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過去を学び将来に備える:江戸文化の華の元禄時代の始まりと終わりに起きた地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

江戸を焼き尽くした明暦の大火

4代将軍・徳川家綱の時代(在位1651~1680年)、1657年に明暦の大火が起きました。江戸時代最大の大火で、ロンドン大火、ローマ大火と並び世界三大大火とも言われるようです。江戸の市街地の殆どが焼失し、江戸城の天守も焼けました。その後、江戸の都市の大改造が行われ、火止まりのための広小路が作られたり、隅田川に橋が架けられたりしました。

東北から房総を襲った延宝地震

家綱の時代の末期、延宝時代に東北から房総にかけて大地震が続発しました。1677年4月13日に延宝八戸沖地震、11月4日に延宝房総沖地震がありました。さらに、翌1678年10月2日には宮城県沖で地震がありました。とくに、房総沖の地震は、福島から千葉に甚大な津波被害を及ぼしました。東日本大震災を受け、同様の地震が千葉沖で起きることが懸念されています。

これらの地震の後、5代将軍・徳川綱吉の時代(1680~1709年)になります。綱吉の時代はまさしく元禄時代(1688~1704年)に重なります。綱吉は、文政を進めたことから百花繚乱の元禄文化が花開きました。

赤穂浪士の討ち入り事件の直後、江戸を襲った元禄関東地震

元禄の末期、1702年冬に赤穂浪士の討ち入り事件がありました。その翌年1703年に、元禄関東地震が江戸を襲いました。この地震は、フィリピン海プレートと北アメリカプレートとのプレート境界地震で、地殻変動により房総半島や三浦半島で大規模な隆起がありました。隆起量の大きさから、大正関東地震より遙かに大きな地震だと考えられています。

房総半島や相模灘の沿岸を大津波が襲い、小田原宿から川崎宿にかけての被害が甚大でした。各地での犠牲者は大正関東地震より大きなものでしたが、江戸だけは大正関東地震の死者の二百分の一の300人余りでした。

江戸の被害が少なかった理由は、市街の大半が武蔵野台地に位置し強い揺れを受けなかったこと、大規模火災が発生しなかったことなどにあると思われます。大正関東地震では、軟弱な地盤に木造家屋が密集していたため、強い揺れで多くの家屋が倒壊し、地震火災が町を焼き尽くし、東京で7万人弱の犠牲者を出しました。土地利用の大切さが分かります。

ちなみに、この地震とほぼ同じ時間に、遠く、豊後でも大地震がありました。東北地方太平洋沖地震の日に起きた長野県北部地震と同様、巨大地震に伴う誘発地震とも言えそうです。また、翌1704年には羽後・陸奥で地震がありました。

1703年の3月に赤穂浪士が切腹したこともあり、元禄地震は社会不安の原因とも考えられ、翌1704年には「元禄」から「宝永」へと改元されました。

有史以来最大の南海トラフ地震に追い打ちをかけた富士山の噴火

1707年10月28日には、有史以来最大の南海トラフ地震・宝永地震が発生しました。フィリピン海プレートとユーラシアプレートとのプレート境界での巨大地震です。静岡以西の広域に強い揺れと津波が襲い、甚大な被害となりました。安政の地震や昭和の地震に比べ、地震規模が大きかったため、各地の津波高さも、これらを凌ぐ高さでした。

この地震の様子は、尾張徳川家の御畳奉行・朝日文左衛門が記した日記『鸚鵡籠中記』に克明に書き残されています。また、尾張藩士・堀貞儀が記した『朝林』によると、大坂での圧死者5千人、溺死者16千人とされています。軟弱な地盤で低地にあった大坂の被害の大きさが窺えます。大坂は、規模の小さかった昭和の南海地震では、津波被害がありませんでしたが、宝永地震、安政地震では大きな被害を受けています。当時と比べ大阪市の人口は8倍くらいになっていますので、大阪府が予測した南海トラフ巨大地震での犠牲者数13万人も、十分にあり得る数字であることが分かります。

宝永地震の49日後には、富士山が噴火しました。864年貞観噴火以来の大規模噴火で、江戸にまで灰が降りました。降灰により、富士山の東側では長期間にわたる農産物被害や土砂災害を引き起こしました。地震と噴火により、江戸以西の各地は甚大な被害を受け、幕府や各藩は財政的にも困難を極めることになります。綱吉の時代の末期でもあり、治世も乱れ、元禄文化も潰えていくことになりました。

紀州を立て直し将軍になった徳川吉宗

綱吉の死後、徳川家宣(在位1709~1712年)が第6代将軍になりました。家宣は生類憐れみの令を廃し、柳沢吉保に代えて新井白石や間部詮房を登用し改革を進めますが、わずか3年で亡くなりました。第7代将軍に就いたのは、家宣の3歳の子・徳川家継(在位1713~1716年)でした。白石と詮房が支えますが、家継も3年で命を落とします。これを継いだのが8代将軍・徳川吉宗(在位1716~1745年)です。

吉宗は、1705年に第5代紀州藩主になりました。宝永地震により大きな被害を受けた紀州の財政再建や、藩政の改革に力を発揮します。藩主時代の新田開発や質素倹約、訴訟箱設置などは、将軍後の施策を先取りしたようなものに感じます。将軍になった吉宗は、享保の改革により幕政を立て直します。その中で、大岡忠相と共に、町火消し制度や火除地を作り、防火建築を奨励したりし、江戸の防災対策にも大きな足跡を残しました。

名古屋っ子の私にとって、付け加えておきたいのは尾張藩主・徳川宗春(1696年生~1764年没)のことです。質素倹約の吉宗に対し、豪華絢爛の宗春は、吉宗と対立し、蟄居処分になります。宗春は、芸所・尾張名古屋の礎を作ってくれました。宝永地震のとき名古屋で過ごしていた宗春にとっては、被災地復興の一環だったかもしれません。

さて、元禄時代前後のように、東北太平洋岸の地震、関東地震、南海トラフ巨大地震、富士山の噴火と4つの大規模地変が同じ時代に起きることが時々あります。1150年前の貞観の時代前後も同様のことを経験して極楽浄土の時代を迎えました。

東日本大震災を経験した今、私たちがすべきことは、過去と同じような事が起きたとしても、この豊かで安寧な社会を次世代にバトンタッチできるよう、各自が十分な備えをして災害を未然に防ぐことだと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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