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過去最悪の大正関東地震から95年、歴史を動かした9月の地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:ロイター/アフロ)

 日本で起きた過去最悪の地震・大正関東地震から今日で95年を迎えます。この地震の後、四半世紀の間、大地震が続発すると共に、我が国は歴史上最も困難な時期となり、その後大きく時代が変わりました。しかし、時代を変えた9月の地震は大正関東地震だけではありません。過去の9月に起きた地震を振り返ってみます。

1495年と1498年の9月に続発した相模トラフ地震と南海トラフ地震

 500年前の明応時代には9月に2つの巨大地震が発生しました。1495年9月3日(グレゴリオ暦9月12日、明応4年8月15日)に起きた大地震は、大正関東地震と同様の相模トラフ地震だと疑われています。この地震では、鎌倉大仏を覆う建物が津波で壊れたとの説があります。

 さらに1498年9月11日(グレゴリオ暦9月20日、明応7年8月25日)には南海トラフ地震と考えられる明応地震が発生しました。被害分布から東海道沖での地震と考えられていますが、南海地震も連動した可能性があります。死者は約4万人に及ぶと推定されています。当時の日本の人口は現在の十分の一程度ですから、想定されている最大クラスの南海トラフ地震の予想死者数32万3千人に匹敵する犠牲者に相当します。現在の三重県津市の安濃津の津波被害や、浜名湖の今切が切れて外洋と繋がったとの説が伝わっていますが、最近の調査で、この地震だけが原因とは特定できないとの考え方も示されているようです。

 万が一、今、関東地震と南海トラフ地震が3年の間に発生したら、日本は大変なことになります。この2つの地震が発生した明応時代は、1467年の応仁の乱や1493年の明応の政変が起きた後で、まさに戦乱の時代が始まったときです。そしてこれらに深く関わった日野富子が命を落としたのは1496年で、まさに2つの地震の間に当たります。また、応仁の乱の起こる前の1454年12月12日(ユリウス暦)には東北地方で享徳地震が発生しています。この地震は、869年貞観地震と2011年東北地方太平洋沖地震の間に起きた同タイプの巨大地震だと疑われていて、その後、関東地方で享徳の乱が始まりました。これが応仁の乱の遠因になったとも考えられているようです。東北、関東、南海トラフの巨大地震の3連発と、戦乱の時代との時代の重なりは興味深いです。

1596年9月に起きた3連発の地震で時代が変わった

 400年前、1596年9月には、西日本で3つの大地震が連続して発生しました。9月1日(文禄5年閏7月9日)に四国で起きた慶長伊予地震、9月4日(同閏7月12日)に別府周辺で起きた慶長豊後地震、9月5日(同閏7月13日)に近畿で起きた慶長伏見地震です。それに先立って、5月と8月には浅間山も噴火しています。時代は安土桃山時代、豊臣秀吉晩年の地震です。

 伊予地震は四国を横断する中央構造線断層帯の川上断層などが活動したと疑われています。豊後地震が発生した場所は、中央構造線の西側延長線上にある別府-万年山断層帯が活動したと考えられています。この断層の西には、2016年熊本地震を起こした布田川断層や日奈久断層が続いています。ここは、九州が南北に引っ張られてできた別府―島原地溝帯と呼ばれる溝状の場所で、阿蘇山や雲仙普賢岳などの火山も多数あります。豊後地震では、別府湾にあった瓜生島と久光島が沈んだとも言われています。

 伏見地震は、中央構造線から東北方向に分岐する有馬-高槻断層帯が活動したと考えられています。本年、6月18日に発生した大阪府北部の地震は、この断層帯の直ぐ近くで発生しました。伏見地震では、伏見城天守が倒壊し、それが原因で明との講和が不調に終わったと言われています。

 この年は、災いが続いたため、元号が文禄から慶長に改元されましたが、翌1597年に慶長の役が始まり、さらに1598年秀吉の死、1600年関ヶ原の戦いと続いて、1603年に家康が征夷大将軍になって江戸幕府が始まりました。時代の転機になった9月の3地震です。

1611年9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震

 会津盆地西縁断層帯で発生したと考えられている内陸直下の地震で、4000人程度の死者が出たと言われています。当時の日本の人口は現在の十分の一程度ですから、今で言えば4万人と、阪神・淡路大震災の6倍を超える被害で、内陸直下の地震としては過去最悪の地震と言えます。会津城下の被害に加え、地滑りなどの土砂災害により河道が閉塞して大きな湖ができて水没した集落も出ました。この地震の2か月後には、東北地方太平洋岸に甚大な津波被害を出した慶長三陸地震も発生しています。

1923年(大正12年)9月1日 関東地震

 相模トラフを震源として11時58分頃に発生したマグニチュード7.9の巨大地震です。1703年に発生した元禄関東地震よりは一回り小さい地震でしたが、南関東を中心に広域な被害となりました。震源域からはやや離れていましたが、地盤が軟弱な東京の沖積低地も強く揺れました。震災名は関東大震災と言います。

 死者・行方不明者は10万5千人を超え、全潰家屋は11万棟、焼失家屋は21万棟に上り、過去最大の被害となりました。経済被害は日銀の推計では物的損失が約 45 億円とされています。これは、当時の日本の名目GNP約150億円の1/3に相当します。このため、経済的にも破たんしました。

 正午前の地震で、日本海を進む台風による強い風もあり、東京や横浜で大規模な地震火災となりました。多くの住民が避難していた本所の陸軍被服廠跡では、火災旋風によって4万人弱もの人が犠牲になりました。この結果、全死者の9割が焼死によるものでした。

家屋倒壊による死者数は全死者の約1割ですが、1万1千人の死者は阪神・淡路大震災の倍です。住宅の全壊棟数は、東京市が12,000棟、東京市の1/5の人口の横浜市が16,000棟で、横浜市の被害率は東京の7倍にもなります。

 伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸には、高い津波が押し寄せ、熱海、伊東、鎌倉などで、200~300人の津波犠牲者が出ました。土砂災害も各地で発生し、全体で700~800人の死者を出しました。とくに小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波によって列車が海中に没し、その直後に津波が押し寄せ100人を超える犠牲者を出しました。

 大正デモクラシーと呼ばれた自由な時代は一気に変貌しました。この地震の後、1925年に北但馬地震、27年に北丹後地震、30年に北伊豆地震、33年に昭和三陸地震と被害地震が続発します。その間に、25年治安維持法制定、27年金融恐慌、31年満州事変、32年5・15事件、33年国際連盟脱退、36年2・26事件、37年日中戦争、41年太平洋戦争と時代が移っていき、8年間の戦争で310万人もの犠牲者を出しました。

1943年(昭和18年)9月10日 鳥取地震

 鹿野-吉岡断層が活動することによって生じたマグニチュード7.2の地震で、最大震度6が記録され、鳥取市を中心に1083人の死者を出しました。この地震が起きた1943年は、年初から戦況が悪化し始め、4月に海軍大将の山本五十六が戦死した年です。この後、1944年東南海地震、1945年三河地震、1946年南海地震、1948年福井地震と、死者1000人を超す地震が続発しました。この時期には台風も多数来襲し、1945年枕崎台風と1947年カスリーン台風では1000人を超す犠牲者を出しました。まさにその間に敗戦を迎え、わが国は歴史上最も苦難の時代となりました。

1984年(昭和59年)9月14日 長野県西部地震

 マグニチュード6.8の浅部直下で発生した地震で、推定最大震度は6、死者・行方不明者29人が発生しました。この地震では、御嶽山南側が山体崩壊して大量の土砂が流下し谷を埋めるなど、土砂災害により多くの被害が出ました。また、石の跳躍現象が認められ、重力加速度を上回る上下の揺れの存在が議論されました。

 御嶽山は、この地震の5年前の1979年10月28日に、突然、水蒸気噴火をしました。当時は、御嶽山は死火山と考えられていたこともあり、火山の分類が見直されることになりました。御嶽山は、その後、小規模な噴火を繰り返したのち、2014年9月17日に再び水蒸気爆発しました。行楽の秋の晴天の土曜日の昼前の噴火だったため、山頂付近にいた登山客を中心に59名が犠牲になりました。

2003年(平成15年)9月26日 十勝沖地震

 プレート境界で起きたマグニチュード8.0の巨大地震で、最大震度は6弱、2m55cmを超える津波が発生し、2人の死者・不明者が出ました。負傷者は849人、住宅の全壊は116棟でした。今年6月18日に起きた大阪府北部の地震も最大震度は6弱でしたが、マグニチュードは6.1、死者5人、負傷者435人 住宅の全壊12でした。同じ震度6弱でも、地震の大きさは遥かに大きく建物被害も多く出ています。これは、被災地に設置されていた地震計の密度がまばらで、震度が小さめに評価されたこと、住民が少なかったことなどが関係していると思われます。

 地震発生時、十勝沖地震の地震発生確率は30年間で60%と評価されており、心配されていた地震が発生しました。そう言う意味では、発生確率が70~80%とされている南海トラフ地震がいかに切迫しているかが分かります。

 なお、この地震では、苫小牧市にある大型の石油タンク2基で火災が発生し、その後、長周期地震動の問題がクローズアップされました。

2004年(平成16年)9月5日 紀伊半島南東沖地震

 夕刻19時7分と深夜23時57分に続発した三重県南東沖で起きた地震です。震源は南海トラフ地震の震源域の近くで、沈み込むフィリピン海プレート内の地震だと考えられています。マグニチュードは、前者が7.1、後者が7.4で、最大震度は5弱、1m程度の津波も観測されました。前年に起きた十勝沖地震と同様、各地で長周期の揺れが観測され、東京、大阪、名古屋の高層ビルも強く揺れました。この地震は、南海トラフ地震の震源域の近くで発生したため、今であれば、気象庁から「南海トラフ地震に関連する情報(臨時)」が発表され、社会が大騒ぎすることになると思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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