【連載】17歳の殺人者 第49回 時代の暗部から眼をそむけるな

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時代の暗部から眼をそむけるな

●一九九○年某月某日

足立区で十数年、中学で教えている男性教員に会う。

この街はもともとツッパリが多いんだよ。経済的にけっして豊かとはいえないし、街の成り立ち方など、いろんな理由がある。でもね、下町っぽい人情っていうかさ、そういう子どもたちを抱える力があったんだ。学校はそういう連中を締め出すことはしなかったし、なにより地域のなかに連中の居場所があったんだ。声をかけてくれるオヤジやおばちゃんがいたんだ。それに、ツッパリ連中はかれらなりにルールがあったし、絶対にここの線だけは踏み外させないって見張ってる先輩とかがいた。でも、いまはそれがずるずるとなくなっちゃうから、ああいう事件が起きるんじゃないかなlとその教員は私に語った。

街の力。人間が疲弊すれば、やはりその人間たちが住む街の力も疲弊するんじゃないか。経済効率こそ第一とされ、カネやモノをひたすら追いかける現代。人間たちは疲れ切っている。だから、「やっかいもの」は許容できないのだろうか。街はカオスであってほしい。混沌とした、さまざまな人のにおいが渦巻いていたほうがいい。そこに「異端」や「やっかいもの」を巻き込む力が生まれるんじゃないか、とその先生の話を聞いて思った。

●一九九○年某月某日

あと数回の公判で、論告求刑である。開廷の一時間前に傍聴券の抽選。運よく当たり、法廷にはいる。柵を隔てて、数メートルむこうに生々しい世界が再現される。少年たちの親の証言。私の育て方がまちがっていました、となかば絶叫調で尋問に答える。聰くのがつらい。そんな光景に対時していると、私はいつもある呵責にたえきれなくなる。それは、眼前の現実に対時して、自分はいったいなにができるのか、という問いでもある。なんのためにここに座っているのだ、と。

公判で出た証言を記事にするために座っている。いや、なんのために書くのか。だれにむかって書いているのか。そういう突きつけを自分に課さないと、とても対時することができない現実がある。法廷内の声は右から左へ流すことのできる情報ではない。生きている声だ。その生き物が素通りしてしまうような目や耳にはなりたくはない。

●一九九一年某月某日

一審判決。テレビ東京の夕方のニュースに出演。裁判所前に立ち、友人の記者からマイクをむけられ、解説とコメントを述べる。帰りに日比谷公園をひとりで歩く。われわれはなにもあの事件から学んでいない。いや、われわれはいかなる「凶悪」な事件にも鈍感になり、「またか」とつぶやくだけになっている。被害女性の苦しみとうめき、絶望だけがとり残されてしまっている。

(初出『三輪車疾走』三二号、一九九二年に加筆)

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