした。JRの渋谷駅の改札は閉じていて、周辺は行き場を失った人たちでごった返していました。余りの人混みで、携帯電話も通じませんでした。246号線の歩道は人で溢れ、車道にはみ出して人が歩いていました。周辺のレストランは避難している人で一杯でした。

 深夜に妻の実家にたどり着き、少し落ち着いて各所と連絡を取りました。幸い、Ustreamでテレビ放送が配信されたので、状況を把握しつつ連絡を取りました。モバイル通信環境を整えていたことが幸いしました。妻の実家は最低限の耐震補強はしてあったものの、古い木造家屋で良く揺れました。緊急地震速報が鳴ったり、揺れるたびにビクビクしました。

 朝4時ごろに再び強い揺れを感じ、長野での地震と知りました。離れた場所で誘発地震が起きたことで、1944年東南海地震の直後の三河地震のことを思い出し、不安が一杯になりました。さらに、神奈川県西部の地震での緊急地震速報の誤報がありました。これはヤバイと感じ、早く名古屋に戻らなくてはと焦りました。

名古屋に戻って

 始発から東海道新幹線が再開することが分かり、5時30分の予約開始と同時に、インターネットで予約しました。翌朝7時半にNHKラジオのインタビューを終えて、実家を出ました。東京駅は人でごった返していて、みどりの窓口は長蛇の列でした。エクスプレス予約のありがたみを感じました。

 改札はICカードの認識ができないようで、携帯電話の予約画面を見せることでフリーパスでした。地震が発生したのが金曜だったため、出張客や単身赴任者も含め、東海道新幹線が止まった影響が大きかったようです。名古屋駅も新幹線の切符売り場は長蛇の列でしたが、 名古屋駅から外に出ると、そこは普段通りの風景でした。24年前に感じた被災地・神戸と大阪の様子の違いを思いだしました。

 震源から300キロも離れている東京で経験した高層ビルの大きな揺れ、改めて長周期地震動対策の大切さが分かりました。震源から700キロ以上も離れた場所に建っていた大阪府咲洲調査ではビックリするような大きな揺れを記録しました。震災後、様々な長周期地震動対策が進んでいます。これについては稿を改めて紹介したいと思います。

 毎年、3月11日に、被災地の方々の困難を思い起こし、その教訓を活かして本気で災害に備えなければと強く感じます。目の前には、南海トラフ巨大地震や首都直下地震など、わが国の将来を左右する大震災が迫っています。これらの震災を乗り越えたいとの思いで、最近、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」を著してみました。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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