手記・私の叔父と叔母はなぜ人の命を奪い、山中に遺体を埋め、罪を黙秘をしたのかを聞きたかった(前編)

『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶女性従業院はなぜ死んだのか』表紙

手記・私の叔父と叔母はなぜ人の命を奪い、山中に遺体を埋め、そして罪を黙秘をしたのかを聞きたかった(前編)

━拙著ノンフィクション『黙秘の壁 名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』(潮出版社)]アフター 第1回

今年5月に上梓した同拙著はさまざまな反響を呼んだが、肝心なのはまだ事件を社会に伝えたことは、同時にさまざまな余波を生んだ。被害者・加害者にかかわらず、「関係」した人々の人生は事件の影響を受けた。人の命が理不尽によって他者によって奪われた事件は、おうおうにして多くの周囲の人々を「巻き込む」ことになる。

拙著では、加害者夫妻(杉本恭教・智香子)の親族として仮名で取材に応じてくれた。青年が登場する。彼は幼少期に、父親によってむりやり杉本宅に預けられた時期があり、さまざまな精神的な虐待を受け、その心的な外傷から立ち直れずにいた。そして、自分の父親と杉本夫妻をゆるすことはない。そして、加藤麻子さんという女性を死に至らしめながら、黙秘権を行使して、遺族に対していっさいの口を拒んだことについて、彼は拙著の中で厳しく批判した。今もゆるせない思いは変わらない。大きく言えば、その二つが私の取材に応じてもらった理由なのだが、その彼が自分の思いをさらに詳細に手記にまとめ、寄せてくれた。杉本恭教の甥にあたる。現在は都内の大学3年生である。

彼は祖父(恭教の父親。青年の父親の父親)の三回忌の場(2018年6月16日・拙著の刊行から約一カ月半後)に、叔父の恭教・智香子夫婦と会って事件について長時間にわたって問い詰めた。その内容については、その会話記録をベースにしながら、私と青年の対話というかたちでお伝えする予定だ。

その前にまず、青年の手記を本人の意思で公開したいと思う。文中の「叔父」とは杉本恭教、「叔母」とは杉本智香子を指す。

■父は日常的に殴っていた■

16年前、当時、父方の祖父母は、お父さんがお母さんを殴っていたらお前が止めるんやぞ、と車の中で私にそう言った。祖父母に言われたことを忠実に守り、父が母を殴っているのを見ると、何も言わず父の目を見ながら母の前に立つようになった。その時、私は7歳になっていた。

父は事業で成功、何不自由ない、小学校一年の私にとっては、過剰すぎるとも言える豊かな生活を送っていた。他の家庭もそうなのだ。私の家と同じなのだ。当然のことなのだから、小学生の私は、教師や周囲の大人、友人たちに、このことを話したことがない。

いや、1度だけ話したことがある。

私が顔を腫らしていたことがあった。それを見た当時加入していたサッカーチームのコーチが、理由を尋ねてきた時だ。私は、父に目覚まし時計で殴られた、と正直に話した。私が悪いのだから、父が私を殴るのは当然のこと。例え目覚まし時計で殴られたとしても、悪いのは私なのだ。そう認識していたため、顔が腫れている理由を知ったコーチの顔が曇っていることを、私は不思議に思っていた。

■夕食を一人で食べることが多くなっていった■

私は、母のことが大好きであった。家庭内暴力が普通だと認識していた私だが、母が殴られているところを見るのは、嫌だった。

今でこそ、181センチ・85キロと大柄な私だが、幼少期は大変病弱であった。

クリスマスや年末年始を、ほぼ毎年病院のベッドで過ごしていたため、サンタクロースの存在を知らなかった。

母は、四六時中私に付き添ってくれていた。絵本を読んでくれる母が、大好きだった。ぬいぐるみで一緒に遊んでくれる母が、大好きだった。優しくお腹をさすりながら子守唄を歌ってくれる母が、大好きだった。私の思い出の中には、いつも母がいてくれた。だが、父より母のことが好きだということを、決して口にはしなかった。

なぜなら、父に対して失礼、と考えていたからである。

小学校2年の春休み。私は、当時愛知県東海市にあった親戚の家に明日から2泊3日で遊びに行くことを、父から提案された。この親戚というのは、父が長男の三人兄弟の末っ子の弟家族のことで、後に恐ろしい事件を引き起こした。

父の提案を、私は深く考えず、承諾した。

■いきなり叔父の家に預けられることになった■

当日、父の車で東海市に行くことになった。その道中、新神戸の駅におばあちゃんを迎えに行ってから一緒におじちゃんの家に行く、と伝えられた。。

新神戸駅の地下駐車場に駐車した車の中で父と祖母を待っている間、父から、名古屋の叔父ちゃんの家で生活してもらう、学校も転校してもらうという衝撃的な言葉を聞かされた。父にそう一方的に言われた。お母さんとはもう一緒に暮らせないということが、当時の私にはすぐにはわからなかった。

私は、しばらくの間なにも考えることが出来なかった。父が口にした言葉の意味を理解することが出来なかった。たった3つのことが分からなかった。

やがて、それらの言葉が脳に浸透していくと同時に、私は嗚咽しながら号泣した。私は、父に理由を尋ねた。絶対に嫌だ、と何度も何度も言ったが無駄だった。

父は、8歳の私が理解できる説明をしなかった。嫌だ、という私の意思を、言葉を、完全に無視した。程なくして、祖母が合流した。私は、当然祖母は反対してくれると思っていた。これだけ私が泣いているのだから、父に対して、私の代わりに何か話してくれる、と考えていた。私の、その思いも、考えも、一瞬にして裏切られた。祖母は、父と結託して、私を抑え込んだ。

彼らは、私の涙を、何とも思わなかったのである。

新神戸駅から東海市の家に向かう車中、私は泣き続けたが、彼らは、泣いていた私を叱っていたことからも、そのことがうかがえる。

東海市の叔父宅に着いた頃には、私はもう半ば諦めていた。

父から、もうここに住むことでいいな?と言われた時、私は、諦め半分、父に対する気遣い半分、で首を縦に振ってしまった。

3日後、何事もなかったかのように、父と祖母は叔父宅を後にした。

親戚といえども他人の家に、尚且つ、全く知らない土地で、私は事実上1人になった。

私の心の奥底に、父に対する恨みが、かすかに芽生えだした。

預けられて1か月、新たに増えた同居人である私を、叔父の杉本恭教や叔母である智香子、その息子2人は歓迎した。

しかし、2か月を過ぎた頃、私に対する扱いが、徐々に変貌していった。3か月目には、激変していた。4か月目、私の居場所は、どこにもなかった。

━所詮あんたは居候の身、図に乗るな。自分たちとあんたは家族じゃない、勘違いするな。何で勝手に車に乗っている?何で勝手に付いて来た?今すぐ車から降りろ。あんたが家に来たせいで、私たちの予定が全てくるった。あんたが近くにいると恥ずかしい、私たちから離れて歩け。あんたみたいなのが私たちの子供やと家族やと他の人に思われたら、恥かしいし迷惑や。あんたはお父さんの子供やから、お金をもらっているから預かっている、そうやなかったらあんたみたいな出来損ないを預かるわけがない。お前の母親は出来損ないや、だからその子供のあんたも出来損ないなんや。あの母親の子供なのだから、あんたみたいな出来損ないができて当然。あんたは、本当に出来損ないやな━

叔母が、私に対して、直接口にした言葉の数々である。

出来損ない、出来損ない、出来損ない、出来損ない、出来損ない、出来損ない━そう言われ続けた私は、自らのことを、出来損ないである、と自覚した。私は出来損ないなのだ。私が出来損ないであるにもかかわらず、叔父や叔母は私を居候させてくれているのだ。

私は出来損ないだから、叔父や叔母の言うことは絶対に聞かないといけないのだ。喉が渇いたから冷蔵庫の中にあるお茶を、飲む。夜中にトイレに行きたくなったから、トイレに行く。そんな当たり前のことのように思えることも、叔母の許可を得ない限り、絶対にしてはいけない。だって私は、出来損ないの居候、なのだから。8歳の私は、そう思い込むようにした。

■叔父と叔母から、「出来損ない」と言われ続けた■

出来損ないの私が、必ずしないといけないことは、叔父や叔母を怒らせないこと、機嫌を損なわせないこと、この2つである。

私は、出来損ないの居候なのだから、いつ家を追い出されてもおかしくないのだ。

実際、お前を養護施設に連れていくから、と叔母に脅しのように言われたことがある。

いつそんな日がきても、おかしくないのであった。

叔父や叔母を怒らせない。機嫌を損なわせない。そのために、私は、彼らに対して、ひたすらゴマをすった、ひたすら迎合した。

この家で、せめて最低限の生活を送れるように。

何とか生きていくために。

自由に水が飲めなかったため、叔母に隠れて手に入れたお茶を、大切に少しずつ飲んでいた。どれだけペットボトルが汚れよううとも、どれだけ異味異臭がしようとも、私は飲み続けた。生きるために。ただ、夏場になると、お茶が腐ってしまうことも多かった。腐ったお茶を飲むことは、やはり辛かった。

叔父や叔母の家に居候してすぐ、私は、東海市の少年野球チームに半ば強制的に、参加させられた。チームの練習や試合がある土曜日、日曜日、祝日の度に、私は、腐ったお茶を飲み物として、持って行った。

ある日の練習で、自分の飲み物が尽きてしまったチームメートが、少しだけ飲み物を分けてくれないか?そう私に言ってきた。

私は迷ったが、持っていたお茶を、チームメートに渡してしまった。チームメートが、渡されたお茶を口に入れた瞬間、吹き出した。

これ、変な味がする。腐っているで━。チームメートは、怒り気味にそう言うと、私が渡したお茶を投げ捨て、去って行った。その日から私は、腐ったお茶を持って来ている奴、とチームの中で言われるようになった。

私の中には、プライド、といった感情はとっくに失せていた。生きていく。最低限生きていく。ただ、その一心であった。

■叔父と叔母が殺した加藤麻子さんと電話で話した■

加藤麻子さん━。

その当時の私は、まだ下の名前を知らず、加藤さん、としか知らなかった。

加藤さんは、毎日の如く、叔父に電話で怒鳴られていた。

それは、昼夜を問わず行われていた。夜中の3時に怒鳴られているのを、聞いたことがある。ダイニングテーブルの上に、いつも置いてあるノートパソコンの画面には、当時叔父が店長をしていた漫画喫茶のレジ付近の映像が、リアルタイムで映し出されていた。漫画喫茶に設置された防犯カメラと、家に置いていたノートパソコンはリンクしていた。叔父と叔母は、毎日交代でその映像を見て、実際に店舗にいる店員たちに対して電話で指示を出していた。

主に、日中は叔母が、夜は叔父が、指示を出していた。私が、パソコンに映し出される映像を目にする時、彼女は決まってレジに立っていた。画面越しに見る彼女は、いつも眠たげであり、時折立ちながら寝ている時もあった。叔父や叔母は、彼女が眠たげにしているのを発見すると、店に電話をしていた。

叔母は、それまでの売り上げを聞いたり、レジの確認や店の掃除を指示するなどしていた。

叔父は、必ず彼女を怒鳴りつけていた。

当時の私は、加藤さんが眠たそうにしているからワザと指示を出したり怒ったりしているのだな、と呑気に捉えていてしまった。

ただ、その時から一つ気がかりだったのは、いつどの時刻に映像を見ても、彼女が映っていたことだった。

ある日の深夜、寝させてもらえず二階の廊下に立たせれていた私は、叔母からダイニングに呼び出された。

叔父は、ノートパソコンの前に座り、画面を見ながら電話の相手を、夜中だからだろうか、静かに罵倒していた。叔父の電話の相手が加藤さんだということは、容易に想像できた。「あんたと同じくらい駄目な奴がいる」。そう叔母は、電話をしている叔父の方を見ながら、眠気を我慢している私に向かって、そう言った。叔父は、電話を耳から離すと、私に電話を差し出した。

「話してみろ」

私は、無言で電話を受け取ると、耳にあてた。最初の言葉が出てこなかった。何て言えばいいのかわからなかった。それは、彼女加藤さんの方も同じに思えた。

「こんばんは」

私は、何とか喉から絞り出し蚊の鳴くような声で、言った。

「こんばんは」

私の小さな声に、彼女は返してくれた。

「〇〇君だよね?話はよく聞いています」

「はい」

「私も、駄目な人間だから、よく叱られます。でも、それは私が悪いからしょうがない。〇〇君も、よく私と同じように叱られている、って聞いています」

「はい。よく叱られています」

「なら、同じやね。お互い頑張ろう」

「はい。ありがとうございます」

そこまで話すと、叔父が私が手にしていた電話を奪い、再び叱りつけていた。私が、加藤麻子さんと話したのは、これが最初で最後だ。時間にして、5分程度だったと記憶している。だが、そのたかが5分の会話の内容も、画面越しに見る彼女の姿も、15年経った今でも鮮明に覚えている。

パソコンモニターの画面越しに、電話を持ちながら何度も頭を下げる姿も。

電話越しに、彼女の眠たげな声も、申し訳なさそうに話す言葉も。一つ一つが、私の脳裏に焼き付き、決して朽ちることがない。

■母が私に会いに来てきてくれるようになった■

私には、たった一つだけ、安寧の時間があった。月に一度、父が私の様子を見に、家を訪れた時だ。金曜日の夕刻に大阪から車で家を訪れ、土曜日、日曜日を、私や弟家族と一緒に過ごし、月曜日の朝に車で帰阪した。

この期間は、私にとって、もっとも安寧する期間だった。

この期間だけ、私は叔父や叔母の‘家族’になれたのだ。叔父は、私がテストでいい点を取った、野球の試合でヒットを打った、などといった私のよかったところを、父に報告する。叔母は、(青年は)すごい、(青年は)は頭がいい、(青年は)はいい子だ、そう私や父に言った。

安寧の時間は、矢の如く、終わりを告げる。終わりの後は、再開だ。父が帰った後の日常は、叔母が私に言う言葉から始まる。

「何も余計なこと言っていないやろうな?」

「何も言ってない」

言うわけがない。言える訳がない━。ほんとうは、そう私は心の中でつぶやいていた。居場所がなくとも最低限の生活は送ることができる家。寝ることはできるせんべい布団。着ることはできる汚れた衣服。そして、飲むことはできる1本の腐ったお茶。それらを守るために。叔母を怒らせないために。叔母の機嫌を損なわせないために。私はただただ耐えた。

私に転機が訪れたのは、ある土曜日だった。その日、私は野球の練習に参加していた。一塁ベースからベンチに戻る途中、三塁ベースの向こう側に、見覚えのある顔があった。

私は、緊張で心臓の鼓動が早くなるのを、感じていた。

母だ━。私が父に名古屋に連れ去られて、4か月以上が経っていた。4か月以上ぶりに会う母は、笑いながらも目に涙を浮かべていた。私は、そんな母を見ながらも、動揺した。困惑した。毎日のように母のことを、出来損ない、と聞かされていた出来損ないの私は、嬉しく思いながらもその感情を表に出すことが出来なかった。

母は、それから毎月私に会いに来るようになった。

最初の頃は、ぎこちなく接することしか出来なかった私だが、2回3回と会う回数が増えていくにつれ、母と一緒に住んでいた頃には程遠かったが、辛うじて普通の子供のような接し方ができるようになった。

その頃の母は奈良の実家に戻り、新たに始めたバイト先で虐められながらも、私と会った時の為に必死で働いていた。

それでも、いつも同じ汚れた衣服を纏っていた私を見て、母は決まって服を買いに連れて行ってくれた。食事の時は、私が好きなものを食べさせてくれた。

私が服を試着している時、食事をしている時、決まって母は笑みを浮かべていた。

母と会うようになってから、叔父や叔母の私への風向きはより一層、強くなった。━その日何をしたか。その日どんな会話をしたか。何をしていたか、私が何を話して、母が何を言ったか。何を買ってもらって、何を食べさせてもらったのか。母と別れて家に戻ると、決まって詰問された。私は、事細かく、彼らに報告した。そうしない限り、寝かせてはくれないからだ。

だが、正確に報告しても、彼らからすれば、私が新しい衣服を纏っていることが、おもしろくなかったのだろう。あるいは、私が好きなものを食べていることが、彼らの癇に障ったのだろうか。母と会った日から1週間、私は家で強くなじられるようになった。お母さんと会うのは嬉しいけど、より家で居場所がなくなるのは嫌だ。

どうすれば、叔父や叔母を怒らせないだろう。そんなことばかり考えていた私は、いつのまにか小学4年生。9歳になっていた。

居候生活が1年も経つと、9歳の子供でも、明確に自分の立ち位置を理解することが出来る。その上で、自分がどのように振る舞えばいいのかも、ある程度学んでいた。

彼らに対してのゴマの擦り方も、1年前と比べると上手くなっていた。

それでも、どれだけ上手くなっていると言っても、やはり9歳の少年がやることだ、ゴマを擦っていることがばれて、逆に叔父や叔母の機嫌を悪くさせることもあった。

■母が父を訴えた■

預けられた当初から、家の中で私に与えられた空間は、2階にある常時雨戸が締め切られ、エアコンなどない6畳ほどの部屋のみだった。私は、極力その部屋から出ないように努めた。例え、トイレに行くなどで部屋の外に出たとしても、彼らはいい顔をしなかったからだ。

家の中にいる時の私。学校にいる時の私。母と会っている時の私。その全てが、異なる顔だった。学校の友人、教師、そして母にも、誰にも家でのことは話さなかった。

時折、私が預けられている事実を知っている担任の教師が、家での様子や叔父や叔母と上手くやっているのか、などを聞いてくることがあった。

私はその全てに対して、おじちゃんやおばちゃんはよくしてくれているので大丈夫です、と笑顔で答えていた。

母に対しても、仲良くしているから大丈夫、と答えていた。もっとも、教師は騙せても、母のことは騙せなかったようだ。私のフケだらけの頭、よれよれの服。母はその姿を見て、全てを察していた。

父の友人だと名乗る男が、私を訪ねて来た。その男は、ここは楽しいか?これからもここで暮らしたいか?と私に尋ねてきた。

叔父や叔母が後ろにいる中、当然私は、楽しいからここで暮らしたい、と男に答えた。

後に知ったことだが、この男は父の友人ではなく、父の代理人弁護士であり、私がここで楽しく暮らしている、これからも暮らしていたい、私を騙してそれらの言質を取りに来たのだ。

理由は、私の様子を見た母が、私が叔父の家で虐待されているのではないか、という裁判を起こしたからである。その裁判における父側の証拠材料として、私の発言を提出したのだ。

結果、虐待はなく、私は叔父の家で楽しく暮らしている、とのことになった。

(後編へ続く)

付記・当ページで発表すると数十万人の方に読みにきていただいた。心から感謝申し上げるとともに、次の報告をしなくてはならない。私(藤井誠二)は加害者親族の青年の手記を掲載したが、当初は実名による告発であった。彼の父親についても実名で書かれていた。しかし、ほどなくして青年の父親の代理人弁護士から、「父親のプライバシー権・名誉権を侵害している箇所がある」と「通知文」が送られてきた。青年と検討した結果、当ページから該当されると指摘を受けた箇所については手直し等を施すことにした。御了承願いたい。