『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶従業員はなぜ死んだのか』への批判を巡って。 松原拓郎弁護士との対話

黙秘と被害者の「知る権利」

━拙著ノンフィクション『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』(潮出版社)アフター 第5回 松原拓郎弁護士との対話

今年(2018年5月)に上梓した『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶従業員はなぜ死んだのか』には多くの高評をいただいている。感謝したい。被害者となった女性に報告をしたい気持ちでいっぱいだ。が、一方で弁護士や法律の研究者らから批判もSNS上で寄せられた。それは主に「黙秘権」をめぐる議論に関するもので、それらを整理・参考にしながら、刑事弁護経験が長い松原拓郎弁護士と語り合った。

松原拓郎弁護士
松原拓郎弁護士

■「黙秘権」の意味が読者に伝わったかどうか■

藤井 松原さんには、まず、『黙秘の壁』を読んだ批評をいただきたいです。

松原 批評というほどではありませんけれど。「潮」連載段階から藤井さんの質問に答えていくつか話をしました。そのときから、はたして藤井さんの意図の通りにとくに弁護士には伝わるかな、とは心配していたのですが、たとえば本文の中で、[私は黙秘権を否定したり軽んじたりする立場ではない。刑事弁護人が国家と対峙するために云々]というあたり━「私」というのは藤井さんのことですが━とありますよね。このあたりの藤井さんが言いたいことがちゃんと読者に伝わるかな、とずっと思ってきました。これを読んだ人たちがそこの部分をちゃんと受け取ってくれるのか、どうか、ということですよね。出版されて、いろいろな方の反応を見ていると、藤井さんのこれまでの仕事を評価している読者の方々には、元々、黙秘権の存在自体がおかしい、という方も多いから、また法律家側は「黙秘の壁」という言葉自体に反応してしまって、いずれにしてもやっぱりなかなか正確には伝わらないなと、難しいなと思っています。

刑事事件を考える上で、社会における現実の複雑さを考えなくちゃいけないわけです。単に黙秘権が正しいとか、間違っているとか、黙秘を行使するとかしないとかとは別次元に複雑な問題が、実態として発生してしまうわけです。『黙秘の壁』はそこをきちんと考えようよっていう問題提起で、その問題提起自体はぼくは正しいと思うし、この本はそれを伝える意味があるとは思います。

藤井 法律家からしたら、ぼくは地雷を踏んでしまったみたいで。まあ、彼らから見たら、ぼくはただのものを知らんやつなんですが。ネットの紹介記事だけを見て、こいつは黙秘権についてわかっとらん、けしからんみたいな反応が大半でした。そういえば、弁護士ということでちゃんと本名でツイートを書いてきた人の意見は参考にしようと思ったけど、弁護士と名乗ってハンドルネーム本名ではない名前で来るやつがあって、そこには「つられて買ってたまるか」とか「アホって言われたいのか」とあった。弁護士かどうかわからないけど、そういう弁護士もいるってことで。(笑) 弁護士の品位としてどうなんだと思うけど、べつにいいんです。(笑)

いま松原さんが指摘されたことは本全体を読んでもらわないと伝わらないかもしれないと思うけれど、野田隼人弁護士という日弁連の刑事法制などに取り組んでいる方からのご指摘は踏み込んだもので参考になりました。せっかくですからツイッターから引用させていただくと、黙秘権については、[黙秘権の権利たる所以は、誰もが直感的に真実を希求する場において、被疑者被告人にその義務を負わせないという、直感に反するという点にある。お気持ち表明されても、黙秘権を理解してねというほかない。気持ちは否定しないが、その気持ちが危険であるという点がまさに出発点である]、[黙秘権を否定して真実を解明しつつ冤罪を生まないデザインがあるなら理想的だが、未だいずれの国も成功していない。]と書かれています。

松原  批判するのはそれぞれだし、批判する気持ちはわかりますが、まず表現の仕方には気を付けてほしいな、とは思いました。立場の違う人と議論するためにはまず最低限の土俵作りが必要で、最初から攻撃的では議論もできませんし溝が深まるだけです。それ以外にもネット上では、仮名で藤井さんをディスっている人もいましたよね。実名を出さずにただディスってくるだけの人は、無責任で腹が立ちますよね。もし弁護士でそのような仮名のディスりがあるとすると、弁護士は肩書と知識とプライドがある分、逆に厄介だなあ、と思います。

藤井 ああ、それですか。(笑)

正確にいうと[既読だが、やはり歴史的経験に対する敬意を欠くアレな人以外の評価はない。真実を供述させる自白剤でもあれば話は別だが、残念ながらそんなものない。]です。拙著を読んでいただいたので感謝していますよ。

それに重要な指摘もあって正確を期すために全文引用すると、[真犯人が確定できない段階で、すなわち知不知を問えない段階で法的に何をどのように問うのか?少なくともその点は明確にされなけければ机上の空論である。有罪確定の先行手続きを前提としての供述過程を想定するならば、冤罪を絶対にないようにしなければならない。]、[先進国における人権保障水準を維持するならば、有罪の認定手続きと被害者のための真実探求手続きとを別に定めるべきだろう。後者における供述インセンティブをどのように設定するかは問題なのであるが。]、[事後のインセンティブとしてもっとも機能するのは減刑であると思われるが、減刑をインセンティブにすることは、公判段階での供述を妨げるし、その難を避けるため公判段階での供述を事後のそれと同程度に考慮することは、黙秘権の保障に反する。おそらく教育や説得によるほかないが機能するか?]、[また、公判段階で証拠によって認定し得なかった事実の真偽を誰がどのように判断するきかも問題になる。被告人が語った内容が残虐であったり、侮辱的だった場合は特に、何らかのインセンティブを認定する場合、このようなときでもインセンティブを与えることになるが、遺族はそれでもよいのか]と、「被害者の知る権利」をつくるたためには何らかのインセンティブが必要だという案も提示されていました。ある種の司法取引的なアイディアかもしれませんが、遺族にとってはとても飲めないでしょうね。

松原  これは重要な問題を提起されていると思います。冤罪の防止は本当にそのとおりです。単純にやったやらないという意味での冤罪防止だけではなくて、実際にやったこと以上の責任を問われるような事態の防止も同様です。そして、語るためには、安心して語れる状況、語れる前提が必要です。語った後の被告人がそれ見たことかと総攻撃されかねない、または公正な裁判を受けられないかもしれない、語った後の正当な扱いが保障されていない現状で、ただ一方的に被告人なんだから語れと言っても、それはいろいろな意味で酷だと思います。

藤井 ぼくは、現実としてこういうこと━人の命を奪っておいて、黙秘等の理由で不起訴━が起きてしまって、どう考えましょうかという問題提起だったんですが。これは紹介のされ方もあって、黙秘権そのものの議論になっちゃった。野田弁護士も、亀石倫子弁護士の反応もそうだったんだけど、「被害者の知る権利」というものがそもそも存在するのかどうかという意見が提出されたことは、なるほどと思いました。黙秘権というものと、被害者の知る権利を対立させているのは良くないという批判です。ぼくは意図的に対立させて書いているわけじゃないんですけど、現実はそう動いてしまった。亀石弁護士はそもそも弁護士の真実義務、捜査側も「被害者に真実を明らかにする必要、義務はない」と指摘してました。刑事裁判についてもそういう義務はそもそもないんだと。

この前、ジャーナリストの青木理さんと対談したんですけど、彼は拙著を高く評価してくれている一方、刑事裁判というものは罪の立証の場であって、その立証が正しいかどうか判断するところだと。さきほどの野田弁護士もそういうふうに言っておられる。松原さんどう思いますか。

■犯罪被害者の「知る権利」について■

松原 藤井さんの本は事件の「現実」を書いた本で、理論的にどうかというところとは別の視点で書いているものだと思うんです。なので、理論的におかしいっていう批判は、この本に対する批判としては、ちょっと違うんじゃないかなと思います。「対比させるのはおかしい」とかそういう切り口でこの本を批判するのは違うと思います。ただ、現実にこの問題の解決を考えるときに、じゃあどういうにあるべきかと考えるときに、やっぱり理屈は必要です。それは藤井さんの本の役割じゃなくって、この本を受けてどう考えるかっていう、次の段階の話です。そこをちゃんと分けないと議論がぐちゃぐちゃになっちゃう。

理屈の話でいうと、青木さんがおっしゃってるような、またはさきほどの刑事弁護人がおっしゃっていることと、ぼくの意見は多分同じです。刑事法廷はやっぱりあくまで刑事法廷であって、そこでやるべきことと、法廷が現実にもつ社会的な効果とはやっぱり別なんです。分けて考えなくてはならないし、そこをごっちゃにしちゃうと、社会も法廷もどっちもおかしくなっちゃう。だから、そこは理屈でちゃんと整理しなくてはいけないだろうなとは思うんです。そして刑事法廷について言うと、弁護士も真実発見に協力するという立場になっちゃうと、それはやっぱりおかしなことになるという歴史的な流れがあります。それで刑事弁護人が生まれて、また黙秘権が法律で定められてっていうことになったわけで、ここは藤井さんも同じだと思うんだけど、黙秘権は否定されるべきじゃないと思う。

藤井 全く同意です。

松原 あとは、弁護人とかまたは被告人側にも、積極的な真実を明らかにする「積極的真実義務」というふうに言いますが、それはやっぱりないだろうと思います。それをありにすると、法廷に検察官何人いるんですかっていう話になっちゃうから。

藤井 両サイドから追求されることになるね。検察官と検察官と裁判官みたいな。被害者参加人の弁護士もいる。

松原 そうそう。古代や近世の刑事裁判みたいになってしまう。そこは弁護士は、そういう意味ではちゃんと守らなくちゃいけないところはあります。それは真実義務は弁護士にはあるかという今の話で言ったら、積極的真実義務はない。そこはぼくも疑ってないです。

藤井 刑事弁護の教科書的な本にも書いてある。

松原 「弁護士に真実義務はない」と教科書的に書いてあるからその字を読むとムカつくだけで、実際に刑事裁判ってどうあるべきか、弁護士はどうあるべきかと考えて出てくる結論は、やっぱりそういうことなのかなと思います。刑事裁判の怖さとか、裁判所や検察官の怖さとか、そっちに流れがちな人間の感情に対する怖さみたいなものをずっと法廷で経験していると、やっぱりそうなんだろうなと思う。

■謝罪をするなら口をつぐむなと被害者や遺族は言います■

藤井 『黙秘の壁』で書いた事件のように、法廷の作戦として謝罪文を刑事弁護人が被告夫妻に書かせて、「これからも謝っていきます」とアピールする。じゃあどうやって謝ってくれるんだってなると、犯罪被害者というのはまず全てを話してほしいと思うわけです。謝罪の手紙まで出すんだったら、真実を包み隠さず言えという感情になるのは当然です。つまり黙秘するなということなんだけど。でも、そこはそもそも議論が違いますよという松原さんの理論になるんだけど、実際に被害にあったと人たちからすると「そこは議論別ですよ」と言われても理解できないし、刑事弁護士は嘘つきだというふうになる。任意で書いた「上申書」でも罪の告白をしていて、矯正されたものであるとか、任意性については争ってない。

松原 今の話は難しくて、刑事裁判とか弁護人とか黙秘権をどう考えるかというのとは別に、この「上申書」というのが実態はどうなのか、ですよね。弁護士側から見た上申書は、正直言うと上申書が本人がいちからきちっと書いてるかというと、まったくそんなことはないです。いってみれば捜査側の作文ですから。それは手書きで書くとすごくホントっぽくなるから、最初に下書き通りに書かせて、それを今度は供述調書の形にとる。ご遺族とか被害者から見たら、上申書は自筆で書いてるから謝ってるじゃないかと思うのは当然ですが、実際はどうだったのといったら━ぼくはこの事件のことはわからないですけど━一般的に言ったら上申書というのは信用できないんです。

藤井 捜査手法の第一段階であることはわかります。ところで、犯罪被害者等基本法ができて、被害者の知る権利というのは広い意味で認められたというふうにぼくは解釈をしているのですが━細かく定められたわけではないけれど━刑事裁判へのアクセスも大きく変わりました。しかし、黙秘権は強いから、取り調べに応じませんということになったら限られた情報や証拠しか被害者は得られなくなり、「知る権利」は後回しになりますね。

松原 刑事裁判のためという目で見たらそうなんでしょうね。なぜ(被疑者や被告人が)率直に話せないのかというのがあるとしたら、結局、率直に話した時に検察官とか裁判官に対する信頼が正直こっちには全くないからですよね。正直に話したことが、むこうが認定したい、むこうが主張したいことに引き寄せて使われてしまいます。例えば今回の手紙では、「死なせてしまった」という、殺意を認めない表現にたぶん注意して書いているんでしょうけれど、一般的には、過失致死や傷害致死の事案で、たとえば謝罪の手紙を書こうと思って、そこに自分の贖罪的な気持ちの表れで「殺してしまった」と書いた場合は、そこも一般的な感覚で言うと、読む側は「殺されて」しまったと思うわけじゃないですか。そして検察官もそのように利用してくる可能性が高い。手紙一つでも、残念ながら、そういう感じで利用されてしまう可能性が高いのです。書いた本人にはそのつもりがなくても、殺意を認めてるじゃないか、みたいな感じに取ったりとか、引用したりだとかされてしまう危険があるんです。

藤井 裁判官や検察官に、ということですか。

松原 そう。ここでこう(被告人が)書いてると、悪い方向に使われたりだとか、またはその複雑な心情というものをくみとった形で裁判を進行してくれないだとか。結論がすごくわかりやすい形で、もっともらしい外形をつけて、安易なストーリーで出ちゃったりする。そういうふうになるケースというのはたくさん見てきているし、経験もしてきているから、そういうリスクがあるときはやっぱり(被疑者・被告人は)語れなくなります。だから、法廷にどこまで期待できるのかという話で、裁判全体の質を、弁護士だけじゃなくて裁判官検察官も上げていかないと、こういう問題は結局解決しないと思います。

■裁判員裁判になったら印象が違ってくる■

藤井 それは大いに賛成だけど、質を上げるという言い方もそれぞれの立場で意味がちがってきてしまうのだろうけど。例えば、今回のケースで、傷害致死で起訴されたら、上申書とか供述調書も弁護士から裁判員裁判になりますから、法廷や公判前整理手続きで突っ込まれまくられたでしょう。その場合は黙秘をしたかどうかはわかりませんが。ですが、殺意があっただろうって検察官は主張しまし、弁護人はこれは事故だっていう。裁判員裁判になったら、もし黙秘していたら裁判員にめちゃ印象悪いでしょう。

松原 悪いでしょうね。ところで世間一般には殺意があるとないというのは、全く違う二つにパカッと別れるみたいなイメージを持っていると思うのです。被疑者・被告人も殺意がある自分と殺意がない自分とは、全然別のものだみたいなイメージを持っている人は多いような気がするんです。でも、自分が何か行動した時にそういう最悪の結果が出ちゃった時に、その自分はそんな風に二つのどちらかに分類できるのか。もちろん明確な殺意がある人もいますが、殺意の有無がほんとにきちんと仕分けできているのか、実は本人もわかってないというケースも多いと思います。そんなところで「殺意があったのか」と本人に問い、答えさせるというのはどうなのでしょう。僕にはとても危険に思えます。

藤井 ぼくも何百という法廷を見てきたけれど、殺意とか動機というものは、あってないようなものだということはわかります。とてもグラデーション。裁判官も検察官も殺意の認定に苦労していると思う。

松原 でも、すごく曖昧なところを、殺意ありとなしに分けられたときには、法廷での結論(量刑)ではずいぶん差が出てしまう。犯罪をやってないのにやったというのが冤罪と言われているけれど、例えば責任という意味で言ったら、本当は、責任は量では表せないけれど、ここからここまでの責任だったはずなのに、ここまでの責任をとらされたってなったら、この部分では冤罪じゃないのかと思います。本人ですらこの仕分けが分かっていないかもしれない状態で本人が語ることには、やっぱりリスクがあるということは、刑事弁護人としては職務上踏まえなければならない、ということは説明しておきたいですね。

藤井 なるほど。刑事被告人とまったくコミニケーションすることを拒否したり、嘘をついてきた被疑者・被告人もみてきましたが、難しいですね。

■被害者の知りたいという思いはとうぜんだと思います■

松原 被害者の知る権利、被害者に限らず人はみんな自分に起きていることを知る権利はみんな持っているわけで、被害者だから特別持っているわけではなくて、要するに自分の人生に起きたことを知る権利は持っていると思います。被害というのは、特にそれがすごくひどい形で出ているわけだから、それを強く知りたいと思うのは当然だし、それが法的にも担保されなければいけないというのは、一般論として、ぼくもそう思ってます。

それは刑事裁判の今まで話してきたこととは別の、被害者の人生の中から出てくる権利です。だから、対立させるとか、被害者の知る権利を根拠に疑問を呈するとかじゃなくて、やっぱり藤井さんが前に言ったけれど、やっぱりいつまでも交わることができないものなのでしょうね。現実的にそうなってしまっている、永遠に続く悩みをどう考えるかみたいな、そういう話なんだろうと思うんです。そこは被害者の側からしたら、知りたいのに知ることができない、その恨みとか苦しさをぶつける対象が弁護士とか被告人になってしまうだろうから、それを受け止めるというのは、弁護士はつらいだろうけれども仕方がない。そこで言い訳できないですよね。

藤井 被害者参加制度とか被害者参加弁護人の制度ができてから、刑事弁護人の仕事は増えたんですか。

松原 増えましたね。

藤井 被害者遺族とか被害者当事者はときに、被告人以上に対してより、刑事弁護人に腹を立てるわけです。刑事弁護人は被害者の感情をもろにかぶることもある。罪を犯した者とグルになって、敵だというふうに映ってしまうわけです。そういう意味で、「敵対関係」になるのはしょうがないと思っています、現実には。今回、ツイートで市橋耕大弁護士から、[「犯罪被害者と刑事弁護人が敵どうし」などという間違った考えを広めないで欲しい。弁護士はあくまで、国家権力の発動としての捜査や刑罰の適用が適正になされるように、国家権力である警察・検察・裁判所と対峙する。被害者とは敵ではない。被害者の救済を望まない弁護士はいない]という意見をもらい、木下裕一弁護士からは[加害者と被害者が対立するとすれば、被害弁償請求などの民事訴訟であって、刑事事件ではない。刑事事件は被告人と国家の刑罰権の対立であって、被害者と対立するのではない。被害者は国家権力ではない。]というツイートも来ました。

そうしたら、たぶん犯罪被害者のご遺族の人だろうと思うけど、「いや、敵以外なにものでもない」という主旨のツイートが来ました。たしかに法律的には敵同士ではありませんし、敵対関係になるのも決して望ましいとはいえないと思います。しかし、多くのケースの場合、被害者側にとって刑事裁判で被告を防御し、罪を軽減する存在と見られています。それは現実です。そういうふうに思われていることを、市橋・木下弁護士はわかっておられるはずなのだけど、もし自覚がなくて理想論を書いておられるのであれば、被害者の思いをもっと理解されるようにするべきですね。被害者遺族の集まりなどに行くと、刑事弁護人への苦情や恨みがほんとうに多いです。

松原 被害者の思いを否定する弁護士はもちろんいないと思うんです。それと、弁護士も人の子だから悪く思われたくないし、いやいやぼくもわかってるんですよみたいなことを言いたくなる気持ちも当然あります。いろいろ批判されて、ボロクソに言われて、たとえば自分の親からもこんな事件弁護しないでしょうね?といわれたりとか、我が子に自分がどんな事件を担当してるか言えないような、そんな状態でずっと日々生活しているわけです。だから、言い訳もやはり、ついしたくなるものです。しかし、それを一切しない、徹底的に刑事弁護に徹するというのは一つのスタンスだと思います。あと、先ほどの方がおっしゃっていたみたいな「弁護士は被害者の敵じゃありません」みたいなことは、それは実際そうなんだけど、弁護士がいくら言ったって、そんなのは被害者が置かれている実態からしたらうそくさく聞こえてしまうし、言い訳っぽくなって、たぶん正確には伝わらないですよね。それに、被害者の置かれた現実の状況や心情を考えても、弁護士側からはあまり安易に発言はできない、しちゃいけない部分じゃないかなとも思います。「正論」だとしても、それを言うのは本来は刑事弁護人以外の人であるべきで、社会全体の仕組みで解決すべき問題です。

藤井 ぼくも、被害者や遺族のことをどうでもいいと思っている弁護士がいるとは思いませんよ。だけど構造上そうなってしまっているということも、刑事弁護をやっている弁護士は前提として知っておいたほういいと思います。

松原 一般的に言って現実に被害を受けている人とかの感情に対して、もうちょっと想像したほうがいいんじゃないかとは思います。

藤井 これは被害者代理人の弁護士の話だけど、参加人ある集まりで槍玉にあがっていたのは、被害者参加人の弁護士が、新聞か何かで法廷での似顔絵を描かれた。その弁護人は交通死亡事件の被害者遺族の代理人できていたんだけれど━法廷の似顔絵を描かれるぐらい結構大きい事件だった━それについて「描かれたのは初めてでラッキー」とかツイッターで書いちゃっていた。遺族や支援者たちは愕然としたそうです。検察官も裁判官も同じですけれど、法廷にどういう人が必死の思いで立っているのかという想像力の問題が欠落している。幼稚というか。弁護士は立場的に目立ってしまうんです。

松原 それは法廷中に?信じられない。そんなことがあるとすれば、本当に、あまりに幼稚ですね。

■民事は「再審」になりえるのか■

藤井 『黙秘の壁』では民事が事実上の再審になりました。その過程で不起訴記録も検察官にあけさせた。が、不起訴記録を開ける方針に法務省はずっとなっているのに、実際には何度も拒否されて、ものすごく時間がかかった。2年近くかかりました不起訴記録の開示についてどう思いますか?

松原 まず刑事弁護の立場からいっても、まず被害者がいろんなことを知りたいというのは当然の気持ちだっていうのは前提としてあります。しかし、刑事弁護の側に立つ人間として自分の中に生じる気持ちで仕事をしてしまうと、刑事弁護の自殺になってしまうと思うから、弁護士として反対すると思います。それを、被害者の知る権利を冒涜している、というのは違うと思います。被害者の知る権利と開示をどうするかという問題で、刑事弁護とまた別に考えなくてはいけない話で。

藤井 『黙秘の壁』のケースでは不起訴記録も今回、粘り強くやって開示されたわけだけれど、そこに書かれている内容が本当かどうかはわからない。ウソを書いている可能性もある。真偽性がわからない。真実をさがす行為は、不起訴記録の開示ということだけでは限界がある。民事でも証言拒否でしたから。不起訴記録が開いたから万歳という話ではない。

松原 難しいですね。仮に真実というものがあるとしても、そう真実をどうしても被害者は知りたいのに、どうしてもわかりきらない限界がある。それを100パーセント知るのは、残念ですが、実際には、たぶん無理です。

藤井 その問題と同時に、仮にもし黙秘をしなくて自供したとしても、それが本当かどうかという問題も含めて、一口に犯罪被害者の知る権利、遺族の知る権利といっても、様々な壁とか障害がある。せめて懲罰的損害賠償請求を求めるわけだけど、今回のケースは被害者遺族が勝ちましたが、「払いません」とすぐに加害者の代理人から返事が来た。そうすると何のための民事だったのかという。強制執行できる財産もないということを向こうもわかっている。現実問題として大半の加害者が賠償命令から逃げているし、無期懲役とかで刑務所に入っちゃったら取りようがない。だから、刑事で満足がいかなかったら、民事で反撃したらいいという方は多いけど━それしか方法がない━そんなにうまくいくはずがない。

松原 加害者はもちろん、その家族も、事件のことがわかると仕事を失うことが多いんですよね。加害者側も社会に居場所を失うことが多い。生活できない。被害者側が払われないことに傷つくのは当然です。ただ、払えないことを社会が批判するその前に、社会としてはやることがあるんじゃないかと思います。

藤井 支払う努力すらしていないという人も多いけれど、間に誰か人が入らないと━専門職的な人が━実際には難しいだろうなと思います。今のところ救済の手立てとして有効なものがないということですよね。仕組みがつくられていない。逃得です。

松原 そのあたりは解決はしていないですね。それでいいとはもちろん思わないし、ただこうすればいいというなこと言えないから辛くなります。

藤井 そうですね。

松原 弁護士とか法律の学者が、理論や理屈を勉強して、本来は被害者と加害者の関係はこうこうこういうふうに法律で決められていて、こうあるべきだということをいくら強く言ったところで社会との溝は広がるばかりです。そういう話は、子どもの頃からきちんと考える機会を提供されるべきだと思っています。そうならないと社会には根付かないし、自分が加害者になる場合も被害者になる場合も、いざその時までにそういうバックボーンがあってから考えるのでは、全然違うと思います。実態としては対立構造みたいなものは消えないと思うけれど、それをどういうふうに、少しでもましなものにしていくために。

藤井 被害にあってしまったほうにも早い段階で、この問題で経験を積んだ弁護士がついてちゃんとアドバイスを受けながら進めていくことが大事だと思います。

松原 そうですね。被害者側にもそのような体制がより一層充実すべきだと思います。そしてその被害者側につく弁護士も、今日議論されたような問題について、立場は違っても悩みを抱えながらそれぞれの現場に取り組んでいくのだと思います。今日話し合ったいろいろな問題はどれも簡単に解決するなんて言えない難しい問題ですが、現場にいる者同士で今日のような意見交換を地道に積み重ねて、お互いが考えていることを知ることが必要だと思います。

(協力・鈴木さやか)