手記・私の叔父と叔母はなぜ人の命を奪い、山中に遺体を埋め、罪の黙秘をしたのか聞きたかった(後編)

『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶女性従業院はなぜ死んだのか』表紙

手記・私の叔父はなぜ人の命を奪い、山中に遺体を埋め、罪の黙秘をしたのか聞きたかった(後編)

拙著ノンフィクション『『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』(潮出版社)アフター 第2回

今年5月に上梓した同拙著はさまざまな反響を呼んだが、事件を社会に伝えたことは同時にさまざまな余波を生み、被害者・加害者にかかわらず、「関係」した人々の人生は事件の影響を受けた。人の命が理不尽によって他者によって奪われた事件は、おうおうにして多くの周囲の人々を「巻き込む」ことになる。

拙著では、加害者夫妻(杉本恭教・智香子)の親族として仮名で取材に応じてくれた青年が登場する。彼は幼少期に、父親によってむりやり杉本宅に預けられた時期があり、さまざまな精神的な虐待を受け、その心的な外傷から立ち直れずにいた。そして、自分の父親と杉本夫妻をゆるすことはない。そして、加藤麻子さんという女性を死に至らしめながら、黙秘権を行使して、遺族に対していっさいの証言を拒んだことについて、彼は拙著の中で厳しく批判した。今もゆるせない思いは変わらない。大きく言えば、その二つが私の取材に応じてもらった理由なのだが、その彼が今度はより詳細な手記を寄せてくれた。杉本恭教の甥にあたる。現在は都内の大学4年生である。

彼は祖父(恭教の父親。青年の父親の父親)の三回忌の場(2018年6月16日・拙著の刊行から約一カ月半後)に、叔父の恭教・智香子夫婦と会って事件について長時間にわたって問い詰めた。その内容については、その会話記録をベースにしながら、私と青年の対話というかたちでお伝えする。

青年の手記(後編)を本人の意思で公開したいと思う。文中の「叔父」とは杉本恭教、「叔母」とは杉本智香子を指す。

(前編から続く)

■私の心は狂い始めていた■

叔父宅に来て1年半程経過した頃、私は限界まできていた。

母と会っていることが原因なのか、その頃には、叔母の私に対する扱いは、凄惨なものになっていた。

こいつに勝ったら寝かせてやる、と大学生の従兄と殴り合いをさせられたこともあった。笑え、と言われ、笑ったら、なに笑っている、と言われ殴られることもあった。もう、私の心は狂い始めていた。どんなことを言えば、どんなことをすれば、彼らは許してくれるのだろうか。もう分からなくなっていた。彼らのことを理解できなかった。父のいないところでは、彼らはもはや‘保護者’ではなくなっていた。

お母さんと暮らしたい。父にそう話したのはそんな頃だった。

理由を聞かれても、私は一切を口にしなかった。お母さんと暮らしたい、そう言い続けた。だが、父の口から出た言葉は、私の希望を粉々に打ち砕くものであった。

「高校を卒業するまで、お前にはここで生活してもらう」

私は号泣した。まるで、新神戸の駅で、父に、名古屋で生活してもらう、そう言われた時と同じ光景を、自分で眺めているようだった。

ここでの生活が、あと8年続くのか。絶望。それ以外の言葉は心にはなかった。泣きながら、どれだけ父に嘆願しても、私の想いは届かなかった。

そこからの記憶は、しばらくない。

私の記憶が再開するのは、ある冬の日朝、目覚めてからだ。

体調が悪い。起きてすぐ、自覚した。幸運なことに、その日は週明けの月曜日で、父が来ていたのだ。父の手前、私をぞんざいに扱うこともできず、叔母は、父が帰阪するまでの少しの間、私のことを手厚く看病してくれた。

「病院に連れて行け」。叔母にそう命令すると、父は私の心配をすることなく、家を後にした。

叔母は、父が帰った後、命令通り私を近所の病院に連れて行ってくれた。「何で私があんたなんかをわざわざ病院に連れて行かないといけないんや」。病院に着くまでの車中、私に対して言い続けた言葉だ。

病院で一通りの処置を受けた後、叔父・叔母の家に戻り、私は例の6畳ほどの部屋に寝かされることになった。誰かが様子を見ることなどなかった。再度、病院に連れて行ってくれることなどなかった。ただひたすら、1人で横になっていた。寒い、熱い、喉が渇いた。

延々とそんなことを考えていた。5日後の朝、起床してから私は、かつてないほどの息苦しさを経験した。立って歩くことすらできない。

苦しい、苦しい、苦しい。どうしよう、どうにかしないと

そんなことが頭の中を駆け巡った。だが、声を出すことが出来ない。

■お願いしますから病院に連れていってください■

私は、ほふく前進のように這って階段を降り、叔母たちがいるダイニングまで向かった。ダイニングには、叔母がいた。

「お願いします。(もう一度)病院に連れて行ってください。お願いします」。這いつくばりながら、声を絞り出し、ひたすら叔母に私は懇願した。

5日前に行った病院に、ようやく連れて行ってもらえた。病院に着き、医師が私の様子を一瞥するや否や言った。

「何でここまでになるまで放置していたんや、もうここでは手に負えないから今すぐ別の病院に救急搬送します」

医師の言葉を聞いてから、私の意識は混濁した。はっきりと意識を取り戻した時、私は病室のベッドに寝かされていた。ベッドの横には、何故か母がいた。今から自分が救急搬送される、ということを叔母から聞いて、夜にもかかわらず急いで奈良から車で来たそうだ。

「もう大丈夫やで」

母の言葉を聞くと、私は安心し、再び眠りについた。入院先の医師の診察によると、私は肺炎だったようだ。それも、かなり重度の。もう少し来るのが遅ければ、命の危機だったそうだ。

入院したことにより、最初は悪かった病状も、快方に向かっていった。

母が私に付き添っていたこともあるのか、叔母たちが見舞いに来ることはほとんどなかった。私の病状が大分安定してきたある日、唐突に叔母が私の病室に来た。私の方には目もくれず、母に向かって、話がある、とだけ言い、母と2人病室から出ていった。

叔母の話というのは、大まかに言うと━あの子の面倒をもう見きれない、お兄さん(私の父)にあの子の病状がここまで悪くなったことや、今まであなたと私が会っていたことを黙っていて欲しい、ということである。母は書類に目を通し、絶句したそうだ。ここまでしないと彼らは私を渡さないのか、と。背に腹は代えられない。母は私を引き取るため、泣きながらサインした。

■母に罵声を浴びせ続けた叔父と叔母■

退院の日、叔母たちは姿を現さなかった。私は母と2人で、母の実家がある奈良県奈良市の祖父母宅に、車で向かった。

祖父は、私が生まれる前に患った脳梗塞の後遺症により、喋ることも右半身を動かすことも出来なかった。それでも、車いすから私を笑顔で迎えてくれた。

祖母は、私が来たこともこれから私と一緒に生活することも、あまり歓迎してはいなかった。

私が奈良の家で生活し始めて数か月程経った頃、突然叔父や叔母がやって来たことがあった。

どの様な理由で来たのか、未だに不明だが、応対した母に2人は怒声を浴びせていた。私は、自分の部屋で、ただただ怯えていた。結局、警察を呼んだことにより、その場は何とか収まった。叔父や叔母が帰っていった後も、しばらくの間、私は恐怖のあまり過呼吸が止まらなかった。

喉が渇いたら自由に新鮮なお茶を飲むことが出来た。毎日清潔な姿で綺麗な服を着ることが出来た。トイレに行きたくなったら自由に行くことが出来た。眠たくなったら自由に寝ることが出来た。私に、出来損ない、と言う人間はいなくなった。

東海市の家よりも幾分も人間らしい生活を、奈良の家では送ることが出来た。それでも、お世辞にも、普通の生活水準、だとは言えない、生活であった。母は、一文無しで追い出された上、財産分与や慰謝料等を放棄していたからだ。父から送られてくる毎月5万円の養育費のほかに、母のパート代。それが、私たちの生活費だった。

朝昼晩、1玉10円のうどんだけ、そんな日も多かった。

たまには私に良いものを食べさせてあげたい━そう考えた母は、私に、決して高級ではないが、しゃぶしゃぶ屋に連れて行ってくれたこともあった。

その日食べたしゃぶしゃぶの味を、私は忘れることはない。

今でもそのしゃぶしゃぶ屋には、大阪に行くことがあると、母や私が大切だと思う人たちを連れて、よく訪れる。

私が中学に上がる頃には、母の負担はより大きくなっていた。

普段のパートに、私の世話、それに加え祖父の介護。前述の通り、祖父は喋ることも右半身を動かすことも出来ない。そのため、何を行うにしても人の手が必要だ。これまでは、祖母が何とかこなしていたが、その祖母が認知症になってしまったのだ。よって、母はパートを辞め、祖父母の介護に専念することになった。ほとんど誰の手も借りず、1人で、だ。パートを辞めたことにより収入源がなくなった。そのような状況を知った父は、私の意思関係なく自分が会いたいときに私に会わせること、を条件に援助の申し出をしてきた。

私たちは、その申し出を受け入れるしかなかった。そこから、父は私たちの生活に介入してくるようになった。

■叔父と叔母が人を殺して埋めたと聞かされた■

中学2年になった頃、私は学校にはほとんど行かず、フラフラと遊び歩いていた。理由は、中学の勉強についていけなくなり、学校に行くことがつまらなくなったからだ。俗に言う、不登校だ。反抗期だったこともあり、母には毎日のように楯突いていた。中学3年になった時には、学校には全く行かなくなっていた。勉強も全くできなかったので、当然行ける高校もなかった。そのため、進学することは考えていなかった。

中卒で働いて、母を助ける━当時の担任の教師に進学のことを聞かれた際、そう答えたこともあった。だが、こんな私でも入れそうな高校を、母が必死で探してきてくれた。周囲の説得や、父が学費を出す、という確約もあって、私はその高校に入学することになった。

私が入学した兵庫県内にある高校は、全寮制で、学力的には県内でも下から2番目程の高校だった。ただ1つ気がかりだったのは、母のことだった。中学2年から、祖父や祖母が施設に入所したことにより、私や母は、兵庫県尼崎市で父と一緒に生活していた。

私が寮に入ることにより母が父と二人になってしまう━そのことが心配であった。しかし母は、私が高校に合格したことを、心底喜んでくれた。私に心配させぬよう、振る舞ってくれた。

母のそんな助けもあって、私は勉強こそできなかったが、いたって普通の高校生活を送ることが出来た。

あの時までは━。高校2年になった2012年の秋。始まりは、母からの1本の電話だった。

とんでもないことになった、今から学校まで行くから詳細は会って話す━それを聞いた時、また父親関係のことかな、と私は想像していたが、遠からずともその想像は当たっていた。私の通っていた高校は、校則として通常校外に出ることを禁じていた。だが、その日は母が直接学校に連絡をしていたため、特別に校外に出ることを許可された。放課後、高校まで来た母の車に乗り込み、とんでもないこと、について尋ねた。

恭教と智香子が人を殺し、その死体を山に埋めた━。

しばらくは、母から返ってきた言葉が信じられなかった。というよりは、信じたくなかった。それと同時に、ある1人の女性、1回しか話したことはないが、画面越しで眠たそうにしているのを何度も見たことがある、彼女のことが頭に浮かんだ。

まさか、と思いつつ、頭に浮かんだことを母にぶつけてみた。

「その殺された人の名前は、加藤さん、って女の人やないか?」

私が口にした名前を聞き、母は運転中にもかかわらず、驚きの表情を私に向けてきた。

「何で知ってるんや?前から知ってるんか?」

「俺が預けられている時、俺と同じように虐められていた人や」

母の問いに、私はそう答えた。学校から20分程のところにある喫茶店に入り、事件について詳しいことを母の口から聞いた。母が高校に来る数日前の夜中、父が血相を変えて母の部屋に飛び込んで来た。

「2番目の弟から連絡が入った、恭教たちが人を殺した」。父の口からそのことを聞いても、母は驚かなかったそうだ。

「いつかあの人たちはそういう事件を起こすと思ってた」

父に対して母はそう言い放ったそうだ。2番目の弟から父に連絡が入った時点で、恭教と智香子はその時点では逮捕はされておらず彼らに対して捜査の手が及んでいる、という段階だったので、当然ながらまだ報道はされていなかった。

父は、すぐに弁護士を手配すると同時に、‘ある人物’に助けを求めた。この‘ある人物’に関して私は多少知っており、何度か交流はあったが、今ここで詳しいことを書くことは出来ない。

その‘ある人物’は父に向かって、どのように解決して欲しいか?と尋ねたそうだ。

父がどのような返答をしたのかは不明だが、この事件がどのような結末を迎えたのか、それを考えると漠然とだが予想はつく。

■俺のせいで彼女は殺されてしまったんだ■

母は、事件が公になり、私が動揺する前に知らせたかったそうだ。

事件の詳細を聞き、私は呆然とした。私が誰かに彼女のことを話しておけば、彼女の命は奪われなかったのではないか。あのまま、父の言う通り高校卒業まで、あの家で生活していたら、私が殺されたのだろうか。母の車で再び学校に戻ってからも、寮の自分の部屋でも、ずっとそんなことを考えていた。

俺のせいで彼女は殺されてしまったんだ。俺が誰かに話しておけば命を奪われることはなかったんだ。もしかしたら死んでいたのは俺かもしれない━今でも時折そう後悔することがある。そう考えることがある。そして、これからも続くであろう。

私が実家に帰省した日の夜、父から、話がある、と部屋に呼ばれた。何の話か、容易に想像できた。

「お母さんから聞いてると思うけど、恭教の件で迷惑かけて悪いな」

父は、私に向かって頭を下げた。

「本当に殺したんか?あいつらは」

「2番目の弟から聞いたけど、本当みたいや」

それを聞いた私は、予てから考えていたことを、一言一句はっきりと口にした。私が、高校生の私ができる、彼女に対しての最大限の償いを。預けられている頃から、加藤さんが理不尽に虐められていることを俺は知ってる。そのことが役に立つかは分からんけど、警察であろうと裁判の場であろうと証言したいと考えている━。

私の言葉を、父は目を閉じて聞いていた。時間にして10分程、父は目を閉じて黙っていたが、やがて、徐に目を開くと、口を開き、他言しないでほしいという意味のことを言った。私は、何も言えなかった。結局私は、何も行動することが出来なかった。

■事件が報道されるようになった■

高校3年になった春、事件のことが報道されるようになった。私の周囲も、にわかに騒がしくなった。事情を知る教師に、事件のことを聞かれることもあった。

高校3年になったこともあり、私は身の振り方を考えるようになった。劣悪な叔父と叔母に預けられ、彼らからは虐待を受けた。そこから救い出された後は学校にも行かず母に迷惑ばかりかけ、何とか高校には上がれたものの、自分を虐待していた者が次は人を殺めた。

濁流で育った魚は濁流の中で泳ぐことを当たり前に思い、そして心地よく感じる。

私は、自分が今まで生きてきた環境を当たり前に思い、そして今の自分がこうなのはその環境のせいだ、と考えていた。

正直今でも、その考えを完璧に拭い去った、と言うことは出来ない。だが、それでも濁流を抜け出し清流で泳ぐことを1度は夢見る。

私が育ってきた環境は劣悪で、それを当たり前だと考え、言い訳にすることで甘えていた。

でも私は、そこから抜け出したい。そんな状況に甘えていたくない。俺を虐待した彼らの手が届かないような場所まで、俺は行きたい。

私が受験勉強を始めたのは、それが理由だ。本腰入れて勉強を始めた時点での私の学力は、どう贔屓目に見ても中学3年程度だった。

どこが分からないのかも分からない状態だった。特に、国語と英語の偏差値は40を下回っていた。教師に、私が今現在通っている大学や合格した大学等を、志望する大学としてあげた。教師からは、鼻で笑われた。すぐに教師の間で噂になり、私はいい笑い者になった。

しかし、2か月後、私の学力は格段に向上していた。偏差値は20上がっていた。私のことを笑う者は、誰もいなくなった。

1年後、東京にある第1志望の大学には合格できなかったが、京都の大学に合格することが出来た。志望校を話した時、笑っていた連中は、手のひらを返したかのような態度になった。だが、どうしても東京の大学に進学したかった私は、次の年に再度東京の大学を受験し、合格した。予てからの希望通り、私は東京の大学に進学することを決めた。

■服役を終えた叔父と叔母がいた■

2016年6月19日。上京して2年が経ち、東京の生活にも大学にも慣れてきた頃、母から「四国のおじいちゃんが亡くなった。明日帰って来て欲しい」と連絡が来た。

四国のおじいちゃんとは、存命中は香川県東かがわ市に暮らしていた、父方の祖父のことである。1年程前から、私と父の関係が急速に悪化していたことや、過去の因縁等も含め、私は他界した祖父のことを、正直あまりよく思ってはいなかった。また、通夜や葬式となると否が応でも親戚たちと会わなければならない。それらを考えると、あまり参列する気にはなれなかったが、おそらく同じことを思っているであろう母が、行く、と言っている手前、行かない、とは言えなかった。

2016年6月20日。新神戸の駅で母と合流した私は、母が運転する車で葬儀が行われる東かがわ市へ向かった。今思えば、14年前に因縁がある新神戸駅から向かったことから、何かが始まり、ひいてはこの手記を書くことに原因となったのだろうか。

2時間後、式場に到着した私たちは、案内された親族席ではなく1番後ろの席に腰を下ろした。なるべく目立たないようにするためである。焼香の時間になり前に進むと、私にとって耐え難い光景が目に入って来た。一瞬で過去の出来事がフラッシュバックし、パニックになりかけた。

恭教と智香子が最前列の親族席に座っていたのだ。

死体遺棄罪だけによる懲役2年2か月の実刑判決を受け、出所したばかりの彼らが父たちと並んで、そこにいたのだ。

焼香を済ませると、私は一刻も早くこの場から去ることにした。彼らが参列するかもしれない、ということは事前に母から説明を受け、ある程度の心の準備はしてきたつもりだった。それでも実際に目の当たりすると、まるでフルスイングした金属バットで頭を殴られたような、衝撃を受けた。1秒でも早くここから去りたい。彼らにつかまりたくない。そう思った。

だが、私のそんな思いは無情にも届かなかった。式場の外に出て、車に乗り込もうとした直前で、私たちは彼らに囲まれた。

「久しぶりやな」

笑みを浮かべながら近づいてきた恭教は、私に向かってそう言った。蛇に睨まれた蛙のように、車のドアノブに手をかけたまま私は1歩も動けなかった。そんな状態の私を、彼が発した次の言葉が、行為が、追い討ちをかけた。

「悪かったな」

そう言うと、手を出し私に握手を求めてきた。私は差し出してきた手を握ってしまった。

私の中にある最後の糸が切れた。何かが崩れ落ちた。

私を2年間散々虐待したこと。加藤麻子さんを殺め、その遺体を山林に遺棄した罪を犯したこと。どれも、わるかったな、の6文字で済むものでは、到底ない。その上、笑みを浮かべながら握手を求めてきた。

俺を馬鹿にしてるんか?俺をなめているんか? 握手した後、私は拳を作り、強く握りしめていた。それからのことは、あまり覚えていない。いつのまにか祖母も加わり、何か私に話していたが、記憶がない。気が付くと、母の車の助手席に座っていた。膝の上に置いた拳は、強く握ったままだった。

恭教と智香子がいたこと。笑みを浮かべながら近づいて来たこと。私に悪かったなと言ったこと━全てが憎かった。腸が煮えくり返っていた。だが、なによりも、彼と握手してしまったことが自分で自分が許せなかった。憎む相手と、悪かったな、としか言えない能無しと、握手をしてしまった。普通なら殴っていただろう。殴り殺していただろう。いや、そうしたかった。

あんな奴らと、自分を苦しめた奴らなんかと、同じ土俵に立つのは絶対に駄目だから、私には、そっち側には行って欲しくない。それだけは、私と約束して欲しい━東京の家から出る前に、ある女性から言われた言葉だ。その言葉が、約束が、私が一線を越えることを、踏みとどまらせた。

でも、何もできなかった。それが、苦しかった。とても苦しかった。悔しかった。とても悔しかった。膝の上で強く握りしめた拳の上に、雫が1滴また1滴と落ちていった。

葬儀から帰った後の私は、酷く荒れていた。心も体も。恭教や智香子と会ったことから、過去の光景が、起きている時も寝ている時もフラッシュバックすることが度々あった。山手線のような各駅停車する列車にすら乗れなくなることもあった。

新幹線に乗ると理由もなく泣いてしまうこともあった。

私をこちら側に踏みとどまらせてくれた女性に、どんな時も私を支えてくれた女性に、無理難題をふっかけ、八つ当たりを、時には度を越したことをすることも多かった。

後悔、恐怖、憎悪、苦痛。その全てが私に襲い掛かっていた。それは、今でも続いている。

母からノンフィクションライターの藤井誠二氏の存在を聞いたのは、葬儀から2か月後の2016年8月20日のことだ。

「ずっと加藤さんの事件を追っている人がいる。いっぺん連絡してみたらどうや?」

私はその日のうちに、私の生い立ちなどを記載したメールを、藤井氏に送信した。

メールを送って1週間後の2016年8月27日、紀尾井町にあるニューオータニで私と母は、藤井氏と初めて対面した。私たちは、私自身の生い立ち、父や恭教・智香子のこと、祖父の葬儀でのこと、それらを話した。

藤井氏からは、加藤さんのこと、私たちが知らない事件の詳細を聞いた。時間にして2時間程、私たちは話していた。藤井氏とはそれからの付き合いになる。

■祖母、父、叔父・叔母を告発する■

2年後、2018年。濁流から1度は清流に辿り着けたはずの魚は、この2年間でまた濁流に戻ってしまった。

「(親族青年が)立派な大学に進学できたのは恭教と智香子がしっかりと育てたおかげだ」

私の知らないところで、祖母が父や親族たちに向かって言っていた言葉だ。

馬鹿も休み休み言え━。私がこれまで歩んできた人生の中で、あんな‘出来損ないどものおかげで成しえたことなど、唯の一つもない。私や彼らのどこを見れば、そんな言葉が出てくるのか。私には到底理解できないし、したくもない。

「今のお前がそうなっているのは全てお前が悪い。俺らのせいではない。俺らは関係ない」

祖父の葬儀から急速に心を病んでしまった私に、父が面と向かって言い放った言葉だ。━ふざけるな。例えそうだとしてもその言葉は、過去から現在に至るまで私たちを苦しめた者どもの1人が、言っていい言葉ではない。お前と、お前の後ろに隠れて生きていくことしか能がない、祖母や恭教と智香子どもにだけは言われたくない。

私にゆるしを請うたのは、誰だ?祖父の葬儀の後、私たちを取り囲んだ恭教や智香子どものことも、止めずに見ていたことも謝らず、真っ先にその時の私の態度を叱ったのは、誰だ?

叔父・杉本恭教と叔母・杉本智香子が、私や加藤麻子さんを、恐怖政治によって支配下に置き、私の心を殺し、加藤麻子さんの命を奪った罪を絶対に赦さない。

ここに記した真実を余すことなく公表することによって、例え世間や周りからの反響がなくとも、もしかしたら、私は今の生活ができなくなるだろう。

以前、私が、自分が受けてきたこと知っていること全てを公表する、と父に話したとき、父に、それならこちらとしても考えがある、と言われた。

私は、父がどんな人物たちと付き合いがあるかを知っている。

企業の幹部、有名人、プロ球団の首脳陣。そんな人たちとのつきあいを━父や弟たちが、幾度となく愚行を繰り返しておきながらも━断たない上に、未だ付き合いがあることを恥かしげもなく、私に自慢してくる。どういう神経をしているのか。私には信じられない。

彼らの実名を今ここで明かすことは、容易いことだが、それをしてしまうと、罪もない彼らが巻き込み被害を受けてしまうかもしれない、よって明かすことは出来ない。

今現在、恭教と智香子が東かがわ市の実家に転がり込み、何事もなかったかのように、笑いながら、至って普通の生活を送っている事実とともに。

それによって、全て失うことになろうとも、私は本望だ。

私や加藤さんが受けた行為への代償は、必ず払ってもらう。絶対に払ってもらう。死ぬまで追いかける。私の発言に、書いた言葉に、異議があるなら、私と直接対話をすればいい。私が間違っていると主張するなら、陰でせず、堂々とすればいい。私が間違っているのだから、公に出てきて、名前を出し、間違っている、と主張すればいい。どうした、私はここにいるぞ。お前たちの近くにいるぞ。

この事件はもう終わったんや。ある者が、こんなことを口にした。終わった?終わったとは何だ?どういうことだ?

終わる事件などあるわけがない。終わることのない、永遠と続くトンネルだ。

恭教と智香子が起こした事件であっても同じだ。残酷な言い方だが、遺族に終わりなどない。訪れない。悲しみも憎しみも背負わされて生きていかなければならない。あるべき未来を奪われたのだから。

私がこの手記を書く決意をしたのは、私の文字を意味ないものではなく意味あるものにしたい、私が知る限りのこの事件の真相を、一言一句余すことなく、遺族の方々や世間に伝えたい、と考えたからである。拙く長い文章しか書けない一大学生に過ぎない私の手記を、どれだけの方が読んでくれるのかは、分からない。

それでも、少しでも多くの方々が、この手記を読んでくれることを願い、そして私を救い出してくれた母や、私を踏みとどまらせてくれた女性に感謝しながら、締めくくりたいと思う。

2018年7月25日 

(終わり)

付記・当ページで発表すると数十万人の方に読みにきていただいた。心から感謝申し上げるとともに、次の報告をしなくてはならない。私(藤井誠二)は加害者親族の青年の手記を掲載したが、当初は実名による告発であった。彼の父親についても実名で書かれていた。しかし、ほどなくして青年の父親の代理人弁護士から、「父親のプライバシー権・名誉権を侵害している箇所がある」と「通知文」が送られてきた。青年と検討した結果、当ページから該当されると指摘を受けた箇所については手直し等を施すことにした。御了承願いたい。