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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第一回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■少年の実名報道は「犯罪報道」のあり方から考えるべき

■「犯人」と推知されない事件報道は可能だろうか

■イギリスでは「匿名報道」という概念がそもそもない

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■少年の実名報道は「犯罪報道」のあり方から考えるべき■

澤:

たぶん刑事手続きや刑罰の問題に関しては藤井さんと考え方がかなり異なると思いますが、そういう立場で対話をするのが重要だと思います。森達也さんと藤井さんの「死刑」をめぐる対話本『死刑のある国ニッポン』もそうです。

藤井:

澤さんの『英国式事件報道』(文藝春秋)もイギリスのジャーナリストたちの実名報道に対する姿勢や国民性に澤さんが影響を受けながらも、日本のそれと比較するとやはり気持ちが揺らいでいく過程が描かれています。「こうするべき」というべき論ではない。本の中でもイギリスへ「旅」に出られるきっかけや、取材経験を述べられていますね。澤さんの次の文章が印象的です。〔できるだけ、人を傷つけたくない。記者はそう思う。多くの記者はこの仕事を志願した理由として、世の中の困っている人の力になりたい、社会をよくしたい―という情熱があるものだ。そうして記者になったのに、人を苦しめてばかりの自分に耐えられない。考えれば考えるほど「こんなことを書いて、相手はどう思うだろうか」という思いが去来するから、せめてもの工夫として表現をぼかしたり生々しい部分は削ったり、ということになりがちである。〕

そして、自分を見つめ直すきっかけになった事件である、1997年に薬害エイズ事件の公判の取材を続けておられたときに、エイズ発症にともなう悪性リンパ腫が目の奥にできて顔が歪み、苦しみながら激痛のなかで亡くなっていく様を、加害を与えた側の医師から聞いたときのことを書かれています。こんな残酷なことは書かない方がいいのではないかと書くことをためらったら、先輩記者が「それは間違っている」と言い、その先輩記者が遺族の弁護士に連絡をとると、遺族は「むしろ悲惨な事実を書いてほしい」と言っていると聞かされた。書くかないことで傷つけたくないという澤さんの思いがシフトした経験だったそうですね。

澤:

それまで、残酷なこと、記事に書くとご本人が傷つくことかもと推察したら、記者が先回りして配慮し、積極的に報道を抑制するのがいい記者、いい報道だと考えていました。でもこのエイズ裁判のとき、それがむしろ傲慢で怠惰な態度なのだと思い知りました。当事者がどう思うか、書いてほしくないと思っているのか構わないと思っているのか、むしろ書いてほしいのか。これは聞かないと分かりません。そんなこともしないで知った気になっていた自分を恥じました。もっとも「当事者が望むから書く、望まないから書かない」という問題でもないことにも、さらにその後になって新たに気づくのですが…。自分の記者人生の中でどう書いていいのか悩み抜いた事件もありました。何かで急に、考え方が180度変わってしまうことはありませんが、方向性を修正しなくては思うような「気づき」はいろいろありました。

例えば、英語のジャーナリズムの文献を読んでいますと「ニュースは歴史の第一稿」という言葉が出てくるんです。すごい衝撃でした。ワシントン・ポストの社主だったフィリップ・グレアムの言葉で、アメリカの首都ワシントンの新聞博物館にも大きく掲げられています。ニュースは急いで伝えるものですが、それでも全ては過去のことを記録しているんです。それもいろんな角度から細かく。古い新聞は歴史研究の重要資料ですし、「歴史の第一稿」というのは確かにその通りですよね。ニュースが歴史の記録なのだとしたら、「誰」という人名は譲れない中心的な要素です。

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■「犯人」と推知されない事件報道は可能だろうか■

藤井:

いきなり話が横道にそれるようですが、『英国式事件報道』の解説を森達也さんが書いておられますが、本の帯には森さんの言葉として〔事件は個別だ。固有名詞は外せない〕とあるし、文中にも〔事件は個別だ。固有名詞は外せない。その場所にその人がいたから事件は起きた。仮名やイニシャルでは意味を成さない。歴史の第一稿には成りえない〕とあって、あれっと思いました。森さんは、元共同通信社の浅野健一さんが唱えておられる推定無罪の原則にもとづいて、子どもも大人も犯罪報道において実名は出すべきではないというお考えに近いと思ってましたので。で、森さんは、日本は犯罪数が減り、治安ととても良くなっているという話を前提にして犯罪報道について、〔「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」とする無罪推定原則は、近代司法においては最も重要な原則のひとつだ。この原則を根拠にして、「事件を報道する際には加害者や被害者の名前や顔などを明らかにすべきではない」と主張する人は少なくない。つまり匿名報道だ。しかしここには飛躍がある。「容疑者や被告人が有罪と推定されるような扱いをしてはならない」との原則は、「容疑者の顔や名前などのアイデンティティを判決前に報道してはいけない」とイコールではない。名前や顔を出したとしても、有罪と推定されるような扱いをしなければよいだけの話なのだ。〕と書いています。ぼくはこの問題では森さんとはつっこんで議論したことはないのですが、彼は罰が確定するまで匿名で報道する主義だというのがぼくの認識だったのです。なんでもかんでも顔も名前もだすなという少年法61条原理主義ではなくて安心したのですが、〔名前や顔を出したとしても、有罪と推定されるような扱いをしなければよい〕というのは具体的にどうやるかとても難しいと思いますが、事実関係だけを淡々と集めていく方法論しかないのかなと思います。めったにありませんが、警察より先に容疑者を割り出して、さがしだして報道することもあります。桶川ストーカー事件では当時「フォーカス」の記者だった清水潔さん(現・日本テレビ)が実名で犯人を特定しました。澤さんは思われますか。

澤:

この人が警察に疑われている、容疑者である?という事実関係だけを報道したら、世の中の多数の人が「警察が疑うのだからきっと犯人だ、そうに違いない」と思ったとします。そういう反応が起きることは多いかもしれません。これは報道側が「有罪と推定されるような扱い」、つまり「犯人視報道」をしたのでしょうか。結局そういう結果が起きたのだからそう言われても仕方ない、という考え方もあるでしょう。けれど、一方で、報道が犯人扱いしたというより、世の中の偏見の強さによるものとも言えるように思います。そこは整理が必要だし、そうしてこそ、何を変え何に取り組むべきかが少し見えてくるように思います。偏見があることを踏まえ、立ち向かうのも報道の役割とするならどうするか、という次の課題を切り分けることが出来るでしょう。

その場合、問題が起きそうな報道、記述は削除するという考えもあり、その一つが「匿名報道」なのでしょうけど、本当は「もっと深く多角的に書き、より良く知らせることで偏見と闘う」ことがもっと語られるべきだと思います。容疑者が無罪主張をしていることや、容疑者に有利な事情の続報、あるいはもっと日常的に冤罪や冤罪の訴えを紹介していく報道です。

記者が「犯人」を特定したといっても、桶川ストーカー事件は一般的な犯罪というよりは警察権力の怠慢を追及した事件です。そこが特殊であることを踏まえなければなりません。ただし一般犯罪でも、真実であり、大きな公共性があるのであれば、独自調査取材によって犯人を特定するジャーナリストがいても良いとは思います。全てはケースバイケースです。

無罪の推定は重要な原則ですが、基本的には公正な裁判の進め方の問題です。一方で記者の目の前で誰かが誰かを刺したような場合に「この人が犯人かどうか分からない」というのは不誠実ですし、そこは裁判所の確定判決を待つ、というのは。「真実かどうかの判断を司法権力にゆだねる」「司法権力の判断と異なる見解表明を抑える」という面も持つ。それはジャーナリストが取る態度ではないように思います。でもこんな「目の前で…」というのも特殊ですよね。そんな特別な場面にいたわけでもない場合、犯人かどうかを断定するほどの材料を記者が得るのはとんでもなく大変でしょう。警察のような巨大な権力、人、お金がある組織が総力を挙げても詰め切れないものを、記者が見つけるのは至難の業です。謙虚に考えなければなりません。「この人が犯人だ」と言い切ることは、あっても良いけれど、そのためには極度に慎重な吟味が必要だと思います。

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■イギリスでは「匿名報道」という概念がそもそもない■

藤井:

澤さんが著書で何度も指摘されている、「匿名報道」という概念がない、だから逆に「実名報道」とあえて言う表現にあてはまる英語がないというイギリスのジャーナリズムの現状を知ることはとても有益なことだと、少年事件の実名か匿名かで揺れる日本でとても有益だと思うのです。揺れるといっても、本質的な議論が起きていないというのがぼくの現状認識です。今回の川崎事件では「凶悪だから実名報道すべき」とか「凶悪だから少年法61条をなくせ」、「凶悪だから、少年法の対象年齢を18歳未満に引き下げて、(川崎事件のような18歳の少年が起こした事件については)実名報道をできるようにするべきだ」という世論が盛り上がっているようですが、まず、凶悪だからという言い方に引っ掛かります。凶悪な事件はずっと以前からあるし、何を基準に「凶悪」というのかもある。これはそうした感情をフックにした議論ではなく、そもそも犯罪報道はどうあるべきかという視点から議論をするべきだと思います。

澤:

悩むところですが、大前提があると思っています。実名報道で実名を出すのはけしからんという批判をするのは、それは「晒す」というか制裁を加えるニュアンスを実名報道にみているんです。とくにネット上ではそういう「晒す」意味合いを強調し、が強いけれど、そこにフォーカスしている人がすごく多いと思います。日本的です。週刊文春や週刊新潮がやってきたことはその時々でいろいろな意味で問題提起もあったとは思いますが、ネット上の写真や実名は単なる「攻撃目的」に純化されています。そういうリンチみたいなことは間違っていると思うし、無責任だと思う。実名を出すということは一つの言論・表現活動として議論されるべきなのに、ネット上の遊びも含めたリンチに悪用するのは間違っていると思います。言論自体の質を下げます。

次回に続く

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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