【連載】17歳の殺人者 第28回 4.少年たちの通った学校と住んでいた街 少年たちが卒業した東綾瀬中

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4.少年たちの通った学校と住んでいた街 少年たちが卒業した区立東綾瀬中学

Aたちが卒業した区立東綾瀬中学は一九六四年に創立された。

足立区史にはこう紹介されている。

〔もともとこの地域は、田園地帯であったが、昭和三七年土地区画整理が行われ、住宅地として急激に発展し、人口もしだいに増加してきた。またこの地域は区立第二中学校の学区域に属し、生徒の通学時間は三○分ないし四○分を要していた〕

「校内暴力」で世の中が騒然とした七○年代の終わりから八○年代にかけての時期、足立区内の大半の中学でも同様の事態になったが、当の東綾瀬中学ではこうした問題は起きなかった。

同中学の様子をよく知る、足立区内の中学につとめるX先生に聞いた。

「あの学校では代々"伝統"として、ほかの学校が荒れていても自分たちの学校だけは荒れないようにする厳しい指導方針があった。学校のレベル引き上げに熱心なのです。足立区内では有名私立高校に進学する生徒も多いエリート校で、"足立区の学習院"と言われたほどなんです」

過去二回にわたって、文部省研究指導校になり、地元の「名門校」としての実績を積み上げてきた。「地域と連携をとる」という名目で、体育館で「夏の盆踊り大会」の練習をしたときに部活の生徒を動員して写真を撮り、研究報告に「こんなに熱心にやっています」というふれこみで載せたり、「町ぐるみクリーン作戦」と称して、指定された日に地域の中学校の生徒や教師を動員してゴミ拾いをさせたりしてきた。

「"よい学校"の裏側には、体罰と校則で生徒をしばりつけ、受験戦争に追い立てる指導があったんです。授業をつぶしてはいけないという名目で遠足は一○年間なかったぐらいで、それが自慢でもあった」(X先生)

同中の徹底した管理主義は、前任の荒井穂一氏が四代目校長として着任した八五年から一層つよくなったといわれる。

それは何人かの教師による激しい体罰とそれを容認する体制である。体罰を嫌がり、学校に来なくなってしまった生徒も多い。また、いじめも多く発生し、それを苦にした「長期欠席」の生徒が一日平均五○人はくだらない時期もあった。このことは同中をよく知る教員がみな口をそろえることである。

「母子殺人事件」の冤罪をかけられた三人の少年たちも、いじめの対象になり長期欠席していた生徒だった。

「学校に来ない生徒をあえて来させようとはしなかったし、服装が少しでも違反していると学校にいれさせないという"登校停止"までさせていたんです。あそこは名門校のイメージをとりつくろうとするために"問題生徒"を排除していたんです」(X先生)

東綾瀬中学が「問題生徒」を排除する方針をとってきた理由は、校内暴力の鎮静化だけが目的ではない、という意見も教員たちから一様に聞かされた。

それは、同校が現役校長が最後に勤める「上がり」の学校であることだ。校長会の会長などを経てきた「功労者」が教師人生の有終の美を飾るためには、いかに足立区という教育困難とされる地域でもヘマをするわけにはいかない。また、そのひとつの理由に、学区境の近くに区長の住居があり、その区長の長女が同校のPTA会長の座にあること。また、区長は同校の隣接地に都の武道館を誘致しており、その体面を保たねばならなかったことがある、という。

八七年には山口敏男氏が新校長に着任する。氏はそれまでの管理・暴力体制を「どんな生徒でも受け入れる教育体制」へと改革に着手する。

事件に関して、東京地方検察庁は足立区教育委員会指導室指導主事である古川和夫氏を取り調べ、その証言に基づき次のような報告がされた。

〔1.同中学校は、昭和三九年に創立された田んぽの中の学校であったが、約一○年前から、千代田線の綾瀬駅が学区内に移転されると、急激に土地開発が進んで新興地域の学校となり、多数の人口が流入、校風が乱れ、校内暴力が多発したため、校則を厳守させる指導が実施された。

2.登校時、校門に生徒を座らせて、髪や爪の長さ及び服装等の基本的生活習慣についてまで厳しくチェックし、違反者を家に帰し、親のチェックを受けて再登校するように指導してきたが、片親や共働きの家庭では、家に帰されても保護者がいないため、指導されたことを是正できないので必然的に登校できなくなり、これが長期欠席者を生み出す原因になっていたのではないかと思われる。このような厳しい指導体制により、同校は生活指導の面で研究奨励校に指定され、学力的にも、区内では上位の学校とされていたが、その反面、落ちこぼれも多く出るようになっていた。

3.昭和六○年代に入っても、五○年代の校内暴力の名残として、体罰やいじめが依然として残っていたようで、教師による体罰は、生徒の学校に対する恨みを醸成し、これが学校への投石(ガラス割り)、破壊、学校荒らし等につながり、またいじめは、登校拒否者を生み出すことになった〕

よって、同区教育委員会は「昭和六○年度から欠席者の急激な増加が認められた」ため、「足立区立扇中学校の校内破壊などをなくす等の鎮静化に功績のあった」同校の教頭である山口敏男氏を東綾瀬中学の校長に抜擢し、同校長の提唱する「受け入れの教育に期待」することになったのである。

一九八七年に山口校長が着任してからの様子は、検察調書に次のようにまとめられている。

〔1.しばらくは投石事件や放火事件が続いたが、それまでは、事件を隠すようにし、とかく教育委員会に対して閉鎖的であった同中学校が、山口校長になってからは、その都度報告があがってくるようになり、何かあれば指導が可能になり、全部で一三件の告発を警察におこなった結果、学校のガラスなどを割った極青会の少年A、Dらが検挙されるに至るようになり、同少年らが保護処分となった後、弁護人らが同道して学校に謝罪にきた際、校長が少年らと会い、原因になっている体罰を無くすように努力していることを話し、少年たちも学校に対する攻撃を止めるように説得して帰して以後、学校に対する攻撃は収まった。

2.その一方で教師で結成する学年会では校則を守らない不良生徒の受け入れを拒否し、どんな生徒でも学校に受け入れて教育することこそ教育の本分であり本義であるとする山口校長のいわゆる「受け入れの教育」に抗議していたが、次第に校長への協力者が出始めた〕

山口氏は旧体制と水と油の関係であったが、次第に協力体制ができ、問題解決にあたっていた状況がわかる。

当の山口校長自身も検察の取り調べを受けている。

調書などによると、まず、氏が着任して最初の行事である四月七日の入学式が妨害された。その前夜の四月六日から七日の早朝にかけての犯行とみられ、式場に石灰をばらまき、日の丸や区旗に落書きされたほか、準備してあった会場がめちゃくちゃにこわされていた。

山口校長がその件に触れ、「私が当校に着任する前に教育委員会のほうから、あの学校は体罰があるので、そういうことのないようにと指導を受けてきたが」、「早々現実に実態を見てなんとかしなければと思いました」と語っている。

それからも卒業生による校長室の全焼事件などが相次ぐが、Aらが、自らおこなった破壊行動について弁護人同道で謝罪に来た際、山口校長はその理由を一人ひとり尋ねている。

Aらは、執勧な破壊行動を繰り返す理由を、「先生に殴られた」、「プライドを傷つけられた」、「努力して試合でメダルを取ったのに、"お前はその資格がない"と言って取り上げられてしまった」、「(手の甲の生傷を示して)ある先生に体育館で靴を持って殴られたときの傷で、いずれ仕返ししてやろうと思っていた」などと山口校長に話したという。

〔昭和六二年度の三学年の学年会では、特定の生徒の氏名を挙げて、その子たちは校長名で登校させないでほしいと言ってきました。学年会の名で、学校の規律を乱す者が一人でもいれば全体の生徒に悪影響があり、とてもやっていけない。一人と何百人の生徒のどちらを校長はとるのですか、ということを言ってくる実情にあった〕

と、山口校長は旧体制を支える教員(学年会)たちからも批判の矢おもてに立たされていたことも述べている。

かつて東綾瀬中学に在職していた教員が私に語った。

「歴代校長の方針に問題があり、とりわけ前任の荒井校長時代のツケがまわってきたと痛感しています。荒井氏の方針は山口氏と一八○度ちがっていた。初代から四代めの荒井氏まで方針は同じで、体罰にしても、もし問題化した場合、"責任は私にある"と教職員に言明していた。ワンマンな人でした」

荒井氏までの同校の校長歴任者の共通項は、都の校長会の会長まで昇りつめているという点である。荒井氏にいたっては二度もその地位についている。

また、ワンマンぶりを示すものとして、ふつう校長の席は校長室にあるものなのだが、同校の場合は職員室の中央に校長の席が設けられ、教頭席は端のほうにあった。その校長の座席は校長会の出張などで空席がちだった。山口氏になって、教頭席がふつうの学校のように職員室の上座に移されたとき、教頭は喜んでいたという。

教頭が替わるサイクルがほぼ二年単位で、またたくまに他校の校長として出て行った。また、七~八クラスある一学年のうち、女性教員の担任は一人程度だった。

「それは校長が男の先生だけで厳しくやって行こうという方針だったし、数少ない女の先生も生徒に対して暴力をふるったり、"テメエ、このやろう!"と怒鳴るようなタイプが多かった」(元東綾瀬中教員)

タケシ(仮名・十七歳)はCと同級生で、同じ部活(バスケットボール部)にはいっていた。Cは顧問の女性教員の体罰がいやで退部したと公判の場で証言しているが、タケシも同様だった。

「おれは一年のときにやめた。病院に行ってから遅れてったら、殴られたんだ。女の先生だから殴れないから、"バカヤロウ、調子こくな"って言ってやった」

ことあるごとに殴られた。あるとき、職員室で教員に口応えしたため、竹刀で殴られた。喉にあたり、血を吐いた。さすがに耐えられなくなったタケシは蹴りかえしたが、そこで担任に止められた。

「女が殴られたり、蹴られたりしてるのもしょっちゅう見たし、男でも、血吐くまでやられたやついっぱいいましたよ。ハサミや机を投げられたやつもいた」

タケシがいまでも忘れることができないのは、「キリスト教で、格闘技とかしちゃいけないやつ」のことである。「エホバの証人」信者の生徒がいたのだった。だから、その生徒は体育は毎時間、見学をしていた。教義で、柔道や剣道などの武道は禁じられている。

「休み時間に、そいつ走ってたら、なんだ走るのはいいのか!って、教師にボコボコにぶん殴られた。顔面に蹴りまではいった。何十発やられたか、わかんなかった」

Cとタケシが所属していたバスケット部の顧問だった女性教員に私はいくつかの質問をぶつけた。

――部活で殴るとか、体罰をするということはあったのですか。

「殴るとか言うと、暴力的なあれっていうふうに思われちゃうかもしれないけど、なんていうのかな……そんな憎たらしくってとかね、そういう意味で殴るっていうんじゃないですよ」

――理由というのはなにかあるのですか。約束破ったり、集合時間に遅れたり。

「そうですね。だから、憎たらしいとか、そういう意味で叩くとかはやらないです。熱心になればなるほど、やっぱりなんとかしてあげようと思うと、絶対許せないことは許せないとかね。すごく腹が立って……手が出るときもあると思うんですね」

さきのX先生は言う。

「学校から追い返されて、結果的に長期欠席する子どもやいじめなどで登校拒否になっている子どもは、荒井校長が最後の年にいちばん多かった。毎日、職員室の黒板に欠席者数が貼り出されていました」

荒井校長は職員室内で、「そうしないとほかの生徒たちに影響があるからだ」と言い、「校長、きちんとしてから来い、ということでいいんですよね?」と質問してくる教員に「それでいいんだ」と答えていたという。

一時間目から登校せず、二時間目以降から登校してくる生徒を見つけると、職員室から教員が飛んでいき、「きちんとしていないから帰れ」と追い返した。

「校内暴力」の嵐が終息に向かう八○年代初頭、同校は文部省の研究奨励校だった。他校の教員が授業を見学に来て、あまりの整然さに驚きながらも、ところどころにある空席を指して、「あの生徒たちはどうしているんですか」と質問していた。

この「問題生徒」排除の方針は父母のあいだで問題になり、一九八六年の荒井校長が最後の年に区議会で取り上げられている。同校の学年主任や担任には区から実態調査の書類がまわってきた。これほど教員の暴力が横行する中学校を私は聞いたことがなかった。

「体罰は日常でした。それが恐ろしくて学校に来れなくなった子どももいたし、親が区教委に抗議して、子どもを学校に出さなくなったケースもあった。担任が替わるまで行かさない親もいた。荒井校長時代の教頭はよく区教委に呼び出されていた。鼓膜が破れたりするひどい体罰もたくさんあったのですが、ほとんど表には出なかった」(元東綾瀬中教員)

タケシは教師が体罰をふるうさまを形容して言った。

「もう、容赦なく、先輩が後輩をシメてるかんじなんですよ。くたぱるまでやる、というかんじです」

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