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関東大震災後に帝都復興を成就した後藤新平の凄さ

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

 1857年に岩手県で生まれた後藤新平は、関東大震災後の帝都復興を成し遂げ、東京の礎を作った人として有名です。調べてみると、後藤は驚くほど多くの仕事をし、その経験を活かして復興計画をまとめたようです。私は、早生まれですが後藤のちょうど100年後に生まれましたので、自分の年齢との比較が容易なため、後藤の偉大さが改めて実感できます。

 関東大震災が起きたときは既に66才、相当の老齢でした。5ヶ月前まで東京市長を務めており、震災翌日には内務大臣に就任し、帝都復興院総裁も兼務して、帝都復興計画を立案しました。

 後藤は、台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)初代総裁、貴族院議員、鉄道院初代総裁、逓信大臣、外務大臣、東京市長、少年団日本連盟(現在のボーイスカウト日本連盟)初代総長。東京放送局(後の日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長(前身は台湾協会学校)なども歴任しています。

 意外と知られていないのが、彼が医者だったことです。私の勤務する名古屋大学の前身、愛知医学校の校長や愛知病院の院長も勤めています(現在の名古屋大学の医学部と付属病院に相当します)。

愛知医学校を去るまで

 後藤は、陸奥国胆沢郡塩釜村にて誕生したのち、7才で武下節山の家塾に入塾、10才のとき留守家邦寧の奥小姓となって藩校の立生館に入りました。大変な俊英だったようです。12才のときに胆沢県庁の給仕に採用され、このときに大参事の安場保和に出会って学僕となり、安場の部下の阿川正策に師事します。14才のとき初めて上京して太政官少史荘村省三の学僕となり、いったん帰郷した後、16才のとき、阿川の薦めで福島県第一洋学校に入学、さらに17才のとき、安場の作った須賀川医学校に転じました。ここで医学を学んで、18才で五等医生となります。

 19才になり、愛知県の県令になった安場保和や初代愛知警察部長になった阿川を頼って、愛知県病院に勤めます。後藤は、武下、安場、阿川の三氏との縁を得て、医者として社会人生活を始めます。

 愛知県病院では、お雇い外国人医師アルブレヒト・フォン・ローレツに出会います。新ウィーン学派のドイツ医学を修めたローレンツから、西洋近代医学を直に学びました。ローレンツは、愛知県の衛生行政を指導しつつ、後藤を衛生行政の専門家としても育成しました。また、愛知県病院の後、大阪陸軍臨時病院や名古屋鎮台病院の傭医になっていた後藤を、再び愛知県病院に呼び戻しました。後藤は、大阪での経験やローレンツの教えを受けて、「健康警察(衛生行政)医官ヲ設ク可キノ建言」を安場県令に提出したり、「愛知県ニ於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を内務省衛生局長長与専斎に提出するなどし、衛生行政で頭角を現します。また、愛知県下の医師を組織して私立衛生会「愛衆社」も組織しました。

 その後、ローレンツが去った後、1881年に弱冠24才で、愛知県医学校長と愛知病院長に就任します。後藤は、高給の外人教師を排し、日本人教師を雇用する人事を行い、東京大学卒業者を教諭に招くことで1883年に甲種医学校の認可を受けます。1882年には、自由党の板垣退助が岐阜で凶刃に倒れたとき、電報で招請され、負傷の手当に向かいました。板垣に「閣下、御本望でしょう」と一喝してリスター氏消毒を施したそうで、そのとき、板垣は後藤の政治家としての才能を見抜いたそうです。ちなみに、この事件は板垣が「吾死スルトモ自由ハ死セン」との名句を残した事件です。

有能な衛生官僚としての後藤新平

 1883年に、後藤は愛知医学校を辞し、長与専斎が内務省衛生局長を務めていた内務省の御用係に採用され、官僚生活を始めます。30才代を中心に10年余りを内務省で過ごしました。ローレンに学んだ衛生行政を本格化させ、数多くの書物も著しています。1890年にはドイツに留学し、国際会議に日本代表として出席したり、医学博士を取得したりします。ドイツから帰国後の1892年には、長与専斎のあとの衛生局長に35才でなります。

 翌1893年に相馬事件に連座して入獄し、その後、衛生局長を辞します。ですが、衛生局時代の上司の計らいで、1895年に臨時陸軍検疫部事務官長に就任します。たった2ヶ月間ですが、似島検疫所での日清戦争帰還兵の検疫業務に著しい成果を残し、児玉源太郎(後の陸軍参謀総長)に認められ、再び内務省衛生局長に就きます。その時期に、日清戦争で割譲された台湾におけるアヘン政策に関し、内務大臣や台湾総督・伊藤博文に意見書を提出しており、台湾や児玉との関わりが生まれます。

台湾と満州での国作り・都市作り

 1898年に児玉が台湾総督に就くと、民政局長として招かれ、その後民政長官になります。日清戦争後に割譲された台湾経営を託されたことになります。後藤が41才のときで、40才代は台湾の経済改革とインフラ建設、アヘン政策などに勤しみます。1900年には台湾製糖を設立し、1901年にはアメリカから新渡戸稲造を招いて、台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良を進めました。この間、鉄道部長、専売局長、貴族院議員にもなり、中国南部、満州、韓国、欧州なども訪れています。また、桂首相に財政政策の意見書も提出しています。後藤は、台湾時代に植民地政策や国作りを学びつつ、後の満鉄総裁や鉄道員総裁、閣僚としての素養を身につけたように思われます。

 1906年には、南満州鉄道株式会社の初代総裁に就任し、満鉄経営や大連の都市作りなどに励みます。また、中国やロシアの要人との関係も築きつつ、ロシアとの関係改善にも取り組むなど、日本の外交の最前線を担いました。

 ちなみに、日清戦争は1894~95年、日露戦争は1904~05年、韓国併合は1910年ですから、後藤は、まさに日清戦争後の台湾経営と日露戦争後の満州経営を任せられていたことになります。この経験が、外務大臣就任や、関東大震災後の帝都復興に活きたのだと想像されます。

 1908年には、逓信大臣に就任し、鉄道院総裁も兼任します。このときに赤色の郵便ポストや国鉄の動輪マークなどを定めたようです。その後は、内務大臣、外務大臣などを歴任しており、50才代は閣僚として日本の政治をリードしました。また、台湾協会学校が前身で、台湾開拓の人材育成を担っていた拓殖大学の学長にも就任しています。

 1920年、63才になって首都・東京市の市長に選ばれます。このとき、 市長俸給全額を市に寄付しました。このお金は当時行われていなかった社会教育費に使われたとのことです。こういった行動は、少年団の育成にもつながります。1922年には、全国少年団や東京連合少年団の団長になり、ボーイスカウト日本連盟の前身の少年団日本連盟の総裁にも就きました。

 また、東京市長時代には、「八億円計画」と呼ばれる都市改造計画を策定しています。これは、土地区画整理と幹線道路、講演整備などによる都市の不燃化事業です。当時の政府予算15億の半額にも及ぶ大プロジェクトですから「大風呂敷」と言われたようですが、この計画こそが、大震災後の帝都復興計画のもとになります。

 そして、1923年4月27日に2年半務めた東京市長を辞します。まさにその半年後、関東大震災が首都を壊滅させました。

関東大震災後の後藤新平

 震災1週間前に加藤友三郎首相が急逝したため、震災当日、首相は空席でした。震災の混乱のなか、翌日に山本権兵衛が首相となり、後藤は内務大臣になります。さらに、9月29日に帝都復興院が設立され復興院総裁を兼務することになります。在任した3ヶ月間に帝都復興計画を立案しますが、その基本となったのが、東京市長時代の「八億円計画」です。帝都復興計画の具体については、稿を改めることにしますが、周辺の反対で計画は縮小したものの、現在の東京の都市骨格がこの計画に基づいて整備されました。

 後藤は、帝都復興計画を巡る政争の中で、政界での信頼を失ったようで、3ヶ月後に山本内閣が総辞職した後は、再び閣僚になることはありませんでした。

 この震災では、東京の新聞社の多くが被災し、流言飛語も多く、朝鮮の人たちへの虐待も行われました。その反省のもと、震災後ラジオ放送が始められます。1924年に東京放送局が設立され、後藤は初代総裁になります。翌1925年には、本放送が始まり、後藤は最初の挨拶の放送をしています。同じ年に、大阪放送局、名古屋放送局も公益法人として設立され、1926年には3放送局が合併して、日本放送協会になりました。

 後藤は、少年団では自治精神を説いていました。「人の御世話にならぬ樣。人の御世話をする樣に。そして酬いをもとめぬ樣。」の自治の三訣です。最初の2つは自助と共助の精神とも言えそうです。そして、1929年に亡くなる直前、少年団副理事長だった三島通陽に、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」という言葉を残したそうです。防災・減災でも大切なメッセージです。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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