伝説の編集者・岡留安則さんに「沖縄移住」について聞きに行く 第一回

メディア界で、私の世代より上で『噂の真相』を知らない者はいないと思う。私は1965年生まれだが、高校を卒業した頃から読んでいたから、とくに私の世代は創刊からずっと編集長をつとめてきた岡留安則さんの名前を知らない者もいないはずだ。政治権力から芸能人に至るまでスキャンダルを暴くことで、さまざまな議論を喚起していった『噂の真相』はまぶしい存在だったし、どこか畏怖するような存在でもあった。身体をはって、権力や右翼勢力等の暴力装置と対峙する岡留さんは、ある種、マスコミのカリスマ的存在だった。

その岡留さんが『噂の真相』を休刊して沖縄に移住したのは2004年のことである。私が沖縄に仕事場をかまえて「半移住」生活をはじめたのはその翌年のことで、東京ではほとんど会う機会がなかった大先輩と那覇で頻繁に酒を飲むようになった。これも私にとっては大きな、沖縄がもたらしてくれた一つの出会いである。移住11年目になる岡留さんに、あらためて「沖縄に移住すること」について、氏が経営するバー「瓦家別館」で聞いた。

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■沖縄に移住してきた良かったと思っている

■移住直後に起きた沖国大・米軍ヘリ墜落事件

■「癒し」を求めて沖縄に移住してきましたと言えなくなった

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■沖縄に移住してきた良かったと思っている■

藤井:

岡留さんが最初、那覇の桜坂で「瓦家」をオーナーから一年間限定でまかされていたときにおじゃまをしたのが、こちらでお目にかかった最初です。いまは前島に「瓦家別館」というバーを出されていて、毎夜、ここにいらっしゃるわけですが、移住11年目の意見を聞いてほしいという声が、『噂の真相』を読んできた同世代の友人知人から聞こえてくるものですから。『噂の真相』を若いときから読んできた「岡留チルドレン」としては僕も聞いてみたいなと。

岡留:

率直に言って沖縄は居心地がいい。移住して後悔の気持ちはゼロだね。来て良かったと思ってるよ。移住して、沖縄で生きていくというふうに覚悟して来たわけだから、『噂の真相』休刊時点より前から沖縄に行こうと決めていたからね。休刊したときにマンションをすでに買っていました。もう新宿で毎晩飲んでる場合じゃない、と。(笑)東京とは思い切って物理的な間隔を開けて、生きてみようと思った。この11年のうちにいろんな人に出会って、いいことも悪いこともあるけれど、自分で選んで住んだんだから、良かったと思っている。

藤井:

『噂の真相』編集部は新宿だったし、岡留さんといえば、やはり新宿ゴールデン街です。新宿から那覇へいくというのは、地理的な気持ちを切り換えるという決意のようなものがあったからですか。

岡留:

新宿を離れたかったんだよね。(笑) 雑誌を25年やって、ほぼ毎日ゴールデン街を中心に東京で飲んでいたし、ほんとうに新宿か六本木という生活を送ってきた。雑誌を出した前後を合わせると30年近くそういう生活を送ってきたわけだから、どっかで切り換えないと、このまま俺は新宿の藻屑と消えるのかと思ったんだ。(笑)

藤井:

東京というか、新宿は仕事の場だったということですか。

岡留:

新宿ゴールデン街がなかったら、『噂の真相』はなかったと断言できるんだけど、毎日いると、もちろんメディア人脈も増えたけど、それをずっとやっていると、マンネリというか、飽きてくるというか。このままではいたくないと思ったんだよ。

藤井:

東京の次が沖縄だったというのは、何か故・竹中労さんのように沖縄を物語ながら発信していこうという思いがあったんですか。

岡留:

移住した時点ではなかった。ほんとうに疲れて、癒しをもとめてきたんだよ。

藤井:

ほんとですか? 岡留さんのイメージと「癒し」という言葉が遠い気がしますけど。(笑)

岡留:

ほんとうだって。(笑)。ゴルフも含めて、最初は海も行って、スキューバもやっていたから、ずいぶん沖縄の自然なんかを満喫したんだ。離島もまわったしね。とりあえずは東京ではできないことをやろうと楽しんだ。

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■移住直後に起きた沖国大・米軍ヘリ墜落事件■

藤井:

沖縄を選んだ理由をあらためて教えてもらえますか。

岡留:

『噂の真相』をやっているときも休暇のときには世界のあちこち行っていたけれど、沖縄も行っていたんだ。沖縄がほんとうに好きだったんだ。でも、こっちでもまたいろいろと発信していこうと思った決定打になったのは、2004年8月に、沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した事件に遭遇してから。沖縄に移住して一週間ぐらいのときだった。

藤井:

そんなに直後だったんですね。

岡留:

癒しをもとめてのんびりしようとして来た沖縄でヘリ墜落事件が起きて、沖縄はまだ「独立」していないんだと感じた。まだ、アメリカの植民地だと痛感したんだ。事故現場に沖縄県警は入れないし、メディアも入れない。米軍が非常線をはって、現場に落ちていたものや、土砂まで何もかも全部、基地内に運んだ。それを見て、癒しで沖縄に来ている場合ではないと思ったんだよ。一人の移住してきた住民として行ったんだけど、のんびりしている場合じゃないんじゃないかと思った。

藤井:

『噂の真相』休刊後の岡留さんの日記をまとめた『幻視行日記』には、移住早々に、[実際、現場を訪れてみると、事故当時の衝撃を物語る黒く焼けこげた校舎の外壁がそのまま残されていた。墜落直後に現地視察した町村外相が米軍ヘリの操縦士の腕前をほめて顰蹙を買った場面は記憶に新しいところだが、道路を隔てて中古車売り場やマンションなどの市街地が隣接しており、一歩間違うと大惨事になっていることは必至というぎりぎりの場所だった。

しかし、沖国大キャンパスに落ちた幸いだったといわんばかりの町村発言のデリカシーのなさは、沖国大関係者や宜野湾市民だけでなく、これまでも基地によるさまざまな被害を受けてきた沖縄県民の怒りを買ったことはいうまでもない。](2004月12月20日)と書かれていて、これ以降も沖縄が直面する問題が多く綴られています。

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■「癒し」を求めて沖縄に移住してきましたと言えなくなった■

岡留:

沖縄が日本とアメリカの抱える問題の最前線だから、そういう気持ちになることは想定は、もちろん、あったさ。1995年の米軍兵士の少女レイプ事件もあったが、ヘリが落ちた現場を見たから、ほんとうに生々しかった。校舎は黒こげになっていて、臭いもすごかった。移住直後にこれだから、いきなり、自分の意識を大きく変えざるをえなくなったというか、自分で自分に対して、「癒しを求めて沖縄に来たのか?」ツッコミを入れたら、「のうのうと癒しを求めて来てる」と、その現場を見たら言えなくなっちゃった。それは俺の性だし、それまでの自分の人生を考えたら、反政府・反権力でやってきたわけですから、休ませてもらいます、というふうには生きざま的にはいかなかったわけだ。

藤井:

その事件がもし、なければこちらでの生活は今とは違ったものになってましたか。

岡留:

沖国大ヘリ墜落事件の衝撃は強かったけれど、オスプレイ配備や辺野古の問題があるわけだから、同じ選択をしていたとは思うよ。

藤井:

沖縄でもブログ等で言論活動は続けておられた。

岡留:

『噂の真相』は編集部という大所帯をいちおう解散したわけだ。そして、俺、一人になった。当時はパソコンも打てなかった。編集部のやつに入力してもらっていたから。(笑) パソコンで原稿を書くようになったのは沖縄に来て、一人でブログを書き出したからです。沖縄でパソコンの勉強をした。(笑)『噂の真相』はスタッフやライターがいて、このネタおもしろいとか、このテーマでいこうということを決める立場だったから。

藤井:

一人になって、書いたり、発信するときに、『噂の真相』時代と比べてやりにくくなったことはありますか。

岡留:

一人でこっち来ると、誰からにあれを取材しろということはできないわけだから、一人でできることは限られた。チームを組んで取材をすることもできないから、一人で発信できる方法にシフトしたということです。

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■沖縄に来てから「模合(もあい)」をやるようになった■

藤井:

沖縄で活動するにあたって「不自由」さみたいなことは感じたことはありますか。

岡留:

ズルかもしれないけど(笑)、東京のメディアに沖縄ネタを流すコーディネイター的なこともするようになった。翁長選対を裏で手伝って、菅原文太にわたりをつけたのも、沖縄に来ていろいろな人脈もできたから、彼らを裏で手伝ったんです。沖縄では、保守系から革新系までたくさん知り合い、そういう人たちと飲んだり、もあいに参加したりしていた。

藤井:

もあいにも顔を出されていたんです? もあいは沖縄の風習でただの飲み会じゃなくて会費というかたちでお金を徴収して、それを誰かが総取りする。で、次の回はまた別の人が会費を総取りするという、いわば民間の頼母子講みたいなものです。

岡留:

してたよ。そういう席で、これまでの自分の経験から、いろいろアドバイスもしていた。東京では自民党の政治家とオモテで飲むことなんかなかったと思うけれど、沖縄ではあるわけだ。自民党とかみんな知り合いになった。新聞の政治部が飲み会をすると、自民党の県連連中がみんな来るから。呼ばれていくと挨拶して、そこで知り合いになるわけさ。

藤井:

こっちのメディア関係者はどう岡留さんをどう「受け入れ」たんですか。

岡留:

最初はいろいろな反応があった。こっちへ来る前に竹中労の石碑をつくる話合いを、知名定男のやっていた民謡クラブのコザの「ナンタハマ」でやったとき、前説頼まれてしゃべったら、「あの岡留かー」と知っている人もたくさんいた。そこで名刺交換して、そうやって人脈をつくっていった。

藤井:

沖縄ではわりと知られていたんですか。

岡留:

沖縄でも『噂の真相』はそこそこ知られていたんだ。というのは、竹中労の連載とかしていたし、沖縄のこともよく取り上げていたからね。

次回へ続く